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黒の鍵取り
第二話 赤い瞳と人形遣い

1


街道はヴィニアに近づくにつれ人通りを増していった。石畳の道を荷馬車がせわしなく通り抜ける脇で旅装の人々が、あるいは仲間と語らいながら、あるいは一人路傍の石を蹴りながら、歩いていく。ヴィニアに向かう人もいれば離れる者もある。その人の流れに混ざって、二人、黒い外套を纏った背の高い男と、白い剣を佩いた子供の姿があった。

「すごい人だなぁ」とハルは明るい声で言った。「こんなにたくさんの人が、どこからやってくるんだろう」

「山を降りたのは初めてなのか?」後ろからグリエルモが言った。

ハルは四つ辻を見かけると駆けていき、物珍しそうに道標を眺めた。なめらかに曲線加工され両端だけが尖った木の札が、角張った棒の先に取り付けられている。札に何と刻まれているかはハルにはわからないが、面白そうにそれを見ていた。ハルはグリエルモの方を振り向いた。

「テレスの町には出たことがあります。でもこんなに人はいませんでした」

ハルははじめてみる都会の風景に興奮を抑えられない様子だった。

「街に入ったら気絶するんじゃないか?」グリエルモは呆れた様子で言った。「あんまりはしゃぐなよ。キョロキョロしてると不案内なのが丸わかりだ。そういうやつは物盗りなんかに狙われやすい。旅の心得その一だ」

「その二もあるんですか?」

「親切そうなやつを見たら泥棒だと思え」

「そんなバカな」

「本当だ。ここはコルトみたいな全員が顔見知りの田舎じゃない。良いやつも悪いやつも平気な顔をして一緒に暮らしてるんだ」

ハルには信じられなかった。そんな悪い人が普通に暮らしていたら、すぐに捕まってしまうのではないだろうか。またグリエルモがハルを(怖がらせようとしているんだ)と思った。旅の道中、グリエルモにからかわれるのには慣れてしまった。

「あ。あれは何を売ってるんでしょう?」

少し先の道沿いに、絨毯ともいえない布地を広げ、その上に雑多に品物を並べている男がいた。ハルが駆け寄っていくと、男はにこやかに笑った。

「いらっしゃい」

「これは何を売ってるんですか?」

「何に見えるね?」

「うーん」ハルは並べられた品々を見て考えた。石、枝、草といったようなそこいらに落ちていそうなものに、液体や砂のようなものの入った瓶、細かい鎖のついた金属製の小物、何か緻密に書き込まれた白い札、顔のない人形、など、考えてもわからない。真剣に考えすぎて身じろぎもせずにいたからか、ハルの頭には小鳥が止まった。

「この瓶は何なんですか」

「これは魔法の粉だよ」男は秘密めかして言った。「この粉を撒いて作物を育てると、黄金の果実がなるのさ」

「そんなまさか。じゃあこの札は?」

「まじないの護符さ。これを家の柱に貼っておけば悪鬼が入り込んでくることはなくなる」

「この枝は?」

「これを焚くと妖精たちが集まってきて願いを叶えてくれる」

「この人形は?」

「人形?」男はハルの指した先を見ると、慌てて人形を手に取り、手元の鞄へと仕舞い込んだ。

「危ないや。ついうっかり仕舞い損ねてた」

「売り物じゃなかったんですか」

「売り物なんだがね。この辺りじゃ売れないんだよ。今、ヴィニアじゃ人形はご法度だから。それよりこっちはどうだい」

男は品物の中から、少し青みがかった透明の玉を取り出した。

「探し物を見つける水晶だよ」

男はそう言って、手の平で丸みを帯びた玉の頭をなでた。

「探し物ですか?」とハルは不審そうに言った。さっきから男が突拍子もないことばかり言うので、ハルはほとんどこの男の言うことを信じられないでいた。

「ちょっと試しに使ってみようか。この水晶を覗いてみて」

ハルは言われたとおり男の持つ玉を覗き込んでみた。透明の球体に日の光が透き入って、男が玉をなでて動かすと、キラキラと光って見えた。「ふぅむ」と男を言った。「キミの探し物はエトリアにあるようだね」

「え?」ハル思わず顔を上げた。男が真剣な眼差しでハルを見ていた。

「キミは何かを探して旅をしている。違うかな。そしてそれは私の見るところ、エトリアにあるようだ」

「どういうことですか」ハルは男に食いつくような勢いで聞いた。

男の言う通り、ハルがグリエルモについて旅に出たのは、母を探すためであった。そしてエトリアは、ハリスタッド──ハルの父が、ハルを拾った街の名だ。

「母が、エトリアにいるということですか?」

「キミの探し物はお母さんだったのか。ふむ」男はなにか納得がいったように言った。

「もう少し詳しく見てみようか」男がハルに確かめるように言った。ハルは即座に「お願いします」と言った。

そのハルの様子を見て、男はにやりと笑った。

「しかしこれ以上を見るとなると、さすがに私だけの力では難しい。ちょっと助けを借りてもいいかな」

「助けですか?」

「この瓶の液体はまじないの力を高める薬なんだ」

そう言って男は、並べた品々の中から、一本の小瓶を手に取った。

「これを使えば、もっと多くのことが読み取れるはずだ。飲んでしまってもいいかな? 売り物だからタダというわけにはいかないが」

「その必要はないわよ。その玉はただの石ころだから」

どこからか、しわがれた声がした。

突然の難癖に、店の男はいきり立って言い返そうとしたが、通りを行く人々を除いて、周りに声の主らしき人物はいなかった。

「その外套と剣を見れば、ちょっと知ってる人ならすぐエトリアの物だとわかるわ。鎌をかけて反応を見て、それらしいことを言ってるだけの、インチキよ」

またどこからかしわがれた声がした。店の男は憤慨して辺りを見回すが、声の主らしき人はやはりいない。ついに道行く人に「お前が言ったのか?」などと詰め寄りはじめた。

「行きなさい。今のうちに。こんな怪しい人の話を聞いてはだめよ」

今度はハルだけに聞こえるような小さな声で言った。ハルは(もしかして)と思った。声はハルの頭の上から聞こえてくるようであった。


2


ハルがその場を立ち去ると、少し離れたところにグリエルモが待っていた。道標に身を預け腕組みをしている。

「何か面白い買い物はできたか」グリエルモがくつくつと笑った。「だから言ったろう? 親切そうなやつは嘘つきなんだ」

「不親切な嘘つきもいるわよ」またハルの頭上から声がした。「たとえば、あなたとか」

グリエルモは否定も肯定もせず、肩をすくめた。

ついハルが声の主を確かめようと上を向くと、ハルの頭に止まっていた小鳥が宙に舞った。小鳥は黒い翼を羽ばたかせ、グリエルモの肩に止まった。カラスのように漆黒の羽毛、漆黒の脚、漆黒の嘴をしているが、その体躯はカケスのように小柄だった。黒の中に目だけが赤く光っているような、不気味な鳥だった。

「ご挨拶ね。ひとが休んでいるのに、急に上なんて向いて」と鳥はしわがれた声で言った。

ハルは信じられなかった。人語を話す鳥などというものを見るのははじめてだった。都会にはハルの(知らないことがいっぱいあるんだ)と驚いた。

「そんなことより、首尾はどうだ」

グリエルモはそう言うと、ハルに背を向けて歩きだした。ヴィニアへと至る道だ。ハルも慌ててその後を追った。

「概ね当たりはついているわ」鳥がグリエルモの肩で言った。「でも確証を得るにはもう少し時間が要りそう」

「確証なんかいい。かたっぱしから確かめていったっていいんだ」

「そうはいかないのよ。あんまり騒ぎになっても困るでしょ。もうちょっと待っていてちょうだい」

「観光でも楽しんでるさ」グリエルモは少しも楽しくなさそうに言った。

ハルはグリエルモの後ろについて歩きながら、二人の会話を聞いていた。何のことかはわからないが、何かこの街でやろうとしていることがあるのはわかった。それはやはりあの鍵に関係していることだろうか。

