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黒の鍵取り
第一話 白い剣と鱗の鎧

1


村は音に満ちていた。話し声や笑い声、家畜の鳴き声、仕事をする音。そこに暮らす人々の営みが音となって村中を満たしているのが、コルトの村の日常だった。しかし今、村から聞こえてくるのは、穏やかな日々の遠音ではなく、悲鳴や泣き声だった。

倒した相手から剣を奪うと、男は構えた。ろくに手入れのされていない痛みきった剣であったが、ないよりはましだった。男が向かい合ったのは、村を突如襲ったならず者たちの一人だった。

男には剣の腕に覚えがあった。かつてこの地に隠棲する前は、都で剣を振るっていた。男の見たところ、このならず者たちは、食い詰め物の寄せ集めに過ぎない。威勢よく剣を振り回してはいるが、ろくに剣の鍛錬を積んでいないは明白だった。この程度の素人相手なら、斬って捨てることなど容易い。

案の定、相手は大仰に剣を振りかぶり、自ら重心を崩すようにして斬り掛かって来た。男はそれを難なくかわすと、何にも覆われていない、剥き出しの首筋へと、剣を叩きつけた。剣は相手の首の肉に切り込むことはなく、弾かれた。剣が鈍いからではない。いくら鈍らであっても、鉄の塊で思い切り殴られ、傷一つつかないなどということはあり得ない。男の手には、硬い、まるで金属を叩いたような、痺れが残っていた。

思いもよらぬ出来事に男は眉をひそめた。対照的にならず者は口元をにやつかせた。今まであたり構わず暴れまわっていたならず者の仲間たちも集まってきては、男を取り囲んだ。

村を覆う悲痛な音は、日が傾き、あたりが茜色に染まるころまで響き続けた。うち捨てられた農具や引っくり返された荷車からは長い影が伸びていた。倒れた男の身体はその横たわる地の色を赤くまだらに染めていた。


2


夜明けを待って、ハルは荷物をまとめた。あけぐれの静けさを覆っていた木々の葉の合間から、次第にあさぼらけの薄明かりが穏やかに入り込んでくる。その間にハルは冷えた体で水を火にかけ、あたたかな湯を飲み、寝具代わりのボロ布と一緒に身の回りのものをくるんでしまった。火の跡を始末し、荷物を背負って発つころには、あたりの様子も見渡せるようになっていた。首から提げた古びた鍵を握り、一日の安全を祈ると、再び襟元にしまった。

ハルには歩きなれた場所だった。村までの道程はもちろん、獣道や猟師の仕掛ける罠がどこにあるのかも大体わかっていた。誰がどの方面に罠を仕掛けるのかは厳格に決まっている。ハルが通る辺りを縄張りにしている猟師にはあらかじめ話を聞くことにしてあった。ハルの仕事は彼らと競合するものでもないし、あちらとしても罠を台無しにされたくはないからか、気兼ねなく教えてくれる。ハルの方でも通りがかりに獲物がかかっているのを見かけたら猟師に伝えるようにしていた。広い森に仕掛けた罠を一つ一つ巡回するのはそれなりに大変らしい。

このあたりを縄張りにしているのはノグだった。猟師は自分がどういう罠を仕掛けるのかあまり人に話したがらないものだが、ハルはノグの仕掛ける罠のことをよく聞いていた。仕掛けは簡素な方が気づかれづらい。仕掛けが複雑なほど擬装が難しくなる。ノグの罠は足を取るのではなく網で獲物を包んで宙吊りにするというものだった。これは仕掛けるのに手間もかかれば技術も要るが、その代わり獲物が痛まず他の獣に奪われる心配もないという利点があった。知らなければハルもかかってしまうかもしれない。

あらかじめ教えてもらっていた付近に来ると、木に吊るされた網の中に黒い物が丸まるようにして納まっているのが見えた。(獲物だ)とハルは思った。最近ノグの猟獲が振るわないのを知っていたので、どんな獲物がかかっているかも確かめないうちに(これは喜ぶだろうな)とハルは少し嬉しくなった。

ハルが網に近づいてみると、それは獲物ではなかった。

網の中の黒い物は黒く長い外套で、その端からは皮のブーツがはみ出していた。丸まった背を下にして、網を吊り下げる縄に引っ張られるように足が上の方に放り出されている。ハルは(これは獲物じゃない)と慌てた。(生きてればいいけど)と心配になりながらもとにかく(助けてあげないと)と思って木に吊るされた網に近づこうとすると、中の物体が身を揺すった。ハルは驚いて足を止めた。

「ちょうどいいところにきた」黒い外套の中で男の声がした。「そろそろ起きようと思ってたんだ。ちょっとこの縄を切ってくれないか」

「大丈夫ですか」とハルは聞いた。

「よく眠れたよ。安全で快適だ。獣に襲われる心配もない」

なにを言っているのかハルにはよくわからなかったが、とにかく(下ろしてあげないと)と思った。

「ちょっと待っててください」ハルは網を吊るしている縄を見て言った。太く頑丈な縄がちょっとやそっとでは外れないようにしっかりと結び付けられてある。「なにか切るものを取ってきますから」

「その必要はない」外套の中で男が言った。「切るものなら足元にある」

ハルの足元にはなにもなかった。罠の吊るされた木の根元に、小さな袋と、布に包まれた長い物が落ちていた。「それを使え」と外套の中から言うので、ハルはその長物の包みを解いてみた。中からは使い込まれてはいるがよく手入れしてありそうな鞘に納まった、一振りの剣が出てきた。

「ちょっと待ってください」

ハルは柄を手にし、少しだけ剣を引いた。輝く白の剣身がわずかな擦れ音を立てて姿を見せた。

「なにを待つ必要がある。それで斬ればいい」

「でも……」ハルは心配になって言った。「いいんですか?」

「さっさとやるんだ」外套の中の男は苛立たしげに言った。「こんなにノロノロやってたら、また日が暮れてしまう。ここでもう一泊したって宿賃は出ないぞ」

ハルは少しムッとして(そうまで言うなら)と剣を抜いた。(言うとおりにしてあげよう)と木に近づいた。木の根元には草が茂ってはいるが、人一人の重さを受け止めるほどではなかった。地面を何度か踏んでみるとごつごつした硬い感じが足に伝わってくる。

ハルが剣を大きく振りかぶって、一気に振りぬくと、縄は元からあった繋ぎ目が解けるかのように切り離された。

網の中の外套の男は、ハルが思ったように背中から地面に叩きつけられることはなく、空中で猫がやるように身を横に捻ると、手足を下にして地面に着いた。

「すごい」ハルは思わず声にした。「まるで跳猫トビネコみたいだ」

「だが縄抜けは得意じゃないんだ」男が言った。「ついでにこの網も切ってくれるか?」

「もちろん」

ハルは剣の切っ先を引っ掛けるようにして手早く網目を何箇所か切った。男はそれでようやく丸めていた体を伸ばすことができた。ハルよりも随分と背の高い男だった。

ハルは手にした剣をまじまじと見つめた。よく使い込まれているが何か特別な剣のようには見えなかった。しかしよく見ると、柄には質素ではあるが装飾が施してあった。その紋にハルは見覚えがあった。

「いつまでそうしてるんだ」男が言った。

「え? あぁ」

ハルは慌てて剣を鞘に納めた。それを男に差し出しながら尋ねた。

「エトリアから来たんですか」

「どうしてそう思う」

「その剣を見て」

「これか」男は剣を布に包みながら言った。「その通り。これはエトリアの剣だ。よく知っていたな」

「父が昔エトリアにいたそうなんです」ハルは少し嬉しそうに答えた。「それで見覚えが」

しかし男は「そうか」と答えたっきりだった。

男はエトリアの剣とだけ言ったが、ハルはこれがエトリアの衛士の剣だと知っていた。遠い異国の剣士とこんな山の中で出会うというのはいかにも(不思議だな)と感じられた。(滅多にないことだ)と思うとハルはいろいろ話を聞いてみたい気持ちが募ってきたが、男の方はあまり愛想の良さそうな感じではなかった。

「旅の途中ですか」とハルは聞いてみた。

「こんなところに住んじゃいない」

「旅人が通るような道でもないですよ」

「しかし獣は通る」男は冗談とも本気ともつかない口ぶりで言った。「獣が通るなら人も通る」

「そんな無茶な」

「現に通りがかった人間がいたな」男は口元だけを歪めて笑った。「礼を言っておこう。下りる手間が省けた」

「それは、通りますよ」ハルは少し照れながら応えた。「ボクはこんなところに住んでますから」


3

 

男はグリエルモと名乗った。山の向こうにあるヴィニアの街に向かう途中で道に迷ったということだった。グリエルモの言い方では「近道をした」そうだが、明らかに遠回りだった。あげくにノグの仕掛けた罠に引っかかっていた。それもグリエルモの言い分では「一晩を過ごした」ということだった。「安全で快適なベッドだった」そうだ。(色んな考え方があるんだな)とハルは感心した。

ハルはグリエルモと連れ立って半日ほど歩いた。ヴィニアへ向かうには人通りを行くのが一番早い。それには一旦コルトの村に行くのが確実だった。ハルも仕事を終えて戻るところだったので、村まで案内することを申し出た。道中、色んな話が聞けるのではないかという期待もあった。

日が真上を過ぎるころになって、少し開けた場所で、二人は休憩することにした。ハルは背負っていた荷を脇に置くと、近くの倒木を引っ張ってきて椅子代わりに置いた。荷から幾許か薪を抜いて火をつけ湯を沸かした。

「よくこんなものを背負って歩けるな」

グリエルモがハルの荷に手をかけて持ち上げてみようとしていた。木の枝が、グリエルモの上背と同じくらい積み上げられて、背負子にくくりつけてあった。ハルが昨日一日かけて集めたものだ。

「見た目ほどじゃないですよ。枯れ枝ですから」ハルは笑って言った。

グリエルモは食べ物を持っていなかったので、ハルは自分の昼食を分けて半分ずつ二人で食べることにした。小麦粉にバターを練りこんで丸めた団子だった。

「どうです。美味しいですか」

「実は三日間なにも食べてなかったんだ」グリエルモは練り団子をかじりながら言った。「するとなんでも美味しく感じるようになる」

「本当ですか」ハルは驚いて言った。「それならもう少し食べたらどうですか」と言いながら、ハルは自分の練り団子をもう一つ二つグリエルモに差し出した。「三日も食べないで、山道を歩くなんて、無茶ですよ」

「あぁ、そうだな。もらっておこう」

食事を終え、あたたかな湯を飲みながら、ハルはそれとなくグリエルモの旅について話を聞いてみようとした。ヴィニアから先はどこへ向かうのか。エトリアからここまでどんな旅程を辿ったのか。その中で出会った思いがけない出来事──どんな冒険談があったのか。しかしグリエルモはおおよそ「大した事件はなかった」とつれない返事だった。

「強いて言えば、鳥や獣しかいないような山の奥で見も知らぬ子供に団子を恵んでもらったということくらいだ」

「それこそ、大したことじゃないです」

それから再びハルとグリエルモは山道を歩いた。一見、代わり映えのない景色ばかりが続いていたが、ハルには歩きなれたいつもの帰り道だった。しかしグリエルモにとってはそうではない。

「随分遠いな」グリエルモが不満そうに言った。「ここ、さっきも通らなかったか」

「通りませんよ。ほら」ハルは少し先の藪を指して「あの岩が目印なんです。あんな岩、今までにはなかったでしょう」

「そうだったか……?」

「そうです。安心してください。ボクは迷いませんから」

「どれくらいかかるんだ」

「そうですね……日が沈む前には帰り着きます」ハルはにっこり笑って言った。「よかったら泊まっていってください。父も喜ぶと思います」

「たしかエトリアにいたと言ってたな」

「えぇ、そうです」

「それなら顔の一つでも拝んでいくことにするか。こんな辺鄙なところに移り住んだっていう変わり者の」

「いいところですよ」ハルは口を尖らせた。「村の人たちもみんな気さくで、親切で、いい村ですよ」

「そうに違いない」グリエルモは口元だけで笑った。


4


日が傾き影が目に見えて長くなってきたころ、ハルとグリエルモは山道に出た。

「ここまで来ればもうすぐですよ」と言うハルをよそにグリエルモは辺りを見まわしていた。一方を森に、もう一方を崖に挟まれた細道だった。グリエルモが崖を見上げると、せり出す屋根のように木々が茂っているのが見えた。