ハルがグリエルモの背を追いながら、一体この二人は(どういう関係なんだろう)、と考えていると、ふと鳥が振り返った。一瞬目があったが、鳥はすぐまた前を向いた。

「ところで」と鳥が例のしわがれた声で言った。「このお嬢さんはどうしたの」

「お、お嬢さん?」ハルは素っ頓狂な声を上げた。いくら幼く見られがちだとは言え、あんまりだと思った。ハルは早足で二人の前に回りこんだ。

「ボクはお嬢さんじゃありません。コルトの村のハルといいます」

「そう。ごめんなさい、ハル。私はエミリアよ。で、この子はどうしたの」

「荷物持ちだ」

「荷物なんてないじゃない」

「もう売ってしまったからな。いい金になった。ついでだから、都会を見せてやろうと思ってな、連れてきたんだ」

「遊びじゃないのよ」

「無茶なことを言うな。お前が契約者を見つけ出すまでは、遊んでるしかないんだ」

「わかった。この話は後にしましょう。鍵のありかがはっきりしたらまた連絡する。それから合流ということでいいかしら」

「待ち合わせの目印に、胸に薔薇でも挿しておいてくれ」

エミリアは、グリエルモの言うことは無視して、ハルの方を見下ろした。グリエルモの肩はハルより高い。

「じゃあね。ハル、この人の言うこと、あんまり真に受けちゃだめよ」

そう言い残すと、エミリアは小さな翼を広げ、グリエルモの肩から飛び立った。ハルが振り向いて目で追うと、もうどんな建物よりも高く飛び上がっていた。しばらくは空に向かって羽ばたいていくのが見えたが、次第にその姿は小さな点になっていって、やがて見えなくなってしまった。羽根の一枚も残さず、消えるように去っていった。


3


ヴィニアの街に入っても、グリエルモは何も喋らずに歩き続けた。ハルは半歩後ろからそれを追って歩いた。歩幅が違うので、グリエルモが普通に歩いていくと、ハルは少し小走りになった。

「探してるのはあれと同じ、『鍵』ですか」

エミリアが去った後、ハルはグリエルモにそう聞いてみた。しかしグリエルモは「そうだ」と答えただけで、それ以上は話してくれなかった。「今は知る必要がない」というのが彼の返事だった。

人語を話す鳥、エミリアについてもグリエルモは多くは語らなかった。ただ一つ「あれが、例の『詳しいやつ』だ」とだけ教えてくれた。コルトの村で言っていた、ハルの鍵を調べてくれるという、知り合いのことだろう。鳥が鍵を調べてくれるというのはハルにはどうも想像ができなかった。

ヴィニアの大通りには、赤茶色をしたレンガ造りの、見上げるような建物が続いていた。そのいずれにも、通りに面した一階には商店が入っている。道を行く人、店に立ち寄る人、どこからか溢れ出てきたかのような多くの人たちが、街を行き来していた。こんな中ではぐれたらグリエルモと(二度と会えないんじゃ)ないかとハルは少し心配になった。それにしても一体(どこへ向かっているのだろう)。

通りを進んでいくと、やがて先の方に開けた空間があるのが目に止まった。広場だ。中央を囲うように道が周回していて、その道沿いには多くの露店や出し物が出ているように見える。ハルは好奇心をそそられる気持ちが湧いてくるのを感じたが、さっきの今のことなので、駆け寄るのはぐっと我慢した。また変な人に騙されるかもしれない。

「さて、ハル」グリエルモがハルを振り返った。「こういう街についたら最初にすることは、何だと思う?」

すぐには答えを思いつかず、ハルは首を傾げ、口元に手を当てた。もし誰か余所からきた人がコルトの村に滞在することになったら、最初にするのは村長に許可を得ることだ。ということは、こういう大きな街でも、同じように許可が必要かもしれない。

「街の偉い人に挨拶をしにいくとかですか」

「大盗賊団の首領みたいな言い回しだな。残念だが違う。コルトみたいな小さな村じゃないんだ。街の偉い人にはめったなことじゃ会えない」

「じゃ、何をするんですか」ハルは少しふくれて言った。

「宿を決めるんだ。どこに泊まるかも決めずに日が暮れたら、大変な思いをする」

「大変な思い?」

「都会では誰も、ひさしうまやも貸してくれない。宿へ連れて行ってもくれない。田舎町と違ってな」

「どうしてですか」

「街中の住人、全員が余所者だからさ」グリエルモは皮肉そうに笑った。

ハルはその意味がよくわからなかったが、とにかく最初に宿を決めるということには賛成だった。

「それなら、早く宿を探しましょう」

「そこに一つ問題がある」

「宿がないんですか?」

「こんな都会だ。宿はいくらでもあるぞ。ないのは金だ」

「え?」ハルは思わず大きな声を上げた。「お金がないんですか?」

「金が何かは知っていたか」

「どうして……」ハルはいぶかしんだ。道中、コルトの村で貰ったお礼の品々を売って、金銭に換えた。それなりにまとまった金額になったはずだった。

「あのお金はどうしたんですか」

「使ってしまった」

「そんなバカな」

「途中で贅沢をしすぎたからな。酒やうまいものを取り過ぎた」

「ボクはそんなもの飲み食いした覚えがありません……

「なんにせよ、このままでは宿に一泊することもできない」

「ど、どうするんですか……

「引ったくりかかっぱらいか踏み倒しだ」

「だめですよ! どうにか、お金を稼ぐ方法はないんですか」

「ないこともない」グリエルモは広場を指して言った。「あぁいう出し物の中には、何かしらか賭け事の類もあるものだ」

「あっ」ハルは何かに気づいたように声を上げた。「ナレスの町で賭札をしていたでしょう。本当はあれで負けたんだ」

「バカを言うな。勝って有り金巻き上げた」

「じゃあなんで無一文なんですか」ハルはふくれっ面で睨んだ。

「だから言っただろう。贅沢し過ぎたんだ。とにかく、出し物を見て回るぞ。獲物を探すんだ」

ハルが文句を言うのを聞こうともせず、グリエルモは広場に向かって歩き出した。ハルは慌ててその後を追った。


4


広場に足を踏み入れると、視界が開けたように感じた。大通りを挟み込むように並んでいた背の高い建物は、広場を避けるように、その外周をぐるりと囲んでいる。広場の向こう側までは建物らしい建物はなく、空が大きく見えた。

建物に沿って石畳の舗装路が敷かれてあって、その中央が公園のようになっている。それを背にして、道沿いには多くの露天商が店を並べている。果物や野菜、肉といった食糧を売っている店、服や布生地、装身具を売っている店、他にもハルには何を売っているのかよくわからない店が雑多に並んでいた。しかし、この開けた空間に集まっているからか、押し込められたような雑然とした感じはない。売り買いをする人々の活気に満ちているようだった。

グリエルモは露店を眺めながら道沿いに歩いていった。

「何を探してるんですか」

「賭札とか博奕ばくえきをやってるやつだ。それなら負けない」

「博奕?」

「盤の上で駒を動かしたり、そういう類の遊びだ」

「やめておきましょう」

「そんなに心配するな。勝てば何の問題もないだろう」

少し歩くと道の端に人だかりができていた。人だかりというより、人垣と言った方がいいかもしれない。みな興奮して大声を上げている。

「あれはなんでしょう?」

背の低いハルには人垣が邪魔でよく見えないが、グリエルモの身長なら見えるかもしれないと思って聞いてみた。

「あれは、代闘士チャンピオンだな」

「代闘士?」

「人と人との間で諍いがおきるだろう。そういうとき、村ではどうする?」

「村長に話をします」

「話をして、双方納得がいかないときは?」

「そんなことはありませんよ。話し合いをして、それぞれの言い分を聞けば、納得のいく形で落ち着きます」

「コルトみたいな小さな村ではそうかもな。ここではそうとは限らない。そういうとき、どうするかというと、方法は色々あるが、一つに、決闘で決めるということがある」

「決闘で勝った方の言い分が通るということですか?」

「その通りだ。大の大人同士は剣を握って自身の名誉を争う。だが、当事者が女子供だったらどうなる?」

「不利です」

「というより、ほとんど勝ち目はない。だから決闘の代理屋が存在するというわけだ。剣を握れない人間のためには、誰かが戦ってやる必要がある。その誰かが代闘士だ」

「じゃあ、あそこでは今、決闘が行われているんですか?」

「いや、そうではないようだ」もう一度グリエルモは人垣の方を覗いてみた。「実演会デモンストレーションだな。街の人間が、試しに代闘士に挑んでみるという、まぁお遊びだ」

「挑んでみる?」

「代闘士というのは人気があるんだ。たくましくて、しかも弱い人間の代わりに戦ってくれる」

ハルは、それはちょっとわかる気がした。どういう人がそんなことを生業にしているのか、興味が湧いてきた。

「そういうヒーローに、構ってもらいたいやつは結構いるということだ」

「ちょっと見ていきませんか?」

「お前もその手か。あれはだめだ」

「どうしてですか」

「先払いだからな。元手が要る」

「お金を払わないといけないんですか」

「商売だからな。逆に勝てばお金が貰えることにはなっている。みんな負けるのはわかっていて、ご祝儀代わりにお金を渡して、遊んで貰ってるわけだ」

「じゃあ見るだけならタダってことですね。どんな人なのか、ちょっと見てくるだけですから」

そう言うと、ハルは人垣の方に駆けていった。


5


密集しあう人たちの間に小さな体をねじこむようにして、ハルは人垣の前へと出て行った。大勢に囲まれた空間の中心には、大柄の男と、対照的に極端に背の低い男が立っていた。