「上には気をつけてください」ハルが言った。「石が落ちてきたときは、頭をかばいながら、崖にへばりつくんです」

道なりに登っていくと、やがてコルトの村が見えてきた。

「着きましたよ」とハルが嬉しそうに言った。「ボクの家は少し離れたところにあるんです。でも折角だから、村に寄っていきましょう。みんな歓迎してくれると思います」

ハルがグリエルモを連れて村に近づいていくと、妙な感じがするのに気づいた。はじめすぐにはわからなかったが、村に近づくにつれ、次第にはっきりとわかってきた。

柵を越え村に入ると、近くの水汲み場に一人村人がいた。その村人は、ハルたちの姿を目にすると、さっと顔を背け、小走りで屋内に消えていった。

「なるほど、たしかに歓迎してくれているようだ」グリエルモはまた口元だけで笑った。

「おかしいです」

村に入る前から、ハルはなにがおかしいのかに気がついていた。普段なら村の外からでも、もっと、人々の話し声や、色々の仕事をする音が聞こえてくるはずだった。それが村に近づいていっても聞こえてこない。崖の合間を切って流れる風の音や、それに揺さぶられた木々の葉がこれ擦れ合う音だけが満ちていた。

「ひとまず村長の家に行ってみましょう」ハルは背負っていた枯れ木の山を置いて言った。「村の人たちもそこにいるかも」

「歓迎会の準備でもしてるのか」

「そうだといいんですけど……

ハルたちが登ってきた道は言わば裏道に当たる。麓の町から山を越えて行く道がコルトの村を突っ切っていて、それが言わば村の大通りになっていた。いつもなら村人たちで賑わっているはずの大通りには、やはり物音一つ立てる物はなかった。

「さびれた村だ」

「いつもは違うんです」

「それに大分ボロがきてるように見える」

「それは、都会と比べれば、そうかもしれません」

「町に出たことはあるのか」

「麓のテレスには」とハルはコルトから一番近くにある小さな町の名を挙げた。「何度か行きました。仕事で」

「あそこは大都会だ。枯れ木なんか落ちてないだろう」

「荷物を運ぶんです。時折そういう仕事があるんです」

「並みの駄馬よりも役に立ちそうだ」

「馬は賢くて逞しいですからね。彼らより役に立とうとしたら、大変ですよ。そこ、曲がりましょう」

村長の家は裏通りの奥の方にある。ハルが大通りを折れて裏路地に入ると、グリエルモもそれに続いた。家と家に挟まれた通路で、日の傾く時間帯には壁に遮られてあまり明かりが入らない。薄ぼんやりとした細い道だ。

裏路地を進んでいくと、ハルの後ろから、がちゃりと、硬いもの同士がぶつかり合うような音がした。何かぶつけたのだろうか、ハルは振り返って「狭いですからね。気をつけて──」と、言い切らないうちに、息を飲んだ。グリエルモの背後で、肩までかかる髪の長い男が、両手をかざすように頭上に挙げ、その手に持った鎌を、今にも振り下ろそうとしていた。(いけない)とハルは思った。咄嗟に「後ろ」と叫んだが、グリエルモは表情を変えもせずに「わかってる」と言った。

「歓迎会には慣れてるからな」

薪を割るようにまっすぐ振り下ろされた鎌を、グリエルモは振り返らず、布に覆われた剣で受け止めた。跳ね返りに負け、男の手から鎌が跳んだ。グリエルモの後ろ蹴りが男の腹に入り、男の体は裏路地の影の外にまで飛ばされた。

その様子をハルは呆気に取られて見ていた。相手を一瞥だにせず倒したのは(すごい)と思った。(だけど一体……)誰がどうしてこんなことをしてきたのか、ハルは不思議に思った。暗がりの一瞬では、相手が村の人間であるかどうか、判別できなかった。

ハルが裏路地の外の明るみ──表通りにまで飛ばされた男のことを気にしていると、しかしグリエルモは剣を、構え直す間もなく、ハルの方に振るってきた。

突くような動きだ。それが見えた瞬間、ハルは咄嗟に身を屈めようとした。詰屈に重心の移動が追いつかず、尻もちをついてこけた。剣はハルの頭上を掠め、激しい音を立てた。

「な、なにを──」ハルはグリエルモを睨んで声を上げようとしたが、すぐに異変に気づいた。グリエルモが突き出した剣は、ハルの頭上を越え、その後方──ハルの背後に立つ男の手にした棒状のものを受け止めていた。

尻をついたまま仰ぎ見るように後ろを向いたハルは、今度はしっかりと相手を見る時間があった。路地の奥には他にも数人が火掻き棒だの鍬だのを手に手にしていた。足音に視線を戻すと、表通りにも数人の男が待ち構えていた。

ハルの頭上に突き出された剣の、覆いの布の上から、グリエルモは鞘の根元のあたりを逆手に掴んでいたが、もう一方の手をその柄にやった。ハルは咄嗟に「待って」と言った。「みんな一体なにをしてるんだよ」と、全員に聞こえるよう、大声を上げた。

「ハルじゃねえか」と男たちの一人が言った。

「なにしてんだ、こっちにこい」「そいつから離れろ」と口々に言う。ハルが何か言っても異口同音を繰り返すばかりだった。

ハルの頭上でかちゃかちゃと小刻みに音が鳴った。ハルの背後の男、グリエルモと剣を合わせ、せめぎ合っているその青年は、歯を噛み締め、思いつめた顔でグリエルモを直視していた。

「ザジ」と鋭くハルは青年を呼んだ。「やめるんだ」と抱きつくようにして、その棒を持った腕に絡みついた。「はなせ」とザジは叫んでから、今気づいたように「ハルか?」と言った。

「さっきからそう言ってるだろ。なんなんだよ一体、もう」

ザジは「いいからどけ」と振りほどこうともがき、ハルの頭を手で押しやって引き剥がそうともするが、ハルは「痛い痛い」と言いながらも、ザジが暴れないようにしがみついていた。

二人の様子をみてグリエルモは構えを解いた。「その下手な踊りも歓迎会の出し物か?」と言いながら、布に包まれた剣を外套の内側にしまった。それから目線だけであたりを見渡す。男たちもグリエルモを見ていた。グリエルモは笑いもせずに言った。「随分と愉快な村なようだ」

「なにが愉快なものか」

そう言って男たちの間から姿を現したのは背の低い老人だった。「こら、どかんか」と怒鳴りながら、小さな体をねじ込むように前に出てきて、乱れた白い髭とわずかな頭髪を整えた。老人はコルトの村長だった。

「このばか者ども」村長はハルとグリエルモを取り囲む男たちを見渡して言った。「あれほど大人しくしておれと言うたのに」

男たちの一人が何か言おうとしたが、村長は「黙れ」と一喝した。「お前たちは戻っていろ。余計、事態がややこしくなる」

しかし「そうは言ってもよ」といまだハルに組み付かれていたザジはたじろぎもしなかった。「こいつ、どうするつもりだ」

村長は眉をひそめたが、ザジには何も言わず、ハルに視線を投げかけた。

「ハルよ、昨夜はどこへ行っておった」

「柴刈りです。いつものように」

「そちらの御仁はどうされた」と老人はグリエルモを一瞥した。「知り合いのようには見えぬが」

ハルはこれは(何かある)はずだと思った。普段は温厚な村長らしからぬ気色であった。そもそもこの騒ぎこそが普通ではなかった。いつもなら、旅人が通りがかったとなったら、食べ物を無理やりにでも押し付けながら、色々話を聞こうとするような人たちだ。

「知り合いです」とハルは答えた。「父の──エトリアにいたころの」

「ハリスタッド殿の?」

「それでうちに案内する前に、一度村長のところに顔をだそうと思って、連れてきたんです」

「そうか……」と言って、村長は再びグリエルモを見た。気疲れしたような、痛ましげな表情だった。村長は「旅の者よ、すまなかった」と謝った。「村の者が無礼を働いたようだ。怪我はなかったろうか」

「別に、なんということはない」グリエルモは嘲るような笑みを浮かべた。「十分に楽しませてもらった」

「それはよかった……ハルよ、この方を家にお連れしろ。そこでしばらく待っておれ。色々と、話をせねばならぬこともある」

「はい」とハルは言った。そして(話って……)一体なんだろうと不安に思った。尋常のことではないのは確かだ。しかし今のところは「家に行きましょう」とグリエルモを誘った。ハルが表通りへ向かって歩き出すと、男たちは道を空けた。その間を連れ立って通り抜ける。すれ違いざま一人が「悪かったな」と言った。ハルはなんとか笑みで応じた。


5


ハルの家はコルトの村から少し離れたところにあった。まだハルが物心もつかないころ、父のハリスタッドがコルトに流れ着いた。そして村の許しを得て小屋を建て住み着いた。それ以来二人で暮らしてきた家だ。

そういう意味では父子は余所者だったが、二人とも村人たちによく迎え入れられた。とくにハルは幼いころからこの村で育ったので、同じこの村の人間だと受け止められていたし、ハル自身もそう思っていた。

「本当にすみませんでした」とハルは道すがらグリエルモに謝った。「多分、何かあったんだと思いますが……

「だろうな。普段からやってるにしては、あまりにもお粗末だ」

「あれは、別に踊っていたわけじゃないんです」

数分ほど歩いて、ハルの家が見えてきた。家までの道は上りになっていて、前方、少し上手に家屋が見える。

「着きましたよ」と言いつつ、ハルは(あれ)と思った。窓越しに(あの影は……)と思うと、あちらも気づいたのか、さっと姿を消した。しばらくすると家の扉が開き、女性が出てきた。

「ハル」と声を上げながら、女性は駆け寄ってくると、両腕でハルを抱きしめた。

「よかった。無事だったんだ」

「ちょ、ちょっと。マルナ、どうしたの」ハルは慌てて言った。急に強く抱かれ苦しそうな声だったが、照れも混じっているようだった。

「母親か?」とグリエルモが言った。「にしては若いな」

「心配してた。あなたにまで何かあったんじゃないかって」

「心配? 一体何を……それになんでマルナがここに?」

ハルの問いに、マルナは顔を上げた。それから両手をハルの肩に置いて、じっと顔を見た。赤みがかった腫れた目をしていた。

「ハル。気を強く持って。あなたのお父さん……」と言う途中で、マルナは声を詰まらせた。

「父さん? 父になにが……」ハルはそう言って家を見た。開け放たれた扉が風に揺れていた。ハルは思わず家に駆け出そうとしたが、マルナは「待って」と押し止めた。それから気を使うような、気の毒そうな口ぶりで言った。「お父さんね、その──怪我をしたの」

「怪我?」ハルは驚いて言った。

「もったいぶった言い方だ」とグリエルモが口を挟んだ。

言われたマルナはグリエルモを一瞬睨みつけ、警戒する様子でハルに聞いた。「この人は?」

「グリエルモさん」と答えて、ハルは嘘を重ねるのをためらった。「エトリアから来たんだ。その……村長から一緒に家で待ってるようにって」

マルナは少しの間黙っていたが、納得がいったのか、いかなかったのか、「そう……」とだけ言った。

「それより、父は一体」

「まだ、何も聞いてないの……?」マルナは驚いたように言うと、ハルに事情を語りはじめた。


6


マルナの話を聞いて、ハルはようやく事の次第を飲み込めた。

ハルの父──ハリスタッドは傷を負った。昨日、まだ日も傾かないころ、馬に乗った数人の男たちが現れた。馬上とはいえあまりいい身なりとは言えない男たちだった。彼らは旅の途中で「ちょっと立ち寄っただけだ」と言い「食料をわけてくれ。それに酒と水だ」と要求した。

不躾な態度ではあったが、人のいいコルトの村人たちのことである、幾許かの水と食べ物を与えようとしたところ「これじゃ足りん」と怒鳴られた。「他に仲間が仰山いるんだ。もっと必要だ」

そのあまりの量を聞いて村人は「バカを言うな」と言った。すると男の一人が凄んだ。「バカだと?」そう言って村人を張り倒した。「オレがバカだと、そう言ったのか?」

それを嚆矢に、他の男たちも馬を降り、他の村人たちにも暴力を振るい、建物を打ち壊し始めた。戸を破られ、農具は傷めつけられ、村人たちは恐怖にかられた。

ちょうど村に来ていたハリスタッドは、村人たちのために戦った。しかし力及ばず返り討ちに合い、また見せしめの意味もあったろう、散々になぶられた。

「後日また来る」動けなくなったハリスタッドを打ち捨てて、ならず者たちの頭目らしき男が言った。「それまでに用意しておけ。オレたちをコケにした償いだ。悪かったと思ってるんなら、それなりの物を揃えておくことだ」