大柄の男は、上半身に何も纏っておらず、たくましい筋肉をあらわにしていた。鎧を重ねたような厚みのある胸板の前に、もしかするとハルの太股より太いかもしれない両腕を組んでいる。頭には金属製の兜を被っていて、どんな顔をした人なのかは見て取れなかった。

「さぁ、他にはいないのかい。他にはいないのかい」と小男が威勢よくまくし立てていた。「我こそはという人は他にはいないのかい。この英雄グラートに挑戦してみようなんていう勇気のあるお方がいらっしゃったら、みなさん、拍手してあげようじゃないですか。ほら、みんな楽しみにしてるんだ。誰か、名乗り出てみようという御仁はいないのかい」

「これはどういう催しなんですか」とハルは大声を出して聞いてみた。

「おっと、よく聞いてくれたね、利発そうなお坊ちゃん」小男は一瞬ハルの方を向いたが、すぐにそっぽを向いて、辺り全体に言って聞かせるように喋り続けた。「ここに立ち勇む大男は街の英雄グラートその人、素手の彼と立ち合って、傷をつけられたなら勝ち、武器を取り上げられたなら負け。武器はこの剣を使ってもらうよ。血の一滴でも流させたなら、英雄に勝ったという名誉と、心ばかりのご祝儀を差し上げます」

「満足したか?」

隣から声をかけられて、ハルがそちらを向くと、いつの間にかグリエルモがやってきていた。

「もう十分見ただろう」

「英雄だそうですよ。すごいなぁ」

「らしいな。舌の回る信奉者が一人でもいれば、誰でも英雄になれる」

「ボク、やってみていいですか?」

ハルが大声で『ご祝儀』について聞くと、小男はいっそう大きい声でその額を辺りに告げた。もう何度も聞いて知っているだろうに、盛り上がれるならなんでもいいのか、観衆は歓声を上げた。

「これってどのくらいの金額なんですか?」

ハルが聞くと、グリエルモは「まぁ、一月は遊んで暮らせるな」と言った。

「すごいじゃないですか」

「さっきの話を聞いてなかったのか。参加料を取られるんだ。無一文じゃどうしようもない」

「ボクが少し持ってますよ」ハルは笑って言った。「もし足りなかったらまけてもらいましょう。誰か挑戦者に出てきてほしいみたいですし、おまけしてくれるかも」

ハルはグリエルモの返事も聞かずに、大きい声で「ボクがやります」と告げて、頭の上で右手を大きく振りながら、人の輪の中央に進み出ていった。

観衆たちは、ハルの幼い見た目に「あんな子供が大丈夫か」と揶揄したり心配する者もあったが、大多数は歓声と拍手を送ってきた。

「ありがとう、みなさん、ありがとう」小男が大声で言った。「勇敢なる挑戦者にもっと拍手をお願いしますよ。これは驚いた、ワシより小さいんじゃないかね」

「そこまでじゃありませんよ」

観衆がいっせいに笑ったので、ハルは不機嫌そうに口を尖らせた。

幸いにもハルの持ち合わせは参加料に足りた。小男に小銭を渡すと、代わりに一振りの剣を渡された。

「こいつは驚いた。なりは小さいが剣士様だ」小男が叫んだ。ハルは白い剣を佩いたままだった。小男の声に観衆はどよめいたが、まだ半分以上は、囃し立てるような笑いも混じっていた。

「その腰の物は使ってはいけませんよ。お預かりしておきましょう」

ハルは少し考えて、自分の剣はグリエルモに持っておいてもらうことにした。グリエルモは意外にもすんなりと預かってくれた。

剣を一振り二振りと試しに振ってみながら、ハルは相手を見た。大柄の男──グラートは相変わらず腕を組んで立っていた。筋肉の壁のようなたくましい男だ。見るからに力はありそうだ。

ハルは相手がどう出るだろうか考えてみた。徒手なので、殴ってくるか、掴んでくるか。体格差がありすぎるので、剣を持っていても、間合いは有利とはいえない。あまりちまちまとした小細工をする余裕はなさそうだ。

ハルが進み出ると、グラートは腕組みを解いた。腕を広げるといっそう大きく見える。熊と子犬が戦うかといった様相だった。

ハルは半身に構えた。剣を持つ手を前に残し、グラートに向ける。グラートは何も反応しない。お互いに間合いの外だからだ。

相手の間合いも正確にはわからない。もし向こうが動いてきたら後の先を制するつもりで、様子を見ながらハルは少しずつ距離を縮めていった。

周囲の観衆からは時折「なにやってんだ」「さっさとやれ」といったような野次が飛んでいたが、ハルの耳には入っていなかった。

一足の距離まで近づくと、ハルは引いていた左肩を前に出すように捻って、体ごと大男の懐に飛び込んだ。観衆は期待──何への期待だろうか──の込められた叫喚の声を上げた。

ハルは体ごと前に飛び出しながらも、剣を握った右手はそのままの位置に残し──相対的には腕を胸のあたりまで引いて、自身の身体で遮蔽するようにして距離を詰めた。こうすれば剣を落とされることはないし、掴まれても右手が自由なら斬りつけることくらいはできる。血の一滴でも流させれば勝ちという特殊な条件を活かした作戦だった。

体を寄せながら、ハルは相手の脇腹を狙った。手足と違い、胴を咄嗟に大きく動かすことはできない。懐に飛び込めた時点でハルの勝ちだ。あとは腹に剣を掠めさせて、ちょっと血をにじませれば、それで終わりだ。ハルは剣を握る手に力を込めた。

最短距離を飛び出すようなハルの突きに、グラートは左手を出してきた。それも想定済みだ。刃は手の方に向けてある。剣を叩き落そうとすれば間違いなく傷つく。しかしその瞬間、ハルは相手の意図に気づいた。咄嗟に剣の軌道を変えようとしたが、グラートの大きな手は、まるで棒切れでも掴むように、剣の腹を握って止めた。

観衆はあるいは驚嘆の、またあるいは失望の声を上げた。

そのままグラートがあっさりとハルから剣をもぎ取ると、方々から、グラートへの賛嘆やハルへの労いの声、またはあっけなく敗れたことへの野次が上がった。

「どうも、みなさん、素晴らしい挑戦でした。小さな勇者に拍手を」小男が言った。「思い切った少年でしたな。あの大男にこんな小さな体で飛び掛るとは。勇敢な者には皆、拍手で報いようじゃありませんか」

小男の声に応じて拍手を送ってくれる人もいる中、ハルはちょっと気恥ずかしい思いでグリエルモの元に戻った。

「だめでした」

そう言うハルはあまり残念そうではなかった。どちらかというと感嘆する気持ちが強かった。剣の突きを素手で、しかもあんなにあっさりと、止めてしまうなんて。世の中にはすごい人がいる。

ハルははにかみながら自分の剣を受け取った。

「あのまま剣を引けばよかったんだ」グリエルモはつまらなさそうに言った。

「そんな、指が落ちちゃいますよ」ハルはびっくりして言った。そんなことになっては、遊びではすまない。「それに無理でしたよ。剣の腹をしっかり押えつけられてましたから。ボクの力じゃびくともしません」

「悪かったよ。今度からは肉を食っていい」

「その前に宿代ですね……

そもそもの問題を思い出してハルが溜め息をついていると、不意にあたりが騒がしくなった。最初は気にしていなかったが、ざわめきは落ち着く気配がなかった。ハルが辺りを気にしてみると、「おい、血が出てるぞ」と誰かが叫んでいた。何の騒ぎかと不思議がっていた観衆たちの目は、やがてグラートに集まった。

「本当だ、血が出てる」近くで別の一人が叫んだ。「さっきの小僧だ。あれで血が出たんだ」

事情を飲み込んだ観衆たちは弾けるように盛り上がりはじめた。

グラートの手からは確かに血が出ているようだった。その手の平と、さっきまで握っていた剣には、確かに血がべっとりとついていた。

「血だ、血だ。グラートの負けだ」「勝ったのはあのチビだ」何人かが口々に、囃し立てるように言った。

「違う違う」小男が叫んだ「さっきのはあれでもう終わったんだ。グラートの勝ちだ」

「なんだと汚ねぇぞ」

「血が出たんだから金も出せ。誤魔化すつもりか」

小男の周りでなぜか一部の観衆が怒り出した。

「グラートの勝ちだ。グラートが武器を奪ったんだ。血はその後だ」

観衆の中で別の一人が叫んだ。するとさっきの小男に怒っていた男がそれに絡んだ。絡まれた方も引かない。周りの人たちもそれぞれに加担して、小競り合いがはじまった。

「わかった、わかった」慌てた様子で小男が叫んだ。「みんな聞いてくれ。わかったよ、こうしようじゃないか。どっちの言い分にも一理ある。なにもケチで金を出さないといってるわけじゃない。賞金は払おう。勇敢なる者に正当な報いを。半分をさっきの少年に、もう半分をこのグラートに」

観衆は沸いた。

ハルは唖然とした面持ちで事の成り行きを見ていたが、グリルモに背中を押された。

「行ってこい。宿代を受け取ってくるんだ」

ハルが歩み出ると、歓声が上がった。罵倒する声もあったが、それに対抗するようにハルを褒める声も上がった。

小男は賞金を別の小袋に分けなおして、グラートに渡した。ハルが歩み寄っていくと、グラートはその一方をハルに持たせ、手を差し出してきた。血の出ていない右手だ。一瞬ためらってハルも右手を出すと、グラートの大きな手がそれをしっかりと掴んだ。手首ごと包んでしまえそうな大きく手だった。

ハルと握手をしたまま、グラートが賞金を高く掲げると、観衆はまた沸いた。ハルは気恥ずかしい思いがして、グラートが手を離すと、すぐにグリエルモの元に戻っていった。

「早く行きましょう」とハルが言うと、グリエルモは意地悪そうに「宿代の心配はなくなったんだ。ゆっくり遊んでいってもいい」とからかった。

ハルが人垣を押し分けて外に出ようとすると、周囲の人たちはなぜかハルの肩や背や頭をはたいた。軽く触るくらいのものもあったが、ちょっと痛いくらいに叩くものもあった。慌てて外に出ようとしたので、途中で少女にぶつかった。謝りながら起こしてあげ、落とした小さな人形を手渡してあげると、ハルは逃げるように人垣の外へ出て行った。

人の群れから離れていっても、まだ小男が挑戦者を募る声が聞こえていた。

……今のはなんだったんですか」ハルはグリエルモに聞いた。少し涙目になっていた。首筋に手の跡が赤く残っている。

「さぁな。幸運にあやかりたいとでも思ったんじゃないか」

「酷い目にあいました」

「そうでもないさ」グリエルモはハルの小袋を指した。「これで当面は金の心配はいらない。預かっておいてやろう」

「ダメです」ハルは両手で小袋をしっかり抱え込んだ。「また知らない間に使ってしまうかもしれないでしょう」

「お前みたいな世間知らずに持たせてたら、スリに盗ってくださいと言っているようなものだ」

「これだけ重いものを取られて、気づかないはずありません。ボクが自分で持ってます」

グリエルモはくどくどしくスリの手口やその巧妙さを説いたが、ハルは耳を貸さなかった。結局、宿につくまでずっと、スリの方法を多種多様に聞かされ続けた。気をつけないといけないのはスリだけじゃないなとハルは思った。


6


朝、ハルはきちんと身形みなりを整えて、宿の部屋を出た。隣の部屋のグリエルモに声をかけてみたが「もう少し休んでいる」から「好きに街を見て回ってこい」ということだった。「宿の名前は覚えておけよ。帰ってこられなくなっても知らんぞ」

階段を降りると、一階は出口との間に受付がある他に、机や椅子の並んだ広い空間と繋がっていた。宿の一階が酒場になっているのは都会も小さな町も変わらないようだ。昼には食事をする人が集まることもあるだろう。今はまだ早い時間だからか、ほとんど人はいない。カウンターに店主と、狭そうに背を屈めた大柄の男、髪のぼさついた男の三人がいるだけだ。

昼には少し早いが、これから街を歩くことを考えると、先になにか食べておいたほうがいいかもしれない。ハルはカウンターに近づいていった。

「おはようございます」とハルは声をかけた。店主は皿を拭いていたが、目だけをハルに向け、すぐに視線を戻した。

「何か食べられるものはありませんか」

「ないよ」と店主は言った。

ハルは驚いた。

「何もないんですか」

「うちにお子様が食べるようなものはないんだ。表に出れば、乳粥でもなんでも食べられる店がある」

「別に、何でもいいですよ、食べられるものなら」

ハルは少しむくれた。

「何か作ってやれよ」と大柄の男が言った。「酔っ払い相手の料理ばかりじゃ包丁が泣くぞ」

「酔わせてからじゃないと、味が悪いのに気づいちまうだろ」

「何でもいいって言ってるんだ。きっと残さず平らげてくれるさ。なぁ?」

ハルはちょっと不安になったがうなずいた。

店主は「仕方ねぇな」と言いながら、調理の支度をはじめた。

「そんなところに立ったままでいないで、こっちに座らないか?」と大柄の男が言った。

ハルは男の隣に腰掛けた。ハルには少し高過ぎて足が床に着かなかったが、隣の男には小さすぎる椅子のようだった。

「ありがとうございました」ハルは礼を言った。彼のおかげで食事をとることができそうだ。

「構わないよ。オレが作るわけじゃない」

ハルは笑った。誰かにそっくりの口ぶりだった。

「ここの宿に泊まってるのかな?」

「そうです。昨晩から」

「酷い宿だ。狭くて息が詰まるだろう」

ハルは笑っていいのかちょっと困った。大柄な男にとってはそうかもしれない。

「昨夜は快適に過ごせましたよ」

「なにもこんなボロ宿に泊まることはないだろう。金なら十分持ってるだろうに」

「そういう話は、せめてオレに聞こえないようにやってくれ」店主が不快そうに言った。

ハルは疑問に思った。確かに今のハルには十分な金がある。昨日の賞金だ。数日分の宿泊料を先払いしてもまだまだ余っているどころか、すぐには使い切れないほどの額だ。しかし、なぜ彼はそのことを知っているのだろう。

「どうして知ってるんですか?」

率直に聞いてみた。もしかすると、昨日の観衆に混じって見ていたのだろうか。

「どうしてって。昨日、貰っただろう。かなりの額だ」

「あそこにいたんですか?」

「おいおい。酷いな、気づかないのか?」男は呆れたように言った。おもむろに両腕を組むと、胸をそらせてみせた。それから「服も脱いだほうがいいか?」と付け加えた。

ハルは驚きの声を上げた。

「昨日の! ……たしか、グラートさん」

確かに背格好は同じだし、左手に包帯を巻いている。目の前にいるのは、昨日のあの代闘士チャンピオンらしい。

「ほっとしたよ。覚えていてくれたか」

グラートは微笑んだ。

ハルは思いがけない再会に、胸が躍るような気持ちだった。どうして彼がこんなところにいるのだろう。

「気づきませんでした」とハルは謝りつつも笑顔を抑えられなかった。「昨日は兜を被っていたから」

「こんな体格のやつはヴィニアにもそうはいないよ」

グラートは朗らかに笑った。

店主は豆や野菜がたっぷり入ったスープを出してくれた。ハルはおそるおそる一口を運んでみると、びっくりした。「美味しい」と思わず口をついた。豆や野菜の味だけでなく、舌に少しぴりぴりする感じがあって、それが一口ごとに、もう一口食べたいという気にさせる。

「どうしてこんなに美味しいものを、味が悪いだなんて言うんですか?」

「そんなことを言われたのは、何年ぶりだったか」

「客が悪いと、店も自信をなくすのさ」

「子供向けの店に鞍替えしたほうがいいんじゃないか」

奥からもう一人の男もからかった。彼は朝から酒を飲んでいるようだった。

思いがけなく美味しいスープに、しばらくハルが心を奪われていると、グラートが思いついたように「そういえば」と言った。「君に聞きたいことがあったんだ」

ハルはスープを運ぶスプーンの手を止め、グラートを見た。彼は笑顔だったが、さっきまでの和やかな笑みではなく、どこか真剣味を感じさせるような表情をしていた。

「あれはわざとやったのか?」

ハルにはすぐに何のことだかわかった。気まずい思いがした。ハルが何も答えないのを見て、グラートは言葉を続けた。

「昨日のことだ。剣を捉える瞬間、軌道が少し変わったな。あれで切っ先が手の平に当たって、血がでた」

「あれは、たまたまです」

ハルはそう言ったが、グラートは納得がいった様子ではなかった。彼はしばらく黙っていたが、少し眉間に皺を寄せると「本当は手を落とそうと思えば落とせたんじゃないか」と言った。