7


ハルが部屋に入ると、ハリスタッドはベッドに寝かされていた。当て布には赤く染みがにじんでいた。

「父さん」とハルが小さく漏らすと、思いがけないことに、ハリスタッドは口を小さく開いた。搾り出すように「ハルか」と言った。

「少し前に、気がついたの」とマルナが言った。「昨夜はすごく苦しんでた。今も、随分悪いはずだから、無理はさせないで」

「わかった」とハルは頷いた。それから「ありがとう」と言った。自分がいない間、一晩中父を看てくれたこの隣人を愛おしく感じた。マルナは特に昔からハルたち父子に親切だった。ハルはそんな彼女を慕っていた。

ハルに気を使ったのか、マルナは部屋を出て行った。出て行きざま、マルナはグリエルモに目をやったが、彼は意に介さなかった。三人が残されてしばらくは誰も口を開かなかったが、しばし経って、最初に口を開いたのは意外なことにグリエルモだった。

「いい家だ」そう言う表情に褒めている素振りは微塵もなかった。「そのまま墓にしてしまうにはもってこいだ」

「その口ぶりは……まさかウィルか」ハリスタッドは漏れ出るような声で言った。体を起こそうとしたが、痛みに顔をゆがめ、やはり諦めたように再びベッドに身を埋めた。そうしてようやく口だけを開いた。「貴様、なぜこんなところに」

「偶然さ。ちょっとこの辺りに用があっただけだ」グリエルモは言った。「しかしこのガキがどうもお前の子供らしかったからな。のこのこと付いてきてみたわけだ」

「こんな山奥になんの用があるものか」

「それはお前には関わりのないことだ。それより、これは返しておく」

グリエルモはそう言って、外套の内から布に包まれたあの剣を取り出した。グリエルモはそれを差し向けたが、ハリスタッドは首を傾けようともしなかった。グリエルモはハリスタッドに近づくと、覆いを解いて、剣をベッドに立てかけた。そうして、ハリスタッドが何か言うのをまるで期待していないかのように、そのまま部屋を後にした。

扉が閉まり二人きりになったハルはハリスタッドの枕元に寄った。「父さん」手で触れようとして、まだ痛々しさの残る当て布に、傷を避けたほうがいいと思ったが、どこなら大丈夫かわからなかった。傷ついたその姿がいつもの父とうまく重ならない。

「具合は、どう?」

「話は聞いたか」とハリスタッドは言った。ハルはうなずいたが、ハリスタッドが目を開けていないのを見て、「はい」とあらためて答えた。

ハリスタッドは何かを言おうとして、傷が痛んだのか、くぐもった声を出した。その声を聞くと、不意に泣いてしまいそうな気持ちがハルの胸を内側から押した。ハルは顔を歪めてぐっとこらえた。

「無理をしないで……」父の容態はよくはなさそうだった。まだ傷からの熱もあるらしく、見た目以上に苦しいに違いない。

「あれは、まだ持っているか」

ハリスタッドに言われて、ハルは首元に手をやった。服の上から、古鍵をそっとなでた。

「はい」

「それならいい。ちゃんと持っておくんだ。それと──」ハリスタッドは少しむせた。ハルは再び「無理しないで、ゆっくり休んで」と言ったが、ハリスタッドはかすれた声で先を続けた。「あの男には気をつけろ……あいつは悪魔だ」


8


ハルが居間に戻ると、グリエルモとマルナが待っていた。「元気そうだったか?」と口を開いたのはグリエルモだった。ハルは少しぼうっとして(父さんの言ったことは一体……)どういうことだったのだろうかと考えていた。少し間があって「あまりよくはないみたい」と答えた。「もう少し寝たいって」

「私、側にいるから」とマルナが言った。「村長が来るんでしょ? きっと大事な話だろうから、お父さんのことは、任せて……」そう言って、マルナは再びハリスタッドの部屋に入っていった。

「親切な娘だ」とグリエルモはからかうように言った。「友達、にしては親密すぎるな。恋人か?」

「そんなんじゃ」とハルは咄嗟に言い返した。「彼女には愛する人が、他にちゃんといるんですよ」

「そうか。罪な女だ」

「だからそうじゃないんです。昔からよくしてくれる、姉みたいなもので」

どう言えばわかってもらえるか考えあぐね、結局どう説明してもまともに受け取ってはもらえないだろうと諦めて、ハルは話題を変えることにした。

「それより、父と知り合いだったんですね」

「お前もそう言ってただろう」

確かにグリエルモの指摘するとおり、ハルは村長にそう言った。単にその場をとりつくろうための嘘に過ぎなかったが、それが本当だったとなると、いっそう驚きが大きかった。

グリエルモと父は(どういう関係だったんだろう)かとハルは聞いてみたかった。しかしハルをからかっていたときと、ハリスタッドのことを聞かれてからのと、その態度の違いに(聞きづらい……)とためらった。深入りをたしなめるようなつれなさだった。

やがてハルの家に村長がやってきた。そのころには日はもう暮れていた。村長はハルと向かい合わせに座ると「さてどこから話したものか」と言って、ハリスタッドの部屋の方を見た。

「マルナから、大体のところは聞きました」

「そうか……では何を言いにきたかも、大体わかっておろうな」

ハルは即座に「もちろんです」と答えた。マルナの話を聞き、ハリスタッドの様子を見て、もうとっくに心は決まっていた。どうするのか、ハルにとっては考えるまでもなかった。「ボクも村の一員です。一緒に戦います」

「阿呆」村長は撥ね返すように言った。「お前まで何を言うとるか」村長は、頭痛の種がまた増えたと言わんがばかりの態度で続けた。「儂が言いに来たのはそういうことではない。むしろその逆だ」

「逆って……

「ハルよ、お前は賢い子だ」村長は言い方を選ぶように髭を手で何度も梳いた。「お前と同じように、戦おうと言う血気盛んな若い衆もおる。しかしそやつらがあの者どもに殺されたらどうなる。お前ならわかるな。男手を失って、どうして冬を越せようか」

「でも」とハルは言い返そうとした。「勝てないとは……

「勝てぬ」村長は言い切った。「あの者どもの要求からして一味はおそらく五十を下るまい。数が多すぎる。村に来た者どもを追い返したとて、大挙して報復にこられてはひとたまりもない。それに」と村長は再びハリスタッドの部屋を見やった。「あのハリスタッド殿が敵わぬような相手だ。どうして、生まれてこの方、農具しか振るったことのないような者が、太刀打ちできよう」

そうまで言われてはハルに返す言葉もなかった。ベッドの父を思い浮かべ、黙ってうつむいていた。それでも(こんなことが……)あっていいのかと膝の上で握る手に力が入った。

「ハルよ、ところで、ここに来たのは別に理由がある。お前に頼みがある」

「頼みですか?」ハルは再び村長に顔を向けた。

「そうだ。ザジのことだ。先ほどのことでわかるだろうが、あやつらは争うつもりでおる」

ハルは、それは(そうだろう)と思った。特に血の気の多いザジのことであるから(止めてもやりそうだ)と考えるのが自然だった。

「あやつには言うてもわからん。ことに儂の言うことはな。そこで、ハル、お前から話をしてくれぬか」

「ボクからですか」ハルは自分が言ったとしてもあのザジが(話を聞くかな……)と思った。

「頼む。ハルよ、やつらに言われるがまま食糧を奪われたとて、まだ一冬越せぬわけではない。苦しいだろうがなんとか耐えられぬことはない。苦しい冬を越えたことはこれまでもあった。しかし、ハルよ、もし争って、男手が減るようなことになれば、冬を迎える準備もままならぬ。それどころか、下手に怒らせては、より苛烈な報復を受けるかもしれぬ。ハルよ、お前ならわかるな。なんとかザジに言ってきかせてもらえぬか」

「ボクにできることならなんでもやります」とハルは言った。「でも、ボクが言って、彼が聞くかどうか……

「聞く」村長は言い切った。「あやつもわかっているはずだ。受け入れる切欠がないだけだ。儂が言うても反発するだろうが、そうでなければ聞くはずだ」

「そうでしょうか……」とハルはあまり自信はなかった。「でも、話をするだけはしてみます」

「ありがたい。頼むぞ」

「嫌な役を押し付けられたもんだな」と部屋の隅で聞いていたグリエルモが口を挟んだ。

村長は厳しい顔つきでグリエルモに目をやったが、ことさら言い返しはしなかった。

「旅の方よ、もうご存知であろうが、こういう事情であるからして、来たばかりですまないが、早々に村を発っていただきたい」

「もう日は暮れている」

窓には夜の帳がかかり、外は何も見えなかった。

「今夜はここに泊まって、明日、早いうちに発つがよかろう」

「そうしよう。邪魔者はさっさといなくなったほうがよさそうだ」

「ご自身の身の安全のためにもそう言うのだ」

「安心してくれ。自分の身は自分で守れる」グリエルモは腕を組み窓の方を眺めたまま言った。「それに、面倒ごとに首を突っ込むつもりもない」

「結構」

村長は帰っていった。ハルは送っていくと申し出たが、村長はそれを断り、一人暗がりの中を歩いていった。月も星も雲に覆われた暗い夜だった。

ハルはしばらく夜の闇を見つめていた。(夜が明けたら……)まずはザジと話をする。それから、(……どうなるんだろう)、ハルにはよくわからなかった。

村長の言うとおり、素直に言われたものを差し出して、立ち去ってもらう。それから越冬の準備をして、例年に増して貧しい冬を耐え、春を待つ。新しい春が来て、そうすればまた少しずつ元の暮らしに戻っていく。本当に(そうなるんだろうか)、ハルはどこか不安を感じていた。


9


村長が帰ってから、マルナが温めてくれた肉なしのシチューを食べた。ハルは父の看護を代わると申し出たが、「お客さんもいることだし」とマルナは固辞した。確かに、見知らぬ男と二人きりにさせるわけにもいかないので、ハルはマルナにもう一晩ハリスタッドについていてもらうことにした。

食事を終え、マルナがハリスタッドの部屋に行ってしまうと、居間には残ったのは、ランプの油がチリチリと焼けるかすかな音と、外の風が時折家屋を揺らす音だけのようだった。グリエルモは何をするでもなく、鎧戸を開け、窓辺で外を眺めていた。

「大丈夫でしょうか」しばらくしてハルが言った。

「何が?」

「窓を開けていて、明かりをみられませんか」

「誰に」

「その、ならず者たちに」

それを聞いてグリエルモは含み笑いをした。

「おかしなことを心配する。まぁ、今夜は来るはずがない」

「どうしてそう言い切れるんですか」

「誰がこんな闇の中を好き好んでうろつきたいと思う」グリエルモは外を眺めたまま言った。窓の外は月明かりもなく数歩先さえ見えない。

「わざわざ夜に襲うのは、そうしないと勝てない相手だからだ。慣れない土地を夜にうろつけば自分たちも危ない。ちょっと脅せば言うことを聞くような相手に、そんな危険を冒すような間抜けだったら、最初からそうしてる」

あまりにきっぱりとした言い分に、ハルはもう少し詳しく聞いてみたくなった。

「じゃあ、来るのは日中だと」

「そうだ。それが明日か、明後日かは知らんが」

「どうしてすぐ来ないんだろう」とハルは疑問に思った。食糧を集めさせ、それを取るだけなら、脅したその翌日にでも構わないのではないか。

「その方が不安になる」グリエルモは自明だと言わんがばかりだった。「不安定なものは押せば簡単に転ぶ」

「わざとそうしてるってことですか」

「当然だ。悪口を言ったなどと難癖をつけて怒ってみせる。手荒なことをしたくないのにお前らが歯向かうからだと話を掏り替える。どれも脅しやすくするための、よくある手だ」

「ひどい」とハルは呟いた。

グリエルモは「今頃わかったのか」と言った。「力づくで物を奪おうなんていうのは、ひどいやつがすることだ。知らなかったか?」

「でも、そうやって小細工をするってことは、実は戦う自信がないんじゃ」

「そうかもしれないな」とグリエルモは皮肉そうに笑った。「腕に覚えのある剣の使い手からすれば、真正面から打ち合わないのは臆病さのあらわれと見えてもしかたがない」

グリエルモの言う意味がよくわからず「どういうことですか」とハルは聞いた。

「剣は父親に習ったのか」

ハルは戸惑った。確かにハルはハリスタッドから剣の手ほどきを受けていた。しかしそれを誰かに言ったことはないし、まして今日出会ったばかりのグリエルモが知るはずもなかった。

「どうしてわかったんですか」

「縄を切ったろう」グリエルモは指先を何かに引っ掛けるように何度か振ってみせた。「はじめて剣を握って、切っ先だけ簡単そうに引っ掛けられるようなやつがいると思うか?」