「それは無理です」ハルは反射的に答えた。「体重も乗ってないし、手首の返しだけでそんなことは不可能です」

「咄嗟に手首を返したのか」

グラートは今度は納得したように言った。どう言っても取り繕いとしか受け取ってもらえそうにないので、ハルはそれ以上否定しなかった。

「手を切ったのはわかったろうに、そのまま帰ろうとしたな。どうして何も言わなかったんだ」

「それは」ハルはすぐには答えなかった。なんと説明すればいいか悩んだ。そのときどう思ったか、自分でもよくわかっているわけではなかった。考えた末、「ボクの負けだと思ったからです」と言った。

「あれは君の勝ちだったろう」

「ボクはあの突きで勝ったと思ったんです。あんな風に止められるとは思っていなかったから」

「それで?」

「それで、ボクの負けだと思ったんです」

「そういうルールじゃなかった」

「そうです」ハルは申し訳なさそうに言った。「気を悪くされたのなら謝ります」

「そういうわけじゃないさ」

グラートが微笑んだのでハルはほっとしたが、グラートは言葉を続けた。

「ただ、腕試しがしたいんなら、正式に決闘を申し込むべきだ。真っ当な剣士があんな余興に飛び入ったりはしない。君の名誉に傷がつく」

「腕試しだなんてそんな」ハルは慌てて否定した。「お金が必要だっただけです」

「それこそ矛盾しているな。賞金が欲しいなら勝ちを主張すべきだった」

「それを言われると弱いです……

困っているハルの様子を見ると、グラートは小さく笑って、ジョッキの中身を流し込んだ。酒かもしれないが酔っているようには見えなかった。

「見た目によらず、頑固なんだな。ところで、名前は教えてくれないのか?」

そういえば名乗っていなかったということに気づき、ハルは非礼を侘びて、自分の名を告げた。

「それにしても金とはな。ハル、金がいるんなら、仕事を紹介してやるぞ。あれだけの剣の腕があって、ごろつきまがいの余興荒らしなんてすることはない」

「仕事?」ハルは驚いた。「代闘士のということですか」

昨日のグリエルモの話では、代闘士というのは、誰かの代わりに決闘を引き受ける仕事だということだった。自分では戦うことのできない誰かのために。そんなことが自分にできるのか、ハルは疑問に思った。

しかしグラートは「オレは代闘士ではないよ」と否定した。「ただの雇われ用心棒さ」

グラートはそう言ったが、ハルには謙遜しているように思われた。

「しかし支払いはいい。もし興味があるなら、雇い主に話をしてやる。素晴らしい人だ」

「素晴らしい人だと?」

もう一人の男が奥からそう言った瞬間、部屋の空気が冷たくなった感じがした。会話が止まったからだ。その静けさに、石を投げ込むように、奥のぼさぼさ頭の男は「クズ野郎の間違いじゃないか」と言い足した。

「黙れ」男の方を見てグラートが凄んだ。グラートはハルの方に向き直ると、悲しそうに言った。「酔っ払いの言うことだ。誤解されやすい人なんだ。皆のためにやっているのに、金持ちは嫉妬される」

「庶民から金や土地を巻き上げる悪党だ」

「違う。立派なかただ。オレの息子を救ってくれた」

「その借金で、ごろつきの用心棒や見世物の手伝いか」

「薬代や治療費を支払ってくれたんだ」グラートは怒鳴り返した。「そうでなければ、息子は死んでいた。こんなこと他に誰ができる? これ以上、見苦しい中傷を続けるな。さもなければ」グラートは自分を落ち着かせるように息をついた。「彼の名誉のために、剣を取ることになる」

「悪かった」男は慌てて言った。「やめろよ。お前に敵うはずがないだろうが」

グラートはしばらく男の方を向いていた。ハルからはその後ろ顔しか見えなかったが、おそらく怒り心頭に発しているのだろう、肩や腕が細かく震えていた。

「すまなかったな」グラートはハルに言った。「今日は帰ることにしよう。もしその気になったら声をかけてくれ。ハル、お前ならいつでも歓迎だ」

グラートは席を立つと、カウンターに荒っぽく小銭を置いた。不機嫌そうに顔を背け、そのまま出口に向かっていった。

「どうしたらまた会えますか」

ハルが呼びかけると、グラートは背を向けて歩いていきながら、手を挙げた。「店主マスターにでも言付けておいてくれ」

ハルと店主は顔を見合わせた。店主は迷惑そうに眉と口を歪めていた。


7


ハルはグラートの後を追って店先に出た。彼の姿を探すと、雑踏に紛れて歩いていくのが見えた。道を行く人たちは川の流れのように止めどなく、やがてグラートの背中も見えなくなった。あたりを行く通行人たちの喋り声だけが残された。

「さっそくお友達ができたようだな」

不意に声をかけられて、振り返ると、グリエルモが立っていた。いつから見ていたのだろう。

「街中歩き回ってるころだと思ったが、何をしていたんだ?」

「食事ですよ」

「なら席に着いて食べた方がいい。立ち食いは行儀が悪い」

そういうグリエルモは、どこで手に入れたのだろう、リンゴをかじっていた。

ハルはしばらく通りを眺めていた。代闘士ではないとグラートは言っていたが、はじめに想像した通りの立派な、高潔な人のようにハルには思えた。そんな人物に腕前を認められ、一人の剣士として扱われたのは嬉しかった。

しかし(残念だけど)とハルは思った。ハルが旅に出たのは、剣士として名を上げるためでも、この都会の街で仕事を得るためでもなかった。

「戻りましょう。まだスープが飲みかけなんです。美味しいんですよ」

ハルが踵を返して店内に入ったとき、不意に、後ろから何かがぶつかった。ぶつかったといっても、やわらかいなにかが、ふんわりと腰の辺りに飛びついてきたような感じだった。

ハルが肩越しに後ろを見ると、それは少女だった。小柄なハルよりももっと小さな、十に届くかどうかといった年頃の女の子だ。

「ど、どうしたの?」

ハルは振り返ると、片膝をついて屈んだ。

少女は走ってきたのか、肩で息をしていた。泣きそうな顔でハルと目を合わせると「助けて」と言った。

「一体どうしたの?」ハルはできるだけ穏やかな声で聞いた。

「お友達が狙われてるの……お願い助けて」

ハルが詳しい話を聞こうとする前に、店に二人の男が入ってきた。男の一人が少女の襟元を掴んで荒っぽく引き寄せると、その細い腕を高く捻り上げた。少女が苦悶の声を上げる。ハルは咄嗟に止めに入ろうとした。

「動くな」もう一人の男が鋭く叫んだ。「その剣の柄に小指一本でも触れてみろ、ただじゃ済まさんぞ。我々は警吏だ」

「警吏……?」

二人の男は、ズボンやブーツなどはそれぞれ違った格好をしていたが、ケープは揃いのものを羽織っていた。胴までの長さの短い外套だ。腰に佩いた細身の剣と白い手袋も同じものだ。

「第二十三警邏隊巡査のバルナバ並びにイレオネだ。治安維持のためこの者の所持物を没収する。不法な手段を以ってこれに抵抗するなら、擾乱行為と見做す」

そう告げた男は、ハルを睨み、左腰に手を伸ばしていた。まだ柄に手をかけてはいないが、指を握るだけですぐにでも剣を抜ける。ハルが少しでも怪しい動きをすれば即座に斬りつけるという気迫であった。

突然のことで呆気にとられているハルをよそに、少女を掴んでいた警吏がその胸に抱えてた物を取り上げようとした。少女は嫌がり、片手だけでも離さないように抗っていたが、力尽くで引き剥がされた。それはなんの変哲もない、小さな人形のだった。

「大の大人が人形遊びか?」グリエルモが言った。

ハルを睨んでいた警吏が、グリエルモを見た。警戒というより侮蔑するような表情をつくった。

「流れ者か。何も知らんようだな。しかし法は知らないでは済まされないぞ」

「教えてくれ。その人形は誰にプレゼントするんだ。パパか?」

「知りたければ自分で調べるんだな。我々はお前のお父さんじゃない」

少女は「返して」と声を上げながら、両手を伸ばして男に取り付いていたが、男が腕を払うと、その小さな体躯は軽々と押し退けられた。ハルは咄嗟に少女を受け止めたが、勢い余って、後ろの家具に背中から倒れこんだ。大きな音を立てて、椅子と机がひっくり返る。店主が弱々しい悲鳴を上げた。

二人の警吏はそれ以上は何も言わず、一同に背を向け店から出ると、外に集まっていた野次馬たちを追い払いながら、去っていった。店の内には元の、朝の静けさが戻った。崩れた数脚の机と椅子を除いて。

ハルは少女を抱えて起き上がった。今の出来事が一体なんだったのか、ハルにはよく理解できなかった。警吏を名乗る男たちが突然やってきて、少女から人形を奪って、去っていく。グリエルモではないが、大の大人が一体なにをしているのか、とても理解できない。