ハルは納得した。そういう細かいところまでを(見てるんだな)と思った。そしてきっと(ただものじゃない)と感じた。日中の村での立会いや今話したような知識など、ハルの想像を超えるようなことばかりだった。もしかするとハリスタッドがエトリアの衛士だったころの戦友だろうか。彼が(一緒に戦ってくれれば)とハルは思った。だけど……

「バカなことは考えるなよ」とグリエルモが言った。知らず考えごとにふけりつつあったハルは、はっと顔をあげた。一瞬、心を読まれたのではないかと驚いた。しかしグリエルモはそんなハルの戸惑いにはまるで頓着しない様子で続けた。

「どれだけ剣の腕に覚えがあるかは知らんが、隣で寝てるあのケガ人ほどじゃないだろう。まぁ、無茶はしないことだ」グリエルモは顎で隣の部屋を指した。

ハルは何も答えなかったが、グリエルモもそれ以上何も言おうとはしなかった。

グリエルモの忠告のとおり、そして村長の言うとおり、大人しく従い、耐え忍ぶのが懸命なことは、ハルもわかっていた。しかしハルにはどうしても、するべきことをせず、行うべきを行わないで、見て見ぬ振りをしてしまうような、トゲの刺さったような気持ちを感じていた。もしハルが剣を使えなければ、思い悩むこともなかったかもしれない。

ハルは無意識に胸元の鍵を取り出していた。不安なとき自然とこうするのが習い性だった。鍵を両手で包むように握っていた。

果たして本当に(仲間が大勢いるのか)とハルは疑問に思った。どうして数人で村に来たのか、それを考えると(本当はそんなにいないんじゃ)ないかとも思った。それなら勝てないことはないかもしれない。しかし村長の言うとおり大勢のならず者たちの一団が報復にやってきては、村ごと滅ぶことになるだろう。ハルの脳裡に想像したくもない光景が浮かんだ。そんなことだけは(絶対にだめだ)とハルはかぶりを振った。やはり(村長の言うとおりにすべきだ)と思った。自分に言い聞かせるように。

「その鍵」

ハルが顔を上げると、グリエルモはいつの間にか窓を閉め、ハルの方を向いていた。

「随分と古い物だな。それでまだ使えるのか」

ハルはしばらくきょとんとしていたが、いつの間にか自分が手に鍵を握っているのに気づいて、苦笑した。

「これは、大丈夫です。使わない鍵ですから」

「ほう?」とグリエルモは意外そうな顔をした。先を促すような目でハルを見た。

「その」ハルはなんと説明したものか、少し考えた。「何かの鍵というわけではないんです。というか何の鍵かもわかりません。単なる、お守りみたなもので」

グリエルモはハルに寄ってくると、顔を近づけて、鍵を覗き込んできた。

「少し見せてくれ」

ハルは少しためらったが、紐を首からはずすと、グリエルモに鍵を渡した。グリエルモはしばらく鍵を眺めて「この細工はエトリアの様式だな」と言った。

「昔からこの家にあるものなのか」

ハルは少し口ごもって「えぇ、そうです」と答えた。「なにか、知ってる物なんですか」

「同じようなものを知ってる。ただの鍵じゃない」とグリエルモは言うと、目線をハルに戻して片側だけ口角を上げた。「気になるか?」

「え?」ハルは、知らないうちに前のめりになっていたのに気づいて、ぱっと姿勢を戻した。

「悪いがこの鍵が何かは知らん。ただ知り合いに、こういうものに詳しいやつがいる。そいつに確かめれば由緒がわかるかもな」

「本当ですか」

「少なくとも、ありふれた品ではない。この鍵を調べさせれば、何の鍵なのか、はっきりするはずだ」

そこまでは期待に胸が躍るのを抑えるようにして話を聞いていたハルだったが、ぴたりと気持ちに歯止めがかかったように、落ち着きが戻ってきた。

「あの、調べるってことは、その……鍵を、その知り合いに見てもらうってことですか」

「おかしなことを言う。見もしないで調べるとなると、魔法か呪いかでも使うのか」

「ということは、この鍵を持っていく?」

「あいにく、そいつは水晶玉を持ってないからな」

「折角ですけど──」ハルは残念そうに言った。「やめておきます」

「そうか?」グリエルモは指先で鍵を回しながら言った。「ついさっきまでは、この鍵が何なのか、知りたさそうに見えたが」

「知りたいです。でも、その鍵は大切なものなので」

「見ず知らずの怪しい男には預けられないということか」グリエルモは皮肉そうに笑った。「賢明だ」

「そういうわけじゃ」

「それはあまり賢明ではないな」グリエルモは今度は呆れたように言った。「下手な取り繕いはよしたほうがいい。『じゃあどういうわけだ』と聞かれて、もっと困ったことになる」

グリエルモは再び、手を顔に近づけて、鍵をあらためた。ハルにふと、鍵を(返してくれればいいけど)と不安がよぎった。

「どうしたわけか、この古びた鍵を、よほど手放したくないようだ」

グリエルモはしかし、案外あっさりと、鍵をハルに差し出した。ハルはほっとした気持ちで鍵を受け取った。「そうなんです」ハルは帰ってきた鍵を両手で握りしめて言った。「手放したくないんです」

「何か所以でもあるのか」

グリエルモは答えを待たず、再び窓辺へと戻っていった。聞くだけは聞いたが興味はないという風にも見えたし、言いたくなければ言わなくてもいいという風にも見えた。

「母の、形見なんです」

ハルの返事が聞こえなかったかのように、グリエルモはしばらく何も言わなかった。やがて、もう話が途切れてしまったと思うくらい経ってから、グリエルモは口を開いた。

「死んだのか?」

……わかりません。身無し子だったので、母のことは何も知らないんです。ただ、父に拾われたとき、毛布と一緒に包まれていたのが、この鍵だったそうです」

「なるほど」グリエルモはあまり納得した風でもなく言った。「たしかにあの男の子供にしては可愛げがありすぎると思った」

「ボクは父さんの子ですよ」

「悪かったよ。そこに異議があるわけじゃない」

会話が途絶えてからしばらく、ハルは鍵を眺めていた。グリエルモはこの鍵の細工をエトリアの様式だと言った。ハリスタッドがエトリアにいたことを考えればおかしな話ではない。ハルの母も(エトリアにいたのだろうか)と思った。

この鍵の由来がわかったとして、それでどうなるのか、ハルにはよくわからなかった。母についてなにかわかるかもしれないし、わからないかもしれない。それでも(もしかすると)と思うと、確かめてみたいという気持ちは募った。しかし(今はだめだ)と思った。今はそれどころではないし、これからもしばらくはそれどころではないだろう。

やがて、ランプの油が切れて、明かりが消えた。点けなおそうかとも思ったが、グリエルモも寝ることにした様子だったので、そのまま切れるに任せておいた。かすかに油の焦げた臭いが漂っていた。ハルはなかなか眠ることができなかった。


10


まだ夜が明けきらないうちにハルは目を覚ました。窓の戸を開けると、外の薄っすらとした明かりが、部屋の中に入り込んできた。部屋に、グリエルモの姿はなかった。ハルは別の部屋も確かめてみたが、グリエルモはどこにもいなかった。(一言声をかけてくれれば)見送ることもできたのにとハルは思った。

一夜明けてハリスタッドの容態は快方に向かっているようだった。

「随分よくなったみたい」とマルナは言った。「苦しそうにすることもなくなったし、熱も引いたみたい」

「ありがとう。本当にマルナのおかげで」

「私はみてただけ。でも、よくなってよかった」

マルナも一旦は自分の家に帰ることにするということだったので、ハルは送っていくことにした。ハルにも早いうちに村で済ませておかなければならない用事があった。

ハルは外套の下に持ち物を一つという軽装だったので、マルナが荷物をまとめるのを外で待っていた。家の前の植え込みには朝露が降りていた。枝葉の間を山巻貝オカマキガイが這っていた。

家から出てきたマルナは、頭巾のついた厚手の上着を羽織っていた。この時期にしては厚着だが朝方の冷え込みにはこのくらいで丁度いいのかもしれない。

マルナは三角の頭巾の口から心配そうな顔を覗かせてハルを見た。

「その外套、ボロボロじゃない」マルナはハルの外套の裾を手にして言った。「それだけじゃ寒いでしょ」

「平気だよ」とハルは言ったが、マルナは荷物から何やら取り出し、ハルの肩に掛けようとした。

「いいよ」とハルは断ろうとしたが、マルナは「いいから」と言って、その布を襟巻き代わりに、ハルの首に巻いた。

「暖かくしないと」とマルナは言った。「ハルまで風邪で寝込んだりしたら、大変でしょ」

「心配しすぎだよ」とハルは言って、いつまでたっても(子供扱いするなぁ)と思った。

村まで二人で歩いた。大した距離はない。すぐにマルナの家に着いた。その間、会話らしい会話はなかった。

別れ際、戸口で、扉を開けてから、マルナはふと思い立ったように振り返った。

「ハル、これからザジに会うんでしょ?」

ハルは頷いた。

マルナは小さな口を開いたが、言葉を探すように、声は出てこなかった。マルナはハルの手を取って、あらためて言った。

「お願い、無茶はしないでね」

「平気だよ」とハルは笑顔をつくった。「話をしにいくだけだから」

「それもだけど……」マルナはハルの腕あたりを見て言った。「ハルも危ないことはしないで」

ハルは少し不意をつかれた感じがした。しかし笑顔はそのままに「大丈夫」とだけ言った。何が大丈夫なのか自分でもよくわかっていなかった。


11


村には集会場として使われる小屋があった。ハルがその扉を引くと重い木の軋む音を立てた。中には村の若い男たちが集まっていた。

「ハル、来たか」と一人が言った。次いで「遅ぇぞ」「おやじさん大丈夫か」と、近くにいた男たちが口々に声をかけてくる。ハルは少しくすぐったさそうに返事をしながら、中へと入っていった。狭い室内に男たちが集まって、部屋の中は少し蒸し暑かった。

男たちに囲まれて、奥のテーブルにはザジたちが座っていた。卓上には村周辺の地形らしき走り書きがあった。(猟の要領だな)とハルは思った。壁を背にして、テーブルのすぐ側には、ノグもいた。

「家の方はもういいのか」とザジが聞いた。

「うん」ハルは頷いてから、礼を言っておいたほうがいいだろうと思った。「おかげさまで。マルナがついていてくれたから」

「そいつはよかったな。おやじさんのことは、みんな心配してたんだ」それを肯定するように、周りの男たちも、ハリスタッドの無事を喜んでくれた。

「あの男は?」ザジの隣で長髪の男が言った。エドだ。昨日、グリエルモに思い切り蹴り飛ばされた男だった。

「出て行ったよ」

「悪いことをしたな」残念そうにザジが言った。「こんな状況じゃ仕方ないが」

「あの野郎、遠慮もなくオレの腹に蹴りを入れやがった」エドが苦々しく言った。

「仕方ねぇだろ。こっちは凶器振り回してたんだ」

「大丈夫?」ハルが聞くとエドは「大したことねぇよ」と不満そうな顔で言った。

「それより、ハルが来たんだ。続きを考えようぜ」

「続き?」

「作戦を考えてたんだよ」とノグが言った。「まともにやっちゃ勝てないだろ」

「作戦?」

「挟み撃ちにするんだ」ノグはテーブルに寄ると走り書きに指を沿わせた。「この辺りは道が細くなっているだろ」山道の村近くで隘路になっているあたりを示した。「この道の曲がっている先を通れなくするんだ」

「そこを後ろから襲うんだ」とエドが付け加えた。

話を聞くと、作戦というのはこういうことらしかった。近くの木を伐って道を塞いでおく。馬に乗った男たちは引き返さざるを得なくなる。そこを取り囲めば行き場を失くした男たちを袋叩きにできる。一種の(追い込み猟か)といったところだった。

「あのろくでなしども、二度を悪さできないようにしてやる」とエドは息巻いていた。

ハルは視線を落とした。顔は卓上に向いていたが、ほとんど何も目に入ってはいなかった。(どうだろう)ハルはあらためて考えてはみたが、やはり(ダメだと思う)という結論は変わらなかった。しかしそれを(どう言えば……)いいのか、ハルにはわからなかった。

「どうした?」ノグが聞いた。ハルの様子が気になったのか、眉をひそめて言った。「何か心配なことでもあるのか」

「心配するなよ」とエドが言った。「殴り合いはオレたちに任せとけ。おやじさんのカタキは取ってやるからよ」

エドは彫りの深いごつい顔の口元を綻ばせたが、ハルは笑わなかった。周りの男たちも、はじめは調子のいいことを言うエドを茶化していたが、ハルの様子を見て、次第に静かになっていった。しばらく誰も口をきかなかった。気不味い空気が漂った。