「大丈夫?」ハルは少女に聞いた。

少女は首を振った。どこにも怪我をしている様子はなかったが、目には涙を溜めていた。顔を俯かせ、か細い声で「お友達……」と言った。

「さっきの人形を、守ってほしかったんだね」とハルが聞くと、少女は小さく頷いた。

……ずっと一緒だったの」

「人形くらいで、そんなに泣くことはない」グリエルモが言った。「素敵なレディには、また誰かがプレゼントしてくれる」

少女は首を振った。 

「大事なものだったんだ?」

ハルが聞くと、少女は頷いた。

……お母さんが、作ってくれたの」

「また作って貰えばいい」

少女は再び首を振った。さっきよりも強い否定だった。溜まっていた涙が目からあふれ出していた。どう声をかければいいかハルにはわからず、そっと少女の背中に手を当てた。

「それにしても」ハルは不可解そうに言った。「どうしてさっきの人たちは、あの人形を……

「今、ヴィニアでは、人形はご禁制なんだよ」

店主を机と椅子を元に戻しながら言った。

「この子のだけじゃなくて、人の形をした物は、かたっぱしから集めて回ってるんだ」

「どうしてそんなことを?」

「おかしな話だがね。ちょっと前から、奇怪な事件が起きているんだ。人形が人を襲う」

「人形が?」ハルはますます不可解な様子で言った。「人を? 人形が歩いて回るんですか?」

「そういうことらしい。現に、襲われたっていう人が、何人もいるんだよ。それで、街の人たちを守るためにも、人形は全て処分するということになったんだ」

「街の人たちを守るためね」

声のした方を見ると、カウンターにいたぼさぼさ頭の男が、ハルたちの方を見ていた。

「そりゃおかしいぜ。襲われてるのは善良な市民じゃないんだ。街の人たちを守るためとは笑わせる」

「どういうことですか」

「襲われてるのは悪党、それも大悪党ばっかりさ。ほとんどの街の住人には関係ない話だ」

「めったなことを言うもんじゃないよ」と店主が迷惑そうな顔で言った。

「みんな知ってることさ。街の人間はみんな知ってる。住民たちを食い物にしてるような悪人ばかりが襲われてるんだ。だからアデモッロの野郎も慌てて人形狩りなんてやらせてるんだ」

「アデモッロ?」

「街の評議員をやってる、一番の大悪党さ」

「評議員?」

男はいぶかしげに眉をひそめ、答えなかった。代わりにグリエルモが「村長みたいなものだ」と教えてくれた。「ただそれが何人もいるんだ。こういう街ではな」

「そんな立派な人が、悪い人なんですか?」

「悪いやつだから、評議員になんてなれるんだよ」男は吐き捨てるように言った。

ハルにはよく理解できなかった。もしコルトの村長が悪い人間だったら、村長が何か言ったとしても、誰も従わないだろう。そんなことでは村の長は務まらない。

「集められた人形は、どうなるんですか?」

「そりゃもちろんお祓いだ。勝手に動く悪魔の人形が混じってるかもしれないんだからな」

「お祓い? じゃあそれが済んだら、返してもらえないんですか」

「そいつは無理だ。お祓いっていうのはつまり、焼却処分のことだからな」

少女が、聞きたくないと言うように、耳に手を当てたのを見て、男は嗜虐的な笑みを浮かべた。

「教会の聖なる炎で火あぶりさ。集められた人形まとめてな。灰でよければ返してもらえるかもしれないぜ。もっとも、そうなったらどれがどの人形かなんて見分けはつかないだろうが」

「酷い物言いをしないでください」ハルは少女の肩を抱くと、男を睨んだ。「人を苦しめるのが楽しいんですか」

「オレのほうがもっと苦しめられてるんだ」男は逆に怒りを顕わにした。「あの人でなしにはみんな苦しめられてるんだ。こんな年端もいかねぇ子供から人形を取り上げたからって、それがどうした。大したことじゃねえ」

男は悔しさをにじませるようにして言った。

ハルは(大したことじゃない……?)と思い、服の上から胸元の鍵を握り締めた。何が大したことで何が大したことじゃないかは、人に決められることではない。少女はハルに身を寄せるようにして震えていた。

「その人形って、どこに集められるんですか」

「おい」とグリエルモが口を挟んだ。「厄介ごとには首を突っ込むなと、言わなかったか?」

「聞いてません」

「じゃあ今言おう。厄介ごとには首を突っ込むな。旅の心得その三だ」

「あのクズどもに一泡吹かせようっていうんなら、知恵を貸すぜ」

ぼさぼさ頭の男が言った。

「人形が集められてるのは、教会裏の墓地の側にある倉庫だ。人形が勝手に歩いて逃げ出さないように、外から錠がかけてある。だが、入る方法がある」

「聞く必要はない」

「どうするんですか?」

「裏手の崖の方に回るんだ。倉庫の格子窓のうち一つが、外れるようになっている」

「もう一度いうぞ」グリエルモが厳しい口調で言った。「厄介ごとに首を突っ込むな」

ハルはグリエルモを見つめた。グリエルモもハルを見ていた。しばらくはどちらも何も言わなかったが、やがてハルが不満そうに口を開いた。

「ボクのときは助けてくれたのに」

「あんなのは厄介ごとでもなんでもない。それにちゃんと報酬も貰った」

「お金ですか」ハルは意外そうに言った。「こんな子供ですよ。どうしてもというならボクが払いますよ」

「依頼主はお前じゃない。いいか、この子の母親は、お前の母親ではないんだ」

「そんなことは、わかってます」

ハルは咄嗟に言い返したが、グリエルモは何も言わずにハルを見つめていた。静かな瞳だった。ハルは胸が詰まる思いがした。

グリエルモの言うように、ハルは少女に自分の姿を重ねているのかもしれない。しかし決してそれだけのことではなかった。

……昨日、剣を握れない人間のためには、誰かが戦う必要があると言っていたじゃないですか」

「細かいことを覚えているやつだ」グリエルモは呆れたように言った。「しかしあれは一般論だ。オレの意見じゃない」

「グリエルモさんがついてきてくれなくても、ボク一人で行きますよ」

「自分のことは自分で決めればいい。それで酷い目に合っても、誰も文句を言う筋合いはない。だが人の忠告は聞いたほうがいい」

「その倉庫はどこにあるんですか?」

ハルが尋ねると、男は場所を詳しく教えてくれた。

「行くなら夜がいいぞ。別にろくな見張りもいやしない。ただの人形置き場だからな」

男の説明を聞いてしまうと、ハルは「行こう」と少女を促した。どこに行く必要もなかったが、この場所にはいたくなかった。ハルは少女の手を取ったが、しかし、少女はうつむいたまま、その場から動こうとしなかった。

「どうしたの?」ハルは片膝をついて少女と目線を合わせた。「心配しないで。お友達はボクが助けに行くから」

少女はしばらく黙っていたが、心配そうな顔でハルを見つめると、「いいの?」と零れるように言った。

「うん。ボクに任せて」ハルは笑顔で答えた。

しかし少女は困ったように顔を伏せた。何か言いづらそうにしているように見えたので、ハルは穏やかな表情のまま、何も言わず待っていた。少女はしばらくもじもじとしていたが、ふと思いついたようにポケットの中を探ると、何かを取り出した。

「これ、あげる」

ハルが手渡されたそれを見ると、何か黒い粒のようなものだった。

「これは?」

「ドロップだな。甘草を練りこんだ菓子で──」とグリエルモが言いかけたが、ハルは「あなたには聞いてません」とつれなかった。

「こんなものしかなくて、ごめんなさい」

少女は申し訳なさそうに言った。ハルはようやく少女の考えていることがわかった。さっきの二人の会話を聞いて、気にしていたのだろう。

「報酬なんて別にいいのに」

ハルは笑って言った。

「でもありがとう」

少女から貰った菓子を一粒口に入れてみた。甘いのかと思いきや、しょっぱくて苦かった。こんなものを好き好んで食べるなんて(都会ってよくわからないな)とハルは思った。この街にきてから、よくわからないことだらけだ。ただ一つ、この少女のために人形を(取り戻してあげないと)ということははっきりしていた。


8


教会の裏手の墓地は思ったより広かった。裏庭のようなこじんまりとした空間をハルは想像していたが、実際には農場かといったような広さだった。そこにいくつもの墓碑が整然と並んでいる。その奥は丘陵になっていて、墓地との境はちょっとした崖のようになっていた。目的の倉庫はそこにあった。

ハルは近くの木に登ると、崖に飛び移った。岩壁に茂った蔦をたよりに壁面を横切っていく。倉庫の裏までくると、建物に飛びつく。少し距離があったが、うまく窓の出っ張りに指をかけてぶら下がれた。腕の力で体を持ち上げ、窓の格子に手をかける。あの男が言ったとおり、簡単に外すことができた。

倉庫の中を覗くと、そこは細長い通路のような場所だった。壁に沿って端から端まで棚が並べられている。窓際の、手前の壁沿いにも棚があったので、それを足場に、ハルは倉庫の中へと入り込んだ。

明かりは窓から差し込む月の光だけだ。しばらくすると目が慣れてきたが、それでも探し物をするのには快適とはいえなかった。

ハルは(どうしようか)と思った。暗さのことではなかった。少し探し物はしづらいが、見えないほどではない。ハルの前に並ぶ棚は、どれもこれも、人形が押し込められていた。

布製のもの、木製のもの、編みこまれたもの、陶器製のもの……人の形をしたあらゆるものが集められているようだった。無造作に置かれたそれらの瞳が、何かを訴えかけるように、ハルに向けられているような気がした。もし人形が動けるのなら、ここから脱け出したいと思っているような、そんなことを思わせる光景だった。

近くの別の部屋を覗いてみると、そこも同じように人形で埋め尽くされた棚が並んでいた。(この中から探すのか……)とハルは少し不安になった。一晩で見つけ出せるだろうか。

少女の人形はたしか──警吏に奪われたのを見たときの記憶では──茶色い編みぐるみだった。頭に花のようなリボンをつけた丸耳ウサギ──ハルが熊というと少女に強く訂正された──で、赤い目は少女の話によるとビーズらしい。

悩んでいても仕方がない。ハルは人形を一つ一つ確かめていくことにした。

時間が経つにつれ、窓から差す明かりの角度は変わっていった。月も昇りやがて沈む。どれだけ探したろうか。随分と沢山の棚を調べたはずだが、廊下にはまだ確認していない棚がいくつも並んでいた。それ以外にも、同じように棚の並んだ部屋がいくつもある。調べつくすのに一体(何日かかるんだろう)。ハルは溜め息をついた。

そのとき、背後で、何か物音がした。

ハルは慌てなかった。これだけ沢山のものが詰め込まれた倉庫だ。湿度が変化したりすることで、木が鳴るということがある。誰もいないはずの室内で妙な音がしたからといっても、何も怖がる必要はない。本当に。ハルは胸元を握ると、意を決して後ろを振り返った。そこにはもちろん、何もいなかった。

ふとハルが足元を見ると、人形が一体落ちていた。(おかしいな)とハルは思った。物とはいえ人の形をしているので、ぞんざいに扱うのは気が引けた。だからハルは棚を調べるときも、人形をそこらじゅうに放り散らかすようなことはしなかった。それで余計に時間がかかってしまってもいるのだが。(気づかないうちに落としたのかな)と思いながら人形を拾い上げて、ハルは驚いた。花のようなリボンをつけ、赤いビーズの瞳をした、茶色の丸耳ウサギだった。

「あった」と思わずハルは声を上げた。何日かかっても見つけられないかもしれない、と思った矢先だったので、喜びも一際大きかった。

これで(あの子も喜ぶぞ)と思いながら、ハルが人形を胸元にしまおうとすると、手元から人形がするりと抜け落ちた。(あれ)と思い、ハルが拾おうと屈むと、人形はハルの手をひょいと避けた。それから二本の足で立ち上がると、ひょこひょこと歩きだした。

ハルは呆然とそれを見ていたが、我に返ると、慌てて人形に飛びついた。人形はジャンプしてそれを避けると、慌てたように駆け出して、近くの部屋に入っていった。

ハルが後に続くと、部屋の中に人形の姿はなかった。いや、人形なら部屋中に溢れている。目の前も右も左も人形だらけだ。その中に紛れてしまったのだろうか。

ハルが部屋の奥に進んでいくと、棚の足元に丸耳ウサギが転がっているのを見つけた。動きそうな様子はない。ハルが人形を拾おうと屈んだとき、突然、強い衝撃を受けた。痛みにハルはうずくまった。

床を見ると、陶器製の人形が砕けて散らばっていた。わけがわからなかった。この人形が、棚から落ちてきて、ハルにぶつかったのだろうか。

何かが擦れるような音がして、ハルが咄嗟に顔を向けると、また別の人形が落ちてこようとしていた。ハルは慌てて棚から離れた。陶器製の人形は大きな音を立てて粉々になった。

ハルは人形が落ちてきた棚を見上げた。誰か人がいるような様子はない。どう考えても、人形がひとりでに落ちてきたとしか思えなかった。

今度は足に痛みが走った。顔をしかめてハルが下を見ると、服の上から足に血がにじんでいる。ハルは驚いた。血を見てだけではない。足元では、割れた陶片を両手で持って、ぬいぐるみが、ハルの足にその鋭く尖った物を突き立てていた。

ハルは声を上げてぬいぐるみを振り払った。踏ん張ると、刺された足に痛みが走った。それほど深い傷ではなさそうだが、痛み以上の恐怖があった。

壁に当たって倒れたぬいぐるみを、ハルは思い切って捕まえた。布製の体を握ると首がかくんと揺れた。ただのぬいぐるみで、動き出す気配は全くなかった。

何か小さな砂利の擦れるような音がして、ハルは急いで振り返った。また別の、木偶が陶片を抱えてハルに迫ってきた。本来であれば手足を吊った糸で動かされる操り人形だ。それがひとりでに、頭をがくがく揺らしながら、襲い掛かってくる。

ハルは飛び掛ってくる木偶を咄嗟に捕まえた。陶片はハルの頬を掠めて飛んでいった。ハルの手の中で、人形はまた動かなくなった。

ハルは辺りを見回した。他に襲ってくる人形はいないか。周囲は人形だらけだ。ハルは身の危険を感じていた。このままでは命を奪われてしまう。早く逃げたほうがいい。

ハルは丸耳ウサギを探した。逃げるにしてもあれは持っていきたかった。さっきは棚の下に転がっていた。今の騒動で、どこかに飛ばしてしまったのだろうか。

ハルが辺りの床に視線を走らせていると、窓から差す月明かりに、黒い染みのようなものができた。振り向いて窓の方を見るとちょうど、その真下の棚の一番上から、一際大きい陶片を持った丸耳ウサギが、ハルに向かって飛び降りてきたところだった。気づいたときにはもう遅かった。(避けられない)、ハルは目を瞑って身をかばった。

覚悟した瞬間は、しかしなかなか訪れなかった。いつまで経っても痛みはやってこない。死ぬときは痛みを感じることすらないのだろうか。そうとは思えなかった。ハルがおそるおそる目を開けてみると、月明かりに照らされて、黒い外套の男が、殴りつけたような格好で、棚の枠に丸耳ウサギの人形を押さえつけていた。人形はそこから逃れようと、両手両足をばたつかせている。

グリエルモが拳を離すと、その手にはあの鍵が握られていた。床に落ちた人形に目をやって、「そいつを捕まえておくんだ」とグリエルモは言った。

ハルが慌てて人形を両手で掴むと、丸耳ウサギは「何するんだ」と言った。「離せこのウンコ野郎」可愛い顔には似つかわしくない言葉遣いだった。

「離すなよ。また逃げられたら面倒だ」

「て、手で握ってても大丈夫ですか?」

「大丈夫だ。噛みはしないさ」

人形はハルの手の中でもがいていた。丸っこい腕をハルの手にばしばし叩きつけて「離せ離せ」とわめく。とはいえまったく痛くもなんともない。

「一体、これは何なんでしょう。人形が動いたり喋ったりするなんて……

グリエルモは手にしていた鍵を懐にしまうと、ハルの方を見た。

「わからないのか。こいつも、鍵の持ち主だということだ」

「え?」ハルは驚いた。「この人形がですか」

「そうじゃない。鍵を使った人間が、この人形に入り込んでるんだ。簡単に言えば、幽体になって物に乗り移る能力というわけだ」

簡単に言えばとグリエルモは言ったが、ハルには少しも簡単ではなかった。

「じゃあ、人形が勝手に棚から落ちてきたのも……?」

「こいつが中に入って動かしたんだろうな。飛び石を渡るみたいに、近くの物に乗り移れるんだろう」

「でも」ハルは不思議に思った。「さっき捕まえたときはただの人形に戻ったのに、どうして今は」ハルは手の中の人形を見た。「……こんな、じたばたしてばかりで、逃げようとしないんでしょうか」

「逃げようとしてるんだよ」人形が抗議した。

「鍵は開けることができれば、当然、閉めることもできる」グリエルモは意地悪そうに笑った。「そいつの幽体を閉じ込めたんだ。開けてやらない限り、そいつは一生そのお人形の中で暮らすことになる」