「あいつに言われて来たんだろ?」沈黙を破ったのはザジだった。

「うん」ハルは言った。「よくわかったね」

「あいつの考えることは手に取るようにわかる」ザジは嫌そうに言った。「あいつはオレのこと、何も考えてないみたいに言うけどな」

そんなことは──とハルは言おうとして止めた。昨夜のグリエルモの言が頭を過ぎったからだった。

「止めるように説得してって言われたよ」

「それで?」ザジは無表情で言った。「どう思ってるんだ、お前は」

「止めた方がいいと思う」

「どうして?」ザジは眉間に皺を寄せた。「聞いたろ。オレらも考えなしにやってるわけじゃない」

「戦って、勝てると思ってるってこと?」

「勝つんだよ」ザジは力を込めて言った。「勝たなきゃだめなんだ」

「昨日は勝てなかった」ハルは気持ちが揺れるのを必死で鎮めながら言った。「たった一人に。それで次は四人? 五人?」

「今度は上手くやる」エドが口を挟んだ。

「今度は蹴りじゃすまない」ハルは言っていて自分で嫌になった。しかし言わなければならなかった。「それでエドが死んだら奥さんはどうなるの? エドだけじゃない……」ハルはザジを見た。マルナの顔が頭を過ぎった。

「下手に手を出して怒らせたら、今度はもっと大勢で仕返しにくる。そうなったら、村はどうなる? 村の皆を危険にさらすようなことは、止めるべきだ」

「だからって」ザジが睨んだ。「そんなの許せるか? 好き放題やられて、黙って従えっていうのか」

「そうだよ」

ハルがあまりに率直に答えたからか、しばらくは誰も何も言わなかった。納得のいったような顔をした者は誰もいなかった。ハルも納得はいっていなかった。納得できることではなかった。

「オレは納得いかねぇ」エドが吐き捨てるように言った。エドはハルを直視した。「悔しくないのかよ」エドは腹の底から搾り出すような声を出した。

ハルは何も答えなかった。

「悔しくないのかよ」エドが再び言った。「おやじさんあんなにされて、お前それでも本当に──

エドがそう言いかけたとき、その胸倉をザジが手荒く掴んだ。

「悔しくないわけねぇだろ」ザジの表情は怒りに満ちていた。エドに対するものではない、もっと違う何かへの怒り。「それ以上は言うなよ。悔しいに決まってるだろ」

エドははじめ驚いた顔をしていたが、ザジの表情を見て、悲しげに眉をひそめた。

「わかってるよ」エドはザジの手を掴んで、襟元から手を離させた。「わかってるよ……ハルの言うのが正しいってことも」

ハルは(こんなこと)は決して(正しくない)と思った。ここにいる誰もがそう思っているはずだった。しかし誰もこの場に相応しい言葉を知らなかった。

「ちくしょう」サジが呟いた。それ以上、誰も何も言わなかった。男たちは皆うな垂れていた。さっきまで蒸し暑いほどであった部屋の熱気は、すっかり冷え切っていた。


12


ハルから事の成り行きを聞くと、マルナは溜息をついた。「それで結局」マルナは不安そうに外を眺めた。「ザジは村長と一緒なの」

「うん」ハルはなんと言ったものか迷った。何か言おうと思ったのだが、励ましになるような言葉は思いつかなかった。

村の若者たちの親分格であるザジが味方にまわってくれたこともあって、大人しくしていることで話はまとまった。ただザジ自身は「オレは村長と立ち会う」と言ってきかなかった。一同に異論はなかった。ハルを除いては。「家にいてくれないか」というのがハルの異議へのザジの答えだった。女だけを残して家を空けるのが心配だというのだった。「安心しろよ」とザジは言った。「無茶はしない」

室内にも関わらずハルは外套を纏ったままだった。何かあったらと思うと、部屋着でゆっくりくつろごうという気にはとてもなれなかった。

ザジの母親は寝室にいた。寝たきりだった。三人暮らしで、もう長いこと起きてきていない。居間にはハルとマルナの二人きりだった。

窓の外を眺めているマルナの背中を、ハルは見ていた。マルナの心配が手に取るようにわかった。頭に血が上ると考えるより先に手が出るザジの性格だ。何事もなく(無事に帰ってきて)ほしいという気持ちは、ハルも同じだった。

昼を過ぎて、影の長さが少し目立ちだすころ、村の入り口の方から、村長とザジが歩いてくるのが見えた。マルナが息を飲むのがわかった。この家から少し離れた村の大通りを二人は進んでいった。その後ろには馬に乗った五人の男たちが続いていた。(こいつらが)とハルは思った。

男たちは胴巻きや脛当てを身に付けていたがいずれも年季の入ったくたびれた物のように見えた。被り物をしているが、兜も立派なものではなく、それぞればらばらの形をしていた。出自が異なるのか、どこかで奪った物なのか。その中に納まった顔をいやらしく綻ばせ、仲間同士、なにやら笑い合っていた。

すると先頭の男が、不意にこちらを見た。目が合ったのか、マルナはハッと窓から離れた。男はしばらくこちらを見ていたが、やがてそのまま通り過ぎていった。

マルナは窓辺の壁際で身を小さくしていた。

「大丈夫」ハルはマルナに近づくと、言った。マルナは小さく震えていた。「ザジを信じよう」


13


ザジは村長に促されて倉の扉を開いた。入り口を通して暗い倉内に光が差した。中には穀物や野菜、干し肉などの保存食を収めた布袋や木箱、酒樽といったものが並べられていた。村長が命じて用意させておいたものだった。

「言われた通りの物でございます」村長は言った。

男たちは二人を表に残し、三人が倉に入ると、手に手に品定めをはじめた。「酒なんて久しぶりだ」「全部持って帰るのは大変だ。ここで少し減らして行こうぜ」などと口々に笑いながらあらためていく。

ザジは怒りを押し殺してそれを見ていた。この男たちがうかれて手にしている酒も食糧も、どこからともなく降ってきたものではない。村人たちが日々の働きの中で蓄えてきたものだった。そしてこれから長い冬を迎える村人たちの生活を支えるはずのものだった。

「おい」ザジに向かって、外に控えていた男の一人が声をかけた。「お前ら結構いい暮らししてるんだな」それを聞いた外のもう一人は嘲るように笑った。「農民ってのはがめついからな。たんまり溜め込んでやがる」

ザジは何も言い返さなかった。

倉の中では男たちが酒を味見しては陽気に笑っていた。「おい、お前らばっかり楽しんでんじゃねえよ」と外の男が怒鳴ると、中の男たちはどっと大声で笑った。

「あの」様子を伺っていた村長は、おずおずと話しかけた。「言いつけどおり用意しました。これでよろしいですな」

「あー?」鼻の穴を大きく開いて大笑いしていた男が、村長の方を見た。男たちの中でも先頭に立って現れた、ならず者の頭目と思しき男だった。「あぁ、そうだな、言ったとおり、色々と集めてくれたな」そう言って頭目は倉を見渡した。

村長はすがるような、悲しげな笑みを浮かべた。

「では……

「これじゃ足りんな」

村長はそのままの表情で固まった。しばらくは何を言われたのか理解できなかったようだった。口を半開きのまま愕然としている村長を見て、周りの男たちは抑えきれないように笑いだした。

「あの、どういう……」やっと村長は言葉を発した。

「聞こえなかったのか。足りないと言ったんだ』

「しかし」村長の顔は血の気が引いて真っ青だった。「しかし、確かに言われたとおり……

「言われたとおり?」頭目は眉をひそめて言った。「確かに言ったとおりだ。昨日頼んだ分だけ、用意してある」

「それでは……

「それじゃ足りないんだよ」頭目は真顔になって言った。何の感情も篭っていないかのような目が冷徹だった。「この間のこと、忘れたのか」

「こ、この間のことと申しますと……

「この前、オレたちが食い物を分けてくれって頼んでから、何があった。忘れたわけじゃねえよな」頭目は自分の首をとんとんと叩いた。「オレなんか殺されかけた。部下にも何人か怪我したやつがいる」

「し、しかし、それでは約束が……

「その後だろうが。お前らが、オレの部下を怪我させたのは」

あまりの言い分だった。先に暴れたのはこのならず者たちであったし、ハリスタッドが立ちはだかったのは、その暴力から村人たちを守るためだった。それをあろうことか、村人たちが暴力を振るったように言うのだ。

村長はザジに目をやった。ザジの目は怒りに震えていた。しかし堪えていた。ザジは何か訴えかけるように村長を見ていた。

村長はあらためて、このならず者の頭目を見た。

「そう申されても、もうこれ以上を差し出せば、生きていけませぬ。冬を越せませぬ」村長は哀れを誘うような泣き出しそうな声を出した。「どうかこれで収めて下さりませぬか」

「てめぇ、オレらと駆け引きしようってのか?」頭目の隣で別の男が声を上げた。「そうやって誤魔化して、ナァナァで済ませようってつもりか」

「そんなことは決して……

「まぁいいじゃねぇか」もう一人の男がなだめるように言った。「交渉。結構じゃねぇか。どうするか、話し合おうじゃねぇかよ」

「話し合い……?」

「食い物はもうないんだろ。だったら別のものを用意してもらうしかねぇよな」

「別のものとは……

「だからそれを話し合うんじゃねぇか。おい、こんなところで立ち話させる気か。どこか落ち着ける場所に案内しろ」

「ど、どこかと言われましても」村長はうろたえた。「そんな場所は」

「それならさっき、いいところ見つけたぜ」頭目が言った。鼻をふくらませ、歯茎をむき出しにして、笑みを浮かべた。「そこでじっくり話をしようじゃねぇか」


14


扉を打ち破らんがごとき勢いで男たちは家の中に押し入ってきた。五人の男たちのうち、二人は家の外で入り口をふさぐようにして待ち、残りの三人が室内に入ってきた。「待ってくだされ、その家は」必死に声をかけながら、村長が後に続いた。ザジも一緒だった。二人とも、不安と悔しさと狼狽とがない交ぜになったような、苦々しげな顔をしていた。

突然現れた男たちに、ハルとマルナは驚きを隠せなかった。部屋の隅のマルナをハルは庇うようにして立った。

「邪魔するぞ」男たちはわざとらしくハルたちに声をかけ、部屋の中ほどにある机まで向かうと、乱暴なしぐさで椅子に腰掛けた。

ハルには一体どうしてこの家にならず者たちがやってきたのか見当がつかなかった。何にせよ良い状況でないのは確かだった。

「おい」とならず者の頭目がハルたちの方を見た。「この家じゃ、客人に飲み物の一つも出さねぇのか」

頭目の視線はハルの、その背後のマルナに向けられていた。マルナは一瞬身をすくめ、怯えた様子で村長を見た。村長は頷いた。マルナは恐る恐る、台所の方へと向かった。

「無愛想な奴らだ」ならず者の一人が不満そうに言った。

「なぁじいさん」頭目は村長に向かって言った。「さっきの話の続きをしようや」

「これ以上の食糧は……

「それはわかったよ。これ以上、食い物はない。ないもんはしょうがねぇ。オレたちも鬼じゃねぇんだ。なにも、ないっつうもんを無理やり取っていこうってわけじゃねぇ」

頭目は親切ごかしに言った。

「けどよ、オレらもなんもなしに帰るわけにはいかねぇんだ。そうじゃなきゃ部下に示しがつかねぇ。大怪我させられたんだ。そいつらに土産の一つもなきゃ収まらねぇ。そうだろ」

「そうは言いましても……」村長は言った。「この村には差し上げるようなものは他には……

「なんだよ。本当になんもないのかよ」頭目は驚いたように言った。そしてわざとらしく溜め息をついた。「なんもないんじゃ、仕方ねぇな」そう言って、横の仲間の方を見た。

「我慢するしかあるめぇ」隣の男もそう答えた。

そのやり取りを聞いて、村長は胸を撫で下ろしたようだった。顔にはわずかに安堵の色が浮かんでいた。

やがてマルナが飲み物を運んできた。男たちを恐れてか、顔は伏せていた。盆に乗せて持ってきたポットと木のカップを机の上に並べていった。

「そうだな、我慢するしかねぇな」そう言いながら、ならず者の頭目は、立ち去ろうとしたマルナの細い手首を、棒きれを掴むように握った。マルナが驚きの声を上げるより早く、自分の方にぐいと引き寄せた。

「近くで見ると、そそる顔立ちしてんな」そう言って顔を近づけた。

マルナは咄嗟に身をひるがえして逃れようとしたが、頭目は手を取ったまま立ち上がり、もう一方の手をマルナの肩に回すと、擁くようにして身体に押し付けさせた。マルナは悲鳴を上げ、振りほどこうと身をよじったが、男はびくともしなかった。

「しょうがねぇからこれで我慢してやる」頭目は残念そうに眉をひそめたが口元は笑っていた。「村の若い女を連れてこい。そこから三人で許してやるよ」

「待ってくだされ」村長は弾かれるように言葉を発した。しかし何と言えばこの場が収まるかわからなかったのか、二の句が継げないようであった。村長は伏して請うた。「それだけはお許しを」

「てめぇが他にはなんもねぇって言ったんじゃねぇか」ならず者の一人が言った。

「三人と言ったが、二人でいいぞ──一人はこいつでいい」頭目が言うと、周りの男たちが囃し立てるように笑い声を上げた。マルナは何とか男の手から逃れようと苦心していたが「大人しくしろ」と怒鳴られると、怯えのあまりか放心したように静かになった。目から涙が伝っていった。

「手荒なことは……」村長の声にも涙が混ざっていた。「その娘の腹には赤子がいるのです」

「じゃああと一人でいいぞ。自分好みに育てさせてみるってのも面白そうだ」

「でも女かどうかわかんねぇぞ」

「まぁそこはおまけだよ。あんま無理ばっか言ってもかわいそうだ」

「本当は男が好きなんだ」

「ばかやろう。てめぇらから掘ってやるぞ」

男たちは愉快げに笑った。

「おい、なにぼさっとしてんだ」頭目は村長に言った。「さっさと女を集めてこいよ。あんまり辛抱強くねぇんだ。早くしねぇと」頭目はマルナの顔を無造作に掴むと、自分の方を向かせた。「またここで味見しちまうぞ」

頭目が横広に開いた口からからかうように舌を出し、根元で唇を舐めるようにしながらマルナに近づけていったとき、既にザジは男に飛び掛っていた。一直線に机を蹴り越えて、身を投げ出すようにして男に躍り懸かった。人も、机も、飲み物も、何もかもが弾け跳んだ。ザジと男は組み合うようにして床に転がった。ザジは人語とは思えぬ何かを叫んでいた。

揉み合っていた二人は、やがてザジが相手を床に押し付け、馬乗りになった。ザジはためらいなく腕を振りかぶった。無防備な相手の顔面に力いっぱい振り下ろされようとした拳は、しかし後ろから羽交い絞めされるようにして邪魔され、力なく空を切った。

男たちはザジを後ろから抱えこみ力尽くで引き剥がした。ザジは大声で罵りながら振り払おうと暴れたが、振り解いたと思うやいなや、腹に蹴りを食らって崩れ落ちた。うめき声を上げるザジを、ならず者の頭目は見下ろした。

「結構、力あるじゃねぇか」そう言って頬のあたりを拳でなでると、どこかで切ったのか、手の甲に赤く血の筋が付いていた。頭目は怒りに満ちた目のままに、口元に笑みを浮かべた。

頭目は腰に佩いた剣を抜いた。何度も血を浴びて痛みきったような鈍い剣身をしていた。その切っ先を迷いなくザジに突き刺した。ザジの上着の横腹あたりが裂け、赤く染まった。噛み締めた口から苦悶の声が漏れた。

頭目は剣を引き抜くと、担ぐように肩に乗せ、剣の腹で何度か叩いた。

「謝ってみせろよ」頭目はまだ苦しそうにしているザジに言った。「あのじじいみたいに、泣いて命乞いすれば許してやる」

ザジは顔を上げた。歯を食いしばり相手を睨みつけて言った。「ぶっ殺してやる」

頭目は肩から剣を上げると、ザジに向かってかざした。それから脅すように刃をザジに見せつけた。ザジは目を逸らさなかった。頭目は剣を振り下ろした。マルナが悲鳴を上げた。鈍い金属音が部屋中に響き渡った。

剣はザジを斬りつけることなく、その軌道を途中で止めていた。剣はそれ以上動かなかった。錆びた剣を受け止めた、そのもう一本の剣は、鏡のようにきらめき、白刃に持ち主の顔を映し出していた。そのハルの表情には普段のあどけなさは微塵もなかった。

ハルの手にした剣は、外套の下に携えていた荷物──昨日のグリエルモの置き土産だった。ハルが剣に力を入れる向きを変えると、何かを察したのか、頭目は後ろに下がり距離を取った。

ハルはそのまま相手を見据えて剣を低く構えた。

その背後では、あとの二人がそれぞれに、やおら剣を抜いた。同じく手入れの悪い痛んだ剣だったが、人一人の命を奪うくらいなら十分な代物だった。男たちは凶器を手にしたまま、ハルの注意が向かないよう、にじり寄っていった。誰かがハルの名を呼んだ。男たちはハルに斬り掛かった。

苦悶の叫びを上げたのは、しかし男たちの方だった。斬り掛かってきた二人に、ハルは振り向きざまに斬りかえした。男たちは甲高い悲鳴を上げ、泣き呻きながら、顔に手を当て、床をうずくまった。手の間からは血が流れ出てきていた。

「目を斬ったのか」頭目が驚いたように言った。「器用なことをしやがる」

「まぶただよ」ハルは汚れを払うように剣を振るった。その切っ先だけがほんのわずかに曇っていた。「目の上を斬っただけで、大した怪我じゃない。しばらく血は止まらないだろうけど」

「信じられねぇ」頭目は笑うように言ったが、その目は少しも笑ってはいなかった。「こんな山の奥のクソど田舎になんでお前みたいな剣の使い手がいやがるんだ」

「食糧を持っていくなら持っていけばいい」ハルは男の問いには答えなかった。「だけど、村の人たちを傷つけるなら、ただじゃすまさない。ボクだけじゃない。最後の一人まで戦ってやる」

ハルは剣を構えなおした。こうなってしまっては、(やるしかない)とハルは思った。しかしこれで(退いてくれれば)とも思った。もし食糧だけが本来の目的なら、ここで妥協してもいいはずだ。グリエルモが言ったように、考えなしにやっているのでないのなら、あちらも無闇に命を危険にさらすことはない。食糧を与えると言っているのだから、それだけを持って去ってくれないだろうか。

既に向こうは二人が手負いだった。それに、一度斬り合っただけで(大した腕じゃない)ことはハルにはわかっていた。これが何十人も徒党を組んで襲ってくればどうしようもないが、数人と斬り合うくらいなら絶対に勝てる自信があった。力の差は相手もわかっているはずだ。それならこれで(退いてもいいはずだ)とハルは思った。

「勇ましいのは結構だが」ハルの期待に反して、頭目は言った。「ここまでコケにされて、言われたとおり『はい、そうします』とはいかねぇんだよ」

「お前はボクには勝てない」

「そっくりそのままお返しするぜ。お前はオレには勝てない」

頭目はポケットから何か小さな物を取り出した。それは古びた鍵のようなものだった。

「お前だけじゃない。剣士はオレには勝てない」そう言うと、頭目はその鍵を自分の首筋へと突き立てた。鍵は肉を貫いて男の首にめり込んだ。しかし血が噴き出すようなことはなかった。男は拳を捻るように回して、首から手を離した。突き刺さった鍵の取っ手が首から飛び出していた。

「返り討ちにしてやるよ、この間のおっさんみたいにな」

言い終わるより早く、頭目はハルに斬り掛かってきた。緩慢な動きだ。ろくに訓練を受けたことのない、素人丸出しの動作だった。

ハルは軽く相手をいなすと、肩の付け根を狙って突いた。肩を傷つければそれでもう剣は振るえなくなる。流れるように繰り出されるハルの突きは、見てから逃れられるようなものではなかった。剣が男の肩を捉えた。ハルの手にその感触が伝わった。反動で、ハルは後ろに弾かれた。その勢いを利用して一旦距離を取る。(今の手応えは)ハルは困惑した。(何か着込んでいるのか)ハルの手に残るのは、金属かなにかを突いたような感触だった。

しかしこのならず者は、くたびれた革の胸当てを付けていこそはすれ、肩まわりには何も身に付けていなかった。薄い木綿の服の下に、頑丈だがかさばる金属製の防具を着込んでいるようには、とても見えなかった。

「おいどうした」頭目はわざとらしく聞いた。「何か見込み違いでもあったか」

頭目が斬りつけてくるの見て、ハルは身をかわし際、相手の剣を持つ手を打った。籠手はつけておらず、むき出しの手だ。斬れば必ず指が落ちるはずだった。打ちざまに距離を取ったハルが、再び相手に向かって構えると、しかし、なにごともなかったかのように、頭目は剣を握ったまま悠然とハルの方を見た。

そのまま突進してきた頭目をハルは横にずれてかわそうとしたが、相手は手を広げてハルに掴みかかってきた。ハルは咄嗟に脇下を斬り上げたが、またしても金属のような硬いものの感触が伝わってきた。頭目はそのままハルを捕らえると、力任せに放り投げた。

食器棚にぶつかって、中の皿やスプーンなどが散乱した。身体を強く打ちつけたハルは、倒れたまま、起き上がる気配がなかった。

頭目はゆっくりした歩みでハルに近づいていった。ようやく身を起こそうとしていたハルの頭を踏み、床に押し付けた。ハルが苦悶の声を上げた。

それを聞いて頭目は満足げに笑った。

「ざまぁねぇ」頭目が足を擦るように動かすと、ハルの苦しみの声はいっそう強くなった。

「おい、いいのかよ。寝ころんでちゃ、お仲間を助けらんねぇぞ」

ハルは自分の頭を押さえつけている足に手をやった。なんとかそれを両手でどかそうとした。しかし小柄なハルの腕力ではびくともしなかった。必死にもっと力をこめようともがくハルの呻きが部屋に響いた。

「足をどかしてほしいのか」

頭目は押さえつけていた足を離すと、ハルの身体を思い切り蹴った。咳き込み嘔吐するようにハルは悶えた。

ハルはすぐにでも立ち上がろうとした。そしてこの悪漢に再び立ち向かうのだと強い意志で思った。しかしハルの気持ちとは裏腹に、身体は痺れ、自分とは切り離された、まるで別の物体みたいに動かなかった。手を動かすのもやっとで、とても起き上がることはできなかった。

うずくまったハルの頭上に、染み付いた血の曇りに汚れた剣がかざされた。

ハルは身を丸めたまま、目をつむり、無意識に、胸元を握っていた。服の上から握られたそれは、襟元から漏れ出すように、ほのかに光を放っていた。

ハルに向けられていた剣が高く振り上げられた。そのまま振り下ろせばハルの首を打つ角度だった。悲鳴がした。ハルを呼ぶ声が聞こえた。しかしハルは動けなかった。鈍色の剣を握る頭目の手に、力が入った。

そのとき、扉が開いた。

流れ込む外気とともに、黒い、長い外套の男が、部屋の中へと入ってきた。男は部屋の様子を一瞥すると「取り込み中だったか」と言った。「気にするな、続けてもらっても構わない」

「なんだてめぇは」頭目はそう言ってから、何かに気づいたように眉をひそめた。「表の奴らはどうした」

男は何も答えずハルたちの方に歩み寄ってきた。

剣を高く構えたままだった頭目は、ハルと男とを交互に見比べた。迷っているようであったが、意を決したか、男に斬り掛った。男は身体を半身に捻り、剣をかわし際に、突くような蹴りを見舞った。頭目の体躯は弾き飛ばされた。

男は振り返ると、片膝をついて屈み、ハルの顎に手を当て、上を向かせた。ハルの顔を見ると、皮肉そうな笑みを浮かべた。

「綺麗なもんだ。大した傷は負ってないな」

「首から下ですよ」ハルは嬉しさで泣きそうだった。その姿は、涙に滲んで歪んで見えたが、確かにグリエルモだった。「体中きっと青あざだらけです」

「服をひんむいてやってもいいが」グリエルモは立ち上がると、近くに落ちていた剣を拾い上げた。「その前に、お片付けの時間だな」

グリエルモが視線を向けたその先で、頭目が倒れた椅子に手をかけて起き上がった。眉や鼻をくしゃくしゃに歪め、敵意に満ちた面持ちでわなないていたが、グリエルモの立ち姿を認めると口角を上げた。

「剣じゃだめです」ハルが口早に言った。「斬っても、傷一つつかないんです。金属を斬ったような──

「そういうこった」頭目は勝ち誇ったように言った。「何人来ようと一緒だ。オレを傷つけることはできねぇ」

「首のそれだな」グリエルモは、頭目の首から生えるようにして頭を覗かせている、鍵の取っ手を示した。

「外皮を硬化させるのか。剣だけじゃない。さっきの蹴りも大して効いていないだろう」

頭目は驚いたように、目を大きく開け瞬いたが、すぐに笑みを取り戻した。

「鋭いじゃねぇか。だがそれがどうした。そうとわかっても、どうしようもないってことには変わりねぇ」

「そうかもしれん。試してみよう。奇遇なことに」グリエルモは外套の内側、胸元の辺りに手を入れると、小さな鍵のような物を取り出した。「オレも持っているんだ」

その瞬間、頭目の足元から、黒いものが飛び出してきた。何かはわからない。影が物質化したかのようなものが浮かび上がり、頭目の身体を掴むと、宙に持ち上げ、壁に押し付けた。

床に届かない両足をばたつかせている頭目の元へ、グリエルモはゆっくりと近づいていった。グリエルモが横薙ぎに斬りつけると、服は裂けたが、血は流れなかった。

「確かに硬い。よく見ると、鱗のような光沢がある」

「離せこの野郎」頭目が叫んだ。「何をしたってムダなんだ。わかったら早く下ろせくそ野郎が」

「興味を掻き立てられるな」グリエルモは冷たい笑みを浮かべた。「全身そうなのか? たとえば、体の内まで硬くなっているのか」

グリエルモは剣を頭目の眉間に向けた。そこから鼻筋を辿り、ゆっくりと動かしていき、口先で止めた。その意図を察してか、頭目は口を固く閉じた。

「どうやら口の内は硬くないらしい」

手の形をした影のようなものが頭目の顎を包み込むように掴んだ。頭目は口を閉ざしたままくぐもった呻き声を上げて抵抗していたが、力尽くで顎を開かされると、その声は喃語のような叫びとなった。開かれた口にゆっくりと剣が差し込まれていく。叫びが甲高くなる。引き攣るような泣き声になる。呼吸が浅く激しくなる。次の瞬間、頭目は短く体を震わせると、雄叫びのように苦悶の声を上げ始めた。

グリエルモは剣を引いた。その切っ先には血の一滴も付いていなかった。

頭目はなおも叫び続けていた。右肩を手で押さえるようにして苦しんでいた。右腕がまるで石膏が剥がれるように崩れ落ちていっていた。

グリエルモは舌打ちすると、頭目の首に手をやった。突き出るように頭を見せている取っ手を掴み、捻ると、首から鍵を引き抜いた。叫び声は止んだ。頭目は力が抜けたようにうなだれ、小さな唸り声がかすかに漏れた。影のようなものが消えると、頭目は膝から地面に落ち、前のめりに倒れこんだ。グリエルモの手の中で鍵は粉々に砕けた。

室内は静寂に包まれた。動くものは何もなかった。無音の空間に差し込む夕日の帯を微細な塵埃が横切るように漂うばかりだった。部屋にいる誰もが唖然とした様子でグリエルモの背を見つめていた。理解を超えたことを目の当たりにして、思考も感情も一時的に麻痺してしまったかのように、誰も言葉を発しなかった。

沈黙を破ったのはザジだった。立ち上がろうとしたとき、刺された傷が痛んだのか、短く苦痛の声を上げた。マルナが我に返ったように表情を取り戻し、ザジに駆け寄った。倒れそうになるザジを抱きしめるようにして支えると、今まで抑えていた気持ちが一挙に押し寄せたのか、泣きつくようにその胸に顔をうずめた。マルナが何か言い、ザジもマルナの腹に手を当てながら、穏やかな表情で何か答えたが、二人が何と言ったのかハルところまでは聞こえてこなかった。

立ち上がるときハルは背中に痛みを感じ、一瞬顔を苦痛に歪ませたが、そう酷く傷めているわけではなさそうだった。頭も少し痛んだが、そう激しいものではなかった。ハルはマルナとザジを見ていた。二人は無事を喜び合っているようだった。

「バカなことをしたな」声の方を向くと、ハルの隣にグリエルモが立っていた。「無茶はしないはずじゃなかったか。首の下はどうだ。ちゃんと頭とつながってるか」

「ありがとう」ハルは声を弾ませた。「助けてくれるなんて──でも面倒ごとには首を突っ込まないんじゃ」

「何か面倒なことでもあったか?」

ハルはあえて言い返そうという気にはならなかった。ほとんど抱きつきたいくらいだった。

喜ぶハルには年相応のあどけなさが戻っていたが、その表情を再び曇らせたのは、起き上がろうとするならず者たちの姿だった。ハルが倒した男たちは、顔中を血塗れにし、見えずらそうに目を細め、二人がかりで気を失った頭目を抱き起こそうとしていた。

「もう帰るのか」グリエルモが言った。「もっとのんびりしていったらどうだ。この村じゃ、余所者には歓迎会を開いてくれるんだ。楽しいぞ」

「後悔させてやる」男の一方が言った。「こんな真似しやがって、絶対後悔させてやる」

「本当のことを言ってしまって悪いが、自分の現状を悔やんだほうがいいんじゃないか」

「そんな軽口もすぐに利けなくしてやる」男は顔を歪ませて言った。顔に深い皺ができ、乾いた血がパリパリと割れた。まだ止まらない血がその上を伝っていく。「仲間が大勢いるんだ。村中皆殺しにしてやる」

村人たちの顔から血の気が引いた。その反応を見て、男は「全員殺してやる」と繰り返した。

「そんなことはさせない」ハルは弾かれるように言った。理不尽に苦しめられた。力尽くで脅され、傷つけられ、住居すまいを滅茶苦茶にされた。その上まだこんな酷いことを続けようというのか。ハルは決死の様相で言った。「そんなことさせるもんか。お前たちの思い通りになんてならない。ボクたちはお前らなんかに絶対負けない」

「強がったってムダだ。こっちは百人以上いるんだ。女子供も一人残さず殺してやる。てめぇらみたいな芋どもなんざ片っ端から切り刻んでそこら中の木に吊るしてやる」

ハルは拳を強く握った。しかしどうしようもなかった。ここでこの連中を力尽くでどうこうしたところで、問題は解決しない。いずれ異変に気づいた他の仲間たちが村にやってくるだろう。遅かれ早かれ、男の言ったとおり、村はならず者たちに襲われ、殺され、略奪の限りを尽くされることになる。

男は勝ち誇ったように笑みを浮かべた。抑えきれない欲望が滲み出るような笑みだった。

「そいつを殺せ」男が言った。皆がその視線の先に目を向けた。グリエルモは何も気にしていないかのように表情を変えなかった。男は続けて言った。「そいつを殺せば、他のやつらは許してやる」

ハルは(そんなこと)絶対にできないと思った。自分達を助けてくれたこの人物を殺すなんて(できるはずがない)と思った。それに男の言うことなど(信じられるはずがない)と思った。グリエルモを殺して、それでこのならず者たちが約束どおり手を引くだろうか。

ハルは他の村人たちを見た。皆一様に不安と戸惑いの混ざり合った顔をしていた。ならず者の男が、この得体の知れない人物と村人たちを、仲違いさせようとしているのは明白だった。しかしそうはいっても、百を超すほどの無法者の集団と争うなどすれば、村が滅んでもおかしくなかった。

ハル自身の答えは決まっていた。しかし村全員の命と引き換えになるかもしれないその言葉を、ハルはすぐには口に出せなかった。

「そのようなことはせぬ」口を開いたのは村長だった。訥々とした口ぶりであったが、男を真っ直ぐに見据え、言葉を続けた。「その方は、村のために戦ってくださったのだ。それはもはやこの村の一員と同じこと。食糧ならくれてやろう。家を壊されても直せばよい。しかし村の者を傷つけるというのなら、我々は争うことも辞さぬ」

ならず者の男はそれを聞いて、不快げに歯軋りをした。「言うじゃねぇか。さっきまで泣きながら哀れにすがりついてたじじいが」ならず者は声を低くして唸るように言った。「争うだと? 争いになんかならねぇよ。オレたちが一方的に嬲り殺すんだ。わかってんのか。火を放ってやる。全員丸焼けだ。逃げ場なんかねぇぞ。このちっぽけな村を百人以上が取り囲むんだ。片っ端から捕まえて、苦しめぬいて、殺してやる」

男が弁舌を振るうのを聞いて、グリエルモがくつくつと笑った。

あまりに場違いな振る舞いに、皆の視線がグリエルモに集まった。一体この状況で何を笑っているのか。部屋中の顔に当惑が浮かんだ。

「なにがおかしい」男が凄んだ。グリエルモはせせら笑うようにして答えなかった。男はいきり立って言った。「てめぇいかれてんのか」

「嘘を言うなよ」グリエルモは笑いを堪えるようにして言った。「百は見栄を張りすぎだ。せいぜい三十人くらいしかいなかった」

男は言葉に詰まった。脂汗を滲ませ、搾り出すようにして、ようやく声を発した。「どういうことだ」

ハルも思わずグリエルモを見た。グリエルモは問いには答えず黙っていた。(信じられない)とハルは思った。朝いつの間にか出て行った彼が何をしていたのか、ハルは今になって察しがついた。

「おい答えろ。どういうことだ。いい加減なことを言うな。なんでお前にそんなことがわかる。でたらめ言いやがって」

男は慌てふためいた様相で叫んでいた。しかしグリエルモはやはり何も答えなかった。相手にする必要はないと思ったのか。男を無視して、村長に他の村人たちを呼んでくるように言った。

やがて、駆けつけた村の若い衆によって、ならず者たちは縛り上げられた。

事の成り行きを知った村の人々は大いに喜んだ。感謝を示すため是非に村を挙げての宴を設けたいと申し出た。グリエルモはそれを迷惑そうに断った。

「こいつの家にもう一晩泊めてもらう」そう言ってグリエルモはハルの頭に手を乗せた。「そうしたら明朝には発つ。ゆっくり寝かせてくれ」

グリエルモはハルに「いいか?」と聞いた。ハルはくすぐったさそうに笑った。


15


ハルには嬉しい知らせだった。

ザジとマルナの家を片付ける村人たちを残して、ハルはグリエルモを伴って家に帰った。ちょうど一日前、同じように二人で歩いた道だった。そのときはマルナが家から飛び出してきた。今日は、別の人が待っていた。

「まだ生きてたのか」グリエルモが言った。

「死んだら花でも手向けてくれるのか?」そう返したのはハリスタッドだった。ハルに目をやると、心配と安堵とが半分ずつといった顔になった。「無事だったか」

「うん」ハルは笑顔でグリエルモを見た。「おかげさまで」それからハリスタッドを心配そうに見つめた。「父さんこそ、怪我はもう平気なの?」

「あぁ。もう歩くくらいはなんともない」

「本当に?」

「本当さ。心配をかけたな」

「知ってるかもしれんが」グリエルモが口を挟んだ。「この男の『なんともない』は信用ならない。足が折れてても丸一日走り続けるようなやつだ」

「そんなことしたの?」ハルは驚いて言った。

「こいつの言うことをいちいち真に受けるな。身が持たなくなる」

家に戻るとハルは客人と父のために湯をわかし、昨日マルナが置いていってくれた肉なしシチューの残りを温めた。慌しい一日だったので朝から何もろくに食べていなかった。こうして人と食卓を囲みあたたかい料理を食べられるのを(幸せだな)とハルは思った。

食事を摂りながらハルは今日の出来事を父にかいつまんで話して聞かせた。ハリスタッドはまだ床を離れたばかりだからか、少しずつゆっくりと料理を口にしていた。

ハルの話があらかた済むと、ハリスタッドはグリエルモに向かって頭を下げた。

「感謝する。ハルとこの村を救ってくれて」

「いいさ、行きがけの駄賃だ」

ハルはその一言にふと引っかかりを感じた。

「どういうことですか?」そう聞いたハルを、グリエルモが見た。「つまり、その……行きがけの駄賃というのは」

「ついでにやっただけだから、大したことじゃないって意味だ」

ハルもそれはわかっていた。「何か用があったんですか?」ハルはそう口にしてから、聞いていいものか少し迷った。踏み込んではいけないところに踏み込んでしまうような気がした。しかし、今聞かなければ、聞きそびれてしまいそうで、思い切って続けた。「……あの鍵と、何か関係が」

ハルの戦ったあのならず者の頭目は普通ではなかった。またそれはグリエルモも同じだった。どちらも同じように小さな鍵を取り出して、不思議な力を使ってみせた。しかしハルが聞かずにいられなかった理由は、それだけではなかった。

ハルの問いに、グリエルモは案外すんなりと「そうだ」と答えた。

「気になるか」グリエルモはハルの目を見つめて言った。

ハルは不意をつかれた思いがしたが、目を逸らさなかった。服の上から胸元のそれを握ると「はい」と答えた。

「あれはなんだったんですか……あんな斬っても血のでない人間がいたり、それに──」ハルはグリエルモの影のことを言おうとして口籠った。恩人に対して不躾な物言いになってしまわないかと気兼ねした。「──それに、昨日、同じようなものを知っていると言ってました」

ハルは首から下げていた鍵を取り出した。

「もしかして、この鍵とも、何か関係あるんですか」

「そうだ」グリエルモははっきりと言った。

「何か用があるのかと聞いたな。オレの用はその鍵だ。正確に言えば、あのろくでなしが持っていた鍵を探しに来て、もう一つお目当てのものを見つけたというわけだ」

「この鍵は」ハルは手元を見つめた。「一体、なんなんですか」

「言わば、驕傲と冒涜の鍵だ」グリエルモは大人が子供に怪談を聞かせて喜ぶような笑みを浮かべた。「開けてはいけない扉の錠を外すための鍵だ。開けると何が起こるかは、お前も目の当たりにしたな。オレはわけあって、その鍵の、とある一本を探している」

ハルはハリスタッドを見た。ハリスタッドは何も言わず目を伏せていた。ハルは再びグリエルモを見た。

「この鍵がそうなんですか」

「それはわからない。昨夜言ったとおり、詳しいやつがいる。そいつに調べさせればわかる」

「母は」先を聞くことにハルは不安を感じた。「この鍵とどんな関係が──どうしてそんなものを」

「さぁな。考えられるのはお前の母親がその鍵の持ち主ということだ。鍵には持ち主がいる」

「持ち主?」

「本来の持ち主と言ってもいい。あいつはそうじゃなかった」グリエルモはつまらなさそう言うと、右腕を何度かはたいた。「すると、あぁいうことになる」

ハルはならず者の頭目の叫び声を思い出して胸が痛んだ。憎むべき相手ではあっても、気分の良いものではなかった。

「この鍵のことを調べれば、母について何かわかるんでしょうか」

「絶対とは言わんが、手がかりにはなるかもな」

「父さんはこのことを……?」ハルは再びハリスタッドを見た。

「いや」ハリスタッドは表情を変えず言った。「初めて聞いた。その鍵にそんな秘密があったとはな」

ハルは再び手の中の鍵を見た。

ハルは物心つく前からコルトの村で育ち、母親のいないハルに親切にしてくれる村の人たちを家族として慕ってきた。だから他の子供たちのように母親がいなくても、何も悲しいことはないと思っていた。もしこの鍵を手がかりに、本当の自分の母親が誰なのかわかるかもしれないとしても、そのことにさしたる意味はないはずだった。

それなのにハルは胸を締め付けられるような、抑えつけようとしても抑えつけられない気持ちを感じていた。昨日グリエルモがこの鍵に心当たりがあると言ったときからそうだった。本当はもっと、ずっと前からだったのかもしれない。自分には母親がいないのだと、最初に気づいたのは幾つのときだったろうか。

ハルはしばらくその古い小さな鍵を見つめていたが、意を決したように顔を上げた。不安のない意志の込められた目でグリエルモを見つめた。

「ボクも、一緒に連れて行ってくれませんか」

グリエルモが何も言わないのを見て、ハルは言葉を続けた。

「この鍵の持ち主が母かもしれないというのなら、ボクは会ってみたいです」

「別に持ち主に会えるとも、それがお前の母だとも、決まったわけじゃない」

「違ったらそれでも構いません」ハルは即座に言った。「ついていっては、いけませんか」

グリエルモはしばらく黙っていた。その間グリエルモはハルのことをじっと見ていたが、ハルも彼を見つめ返していた。森で獣に出会ったときのように、目を逸らしてはいけないと、ハルは直観的に感じていた。

「物見遊山の気楽な旅をしてるわけじゃないんだ」グリエルモは溜め息をついた。「お子様のお守りはご免だな」

「役に立つんじゃないか? 荷物を運ぶのは得意だ」そう口を挟んだのはハリスタッドだった。

「意外だな。止めないのか? 悪い親だ」グリエルモは呆れたように言った。

「もう十五だ。自分のことくらい自分で決められる歳だ」

「そうは見えなかった。小柄な上に童顔なんだな」

なぜか不必要に馬鹿にされた気がしてハルは頬を膨らませてむくれた。

「あいにく、荷物持ちは間に合ってる。余計な荷物は持たないことにしてるからな」

ハルとしては思い切ってしてみたお願いだったので、やはり気落ちした。しかし考えてみると無理なお願いをしてしまったのかもしれない。そうだとすると(厚かましいことを言ってしまった)と少し恥ずかしくなった。

「わかりました」ハルは気を取り直して言った。それから、首に掛かっていた紐を外すと、その先に付いた鍵とともに、グリエルモに差し出した。「これを持って行ってください」

「いいのか」グリエルモは念を押すように聞いた。

「必要なんですよね。それに、助けてくれたのにお礼も何もできてませんし……お預けします」ハルは残念な気持ちだったが、表情だけでも笑顔をつくって言った。決して手放して何ともないというわけではなかったが、この人になら渡してもいいと思った。

「でも……もし母について──この鍵の持ち主について何かわかったら、ボクにも教えてくれませんか」

グリエルモはしばらく目を閉じ何も言わずに黙っていたが、やがて目を開けると、ハルから鍵を受け取った。


16


家の外から聞こえてくる声にハルが気づいたのはそのときだった。ほとんど同時に二人も気づいたらしい。声は遠くから家に近づいてくるようだった。ハルが視線を向けると、ハリスタッドが頷いた。ハルは念のために用心をして、足音を立てないように窓に近づくと、聞き耳を立てた。

外から聞こえてくる話し声に、ハルの顔は思わず綻んだ。

「村の人たちですよ」ハルは二人に告げた。「皆して来ちゃったみたいです」

「もう夜だぞ」グリエルモは嘆くように言った。「一体何の用があってこんな遅くに」そう言いつつ、察しはついているようであった。

ハルはくすりと笑った。外で酒や食べ物を山ほど持ってきている村人たちの姿が目に浮かぶようだった。

扉を叩く音が聞こえた。同時にハルを呼ぶ大きな声がした。扉を開けるよう要求していた。

「ちょっと待て」表に出ようとするハルをグリエルモが呼び止めた。「そいつらを中に入れるな。裏口はないか」

グリエルモは立ち上がると外套を纏った。

「でも」ハルは慌てて言った。「外はもう真っ暗ですよ」

「暗い方が静かに眠れる。どんちゃん騒ぎは、オレ抜きでやってくれ」

グリエルモは何かを探すように左右を見回した。

「ハル、案内してやれ」ハリスタッドが言った。

「でも……

「無理強いしないことがなによりの礼だ……彼らのことは私に任せておけ」ハリスタッドは表口の方を示した。「まぁ、うまいこと言っておく」

ハルはグリエルモを連れて裏口へと回った。表に出ないとなると森の中を抜けていくしかない。土地勘のないグリエルモを一人で行かせるわけにもいかないので、ハルは途中まで送っていくことにした。大した距離ではないので軽装に、グリエルモに渡そうと小さめの水袋だけを携えた。

「ハル」外に出かけたところで、ハリスタッドに呼び止められた。「これも持って行け」

ハリスタッドに渡されたのは、剣と深い燕支えんじの裏地の外套だった。古い物ではあるが、きちんと手入れのされた、いつもハルの纏っている痛んだものとは違う、綺麗な外套だった。

「夜は冷えるぞ」

「そんなに時間はかからないと思うけど」

「これからは、外に出るときはきちんと身支度して行くんだ。一人前の大人には当然のことだ」

ハルは(何を言ってるんだろう)と思いながらも、それらを受け取った。よくわからないながらも一人前と言われることは嬉しかった。外套を纏うと、少し大きかった。

外はとうに日が沈み、あたりはすっかり暗くなっていた。昨日と違い、月と星とが姿を見せ、夜の帳が下ろされた大地を白く照らしていた。

木々の間を抜け、村から離れて行くと、さっきまで聞こえていた村人たちの声も、次第に小さくなっていった。やがて、木々が風に揺られる音や、虫の鳴く声、枯れ枝や落ち葉を踏んで歩く音が聞こえるばかりになった。

しばらく歩くと、山道に出た。ここまで来ればあとは道になりに行くだけだ。ハルはここで、グリエルモに別れを告げ、一人家へと帰るつもりだった。

「もう行かれるのですかな」と声を掛けてきたのは村長だった。

ハルは驚いた。「どうして」こんなところに村長がいるのか。

「村の恩人に、礼の一つも言わずに送り出すわけにはいかないからな」隣でそう言ったのはノグだった。(それで)とハルは思った。森の中の通り道については村の誰より詳しいノグだ。ハルの家のあたりから山道へ向かおうとしたらどこへ出るかくらい当然知っている。

「すみませぬな。止めはしたのですが、聞き分けのない者どもで」

「いいさ。どうせ夜のうちには出るつもりだったんだ。それが少し早まっただけだ」

「皆、貴方に感謝しているのです。村を救ってくださった恩人になにも報いず帰すなど、到底気持ちが治まらないのです。わかってくださいますか」

「あぁ」

「では、せめてこれを受け取ってくだされ」

村長がそういうと、ノグは大きな袋を両手に抱えて、グリエルモの前に置いた。

「大した物ではありませぬが、お礼の品でございます」

「冗談だろ」グリエルモは困ったように言った。「こんなものを持ち歩けってのか」

「村で採れた作物です。特によくできた美味しいものばかりで……

「そういう問題じゃない」

「村を救ってくださった恩人になにも報いず──

「それはさっき聞いた」

「わかってくださいますな。そうすれば村の皆にも言い開きが立ちます」

グリエルモが袋の口を開いた。ハルも脇から覗いてみた。芋が沢山詰まっていた。今年は出来もよく沢山採れた。コルトの芋は味がいいらしく、町からわざわざ買い付けに来る商人もいるほどだ。焼いてもいいし蒸かしてもいい、シチューやスープに入れてもいい。

グリエルモは迷惑そうに芋の詰まった袋を見ていたが、諦めたように溜め息をついた。

「まぁいいか。どうせ持つのはオレじゃない」

その場にいた全員が、グリエルモの言ったことの意味がわからなかった。ハルが「どういうことですか」と聞いた。

「荷物持ちならできるんだろ。あれは嘘だったのか」

ハルは驚いた。「いいんですか」と飛びつきかねない勢いで聞いた。

「だめだとは言わなかった」

本当にそうだったろうか、ハルは思い返してみたが、よくわからなかった。

「そのつもりで、そんな身形みなりで出てきたんじゃないのか?」

ハルは纏っている外套を見た。出掛けに父の渡してくれたものだ。(父さん)と思ってハルは振り返った。ここからでは密生した木々に遮られ、遠く、ハルの家は見えようもなかった。

「どういうことですかな」村長が困惑げに聞いた。

「こいつは連れて行く」

「それは……」村長は何と言っていいか困っているようだった。「一体どうして」

「母を探しに行きます」ハルが答えた。「彼と一緒にいれば、母のことがわかるかもしれないんです」

村長は何か言いたさそうな悩ましげな顔をしていたが、仕方ない様子で首を振った。

「村を出て行くのか」ノグがハルに言った。

「うん」ハルははっきりと頷いた。

「ザジとマルナが寂しがる」

そう言われるとハルも寂しかった。でも(もう会えないわけじゃない)と思った。ただ一言もなしに別れるのは心残りだった。

「いつかこういう日が来るとは思ってたよ」ハルの様子を見てノグが慰めるように言った。

「二人によろしく」

ハルの頼みに、ノグは片眉を上げて応えた。

袋の口をきつく結びなおすと、村長とノグに別れを告げ、ハルはグリエルモと伴立って山道を歩み始めた。夜道ではあったが、月明かりのおかげで、それほど歩きづらくはなかった。

「そういえば」途中でグリエルモが振り返った。「これは、返しておこう」

ハルが受け取ったのは、あの古い小さな鍵だった。

「いいんですか」

「どうせ道中は一緒なんだ。どちらが持っていても大差ない。それに」グリエルモはハルの肩の荷を指した。「礼は別に貰ったからな」

それからは会話もなく、黙々と山道を歩いた。しばらくはずっと上り坂だった。

峠を越すあたりで振り返ると、遥か下方に、明かりが見えた。月と星とに青白く照らされた森の、木々の開けた空間に、いくつもの赤黄の光の点が揺らめいて見えた。ハルの家に集まった村人たちの灯りだろう。

ハルは立ち止まってそれを眺めていたが、グリエルモの背を追って、歩きだした。不思議と荷物は重くなかった。坂の下りに入ると、コルトの村は見えなくなった。


第一話 終