「嘘だろ」人形が悲鳴を上げた。

「自慢じゃないがオレは嘘をついたことがないんだ。さぁ、帰るぞ。こんなところでお泊り会をするわけにはいかない」

そう言うと、グリエルモは踵を返して部屋の出口へと向かっていった。ハルは慌ててその後を追った。人形を落とさないよう、両手で包むようにしっかりと持って、小走りでついていった。

一騒動あったのでさっきの部屋は散らかってしまっていたが、通路は来たときのままだった。ただ月明かりの差し込む方向だけが異なっている。

「そういえば」とハルは言った。一つ、聞きそびれたことがあった。通路を歩きながら、グリエルモの背に聞いてみた。「どうして、グリエルモさんがここにいるんですか」

「口元が寂しくなってな」グリエルモは振り返らずに言った。「もう店も閉まってるから、オレも貰いにきたんだ」

ハルは納得がいかなかった。少女からもらった依頼料おかしはまだ残っていたが、あれをグリエルモが欲しがるとは思えない。

「本当はどうしてなんですか?」

「例の鍵、お前が持ったままだろう。あれの行方がわからなくなったら困る」

「わざとがっかりさせようとしてません?」ハルはふてくされるように言った。

「わかったわかった。助けに来てやったんだ。これで満足か?」

「ありがとうございます」ハルは笑顔で言った。それからふと思いついて、「厄介ごとには首を突っ込まないって言ってたのに」と仕返しするように付け加えてみた。

「勘違いするなよ。こんなのは厄介ごとでもなんでもない」

倉庫に忍び込んだ窓のところまで戻ってくると、グリエルモは足を止めた。元の通り、格子は外れている。棚を登ればすぐに外にでられるが、グリエルモはそうしようとしなかった。

「厄介ごとがはじまったぞ」グリエルモは振り返って言った。「登ってみろ。顔は出すなよ。聞き耳を立てるんだ」

ハルが棚を登り、窓の近くで耳を澄ませると、外から人の声が聞こえた。何人かの男たちが、緊張した声でささやき合っている。ハルは音を立てないよう、ゆっくりと棚から降りた。

「人の声がしました」ハルはできるだけ小さな声で言った。「一体なにが……

「仲間を呼びに行くようだ」グリエルモはいつもと変わらない様子で言った。「警備の者かなにかだろう。誰かが忍び込んでいるのに気づいて、ここを調べようとしているらしい」

ハルは得心がいかなかった。ここに来る途中、警備の人間など見かけなかった。倉庫の入り口に立つ人すらいなかったのだ。それなのにわざわざ崖に面した倉庫の裏手に「どうして人が……」気づいてやってくるのだろう。

「さぁな。騒ぎが起これば、別のところで仕事がやりやすいとでも思ったんじゃないか」

「別のところでの仕事?」

「こんな忍び込み方を、まともなやつが知っていると思うか? まともなやつは、ちゃんと出入り口を使うんだ」

ハルは言葉もなく、悄然とした。宿の酒場でこの倉庫のことを教えてくれたあの男は、確かに決して良い人ではなさそうだった。しかしそこまで酷い人だとも思わなかった。

「さて、どうする? 自分で決めたことの責任は、自分で取るしかない」

ハルは少し考えて「強行突破はできませんか?」と言った。仲間を呼びにやったということを考えると、今は大した人数はいないだろう。

「相手はこの窓を警戒してるんだぞ。そんなお荷物を手に持って、しかも足に怪我をしていて、やれる自信があるのか? 窓から尻を出してよたよた降りようとしているところを滅多打ちにされるのがいいところだ。もしうまく逃げられたとして、この月明かりだ。あちらも盗人の人相を確かめるくらいの知恵はある。それも仕事の一部だからな。明日には街中のお尋ね者だ。すると、日の当たるところは歩けなくなる」グリエルモはハルが何も言い返さないのを見て「これを厄介ごとと言うんだ」と付け加えた。

……裏がだめなら」

「表は外から錠が掛かっている」

ハルは他に良い方法がないか考えた。何かで顔を隠せないだろうか。いや、顔を見られる以前に、逃げられるかが問題だった。走って逃げようにもこの足では追いつかれてしまうだろうから、相手に見つかること自体がまずい。こんな状況で、見つからずに抜け出す方法があるとは、とても思えなかった。

「これでわかったな。次からは人の忠告をちゃんと聞くことだ。じゃあ、帰るぞ」

そう言うと、グリエルモはハルの横を通り抜けて、通路を戻っていった。

ハルは急いで後を追った。「どこか、抜け道があるんですか?」またできるだけ小さな声で聞いた。

「そんな大層なものじゃない」

さっきの部屋に戻ってきた。グリエルモは部屋の奥へと歩みを進めると、壁際の棚の少し手前で足を止めた。窓から差す月明かりで、床に影が落ちていた。グリエルモの足元から長く伸びている影だ。その影が、ゆらりと浮かび上がると、巨大な手の形になり、窓についた格子を掴んだ。格子は、ほんのかすかにぱきりと音を立てて、野いちごを摘み取るよりも簡単そうに、取り外された。

「こっちは誰もいないようだ」

倉庫の側面は雑木林に接していた。幸いにもこちら側は誰も見張っていないようだった。グリエルモは先に外に出ると、ハルが降りるのを手伝ってくれた。

警備の人たちに気取られないよう、二人は木々の中を静かに歩いていった。しばらく進んで教会の敷地を抜け、土の道を歩いていくと、やがて石畳の舗装路に戻った。ハルは安堵した。

通りを行く人はほとんどいなかったが、まったくいないわけではなかった。時折、わずかな明かりを手に歩いていく人や、ゆっくりと進んでいく馬車とすれ違うことがあった。

「心配するな」とグリエルモは言った。「堂々としてればいい。あちらも心細いか後ろめたいんだ」

宿の近くまで来ると、グリエルモは「ここでお別れだ」と言った。ハルはどきりとしてグリエルモを見た。グリエルモの様子は普段と変わらなかった。「オレとお前は喧嘩別れしたことになっている。二人で戻ったら、もしものときに、オレまで共犯にされてしまうからな」グリエルモは意地悪そうに笑った。

グリエルモはハルに新しい宿の名前とおおまかな場所を教えて、「明日、早いうちに今の宿を出るんだ」と言った。ハルはうなずいた。今度はちゃんと忠告を聞こうと思った。

その素直な反応を見て、グリエルモは含み笑いをした。ハルの肩を軽く叩くと、彼は一人、通りを歩いていった。

ブーツが石畳を叩く音は少しずつ遠ざかっていく。グリエルモはやがて角を曲がり、その姿は見えなくなった。その間、ハルはずっと、彼の背中を見つめていた。やがて足音も聞こえなくなった。ハルも、宿に戻ることにした。


9


あまり大きくない通りから更に路地に入った裏に、少女の家はあった。大通りの見上げるような建物とは違って、もう建てられて何年も経ったような、今にも崩れそうな家々が並んでいる。軒先に置かれた箱に腰をかけて縫い物をしているお婆さんがいた。綺麗な刺繍を巧みに縫いつけていたが、本人の身に付けているものはくたびれている。

同じような手仕事をする人たちがこの辺りには住んでいるようだった。昨日聞いておいた通り、サクランボの絵が彫られた看板の下宿を探すと、その向かいの家から丁度、少女が出てきた。

「フェデリカ」とハルが声をかけると、こちらに気づいて笑顔になった。

「来てくれたんだ」

それから不思議そうに言った。

「二人とも、仲直りしたの?」

「脅されたんだ」グリエルモが困った風に言った。「宿賃を払ってほしければ、言うことを聞けってな」

フェデリカの父親は桶職人だった。元々寡黙な性格であったらしいが、正反対に明るい妻を亡くして以来、ほとんど物も言わず、食事も最低限を口にするだけで、ひたすら仕事に打ち込むようになったということだった。二人を連れたフェデリカが声をかけても返事をしなかった。なにやら薄い木材を手に取ってゆっくりと曲げていっていた。

フェデリカは二人を土間に連れて行った。炊事場だ。立派なものではなかった。一応は食事の支度ができるというだけの場所だった。

「お友達は、連れ戻してきたよ」

ハルが丸耳ウサギの人形を取り出すと、フェデリカは表情を明るくした。弾けるような笑みでお礼を言いながら、人形に手を伸ばした。そこに「まあ待て」とグリエルモが水を差した。

「一つ問題がある」

グリエルモは指で輪を作ると、勢いよく中指を弾いて人形を打った。フェデリカは慌てて「ミミに酷いことしないで!」と言った。同時に人形は「痛い!」と声を上げた。

「何するんだよ! 折角いい気持ちで寝てたのに」

「これが問題だ」グリエルモは言った。「この人形は寝るだけじゃなくて目を覚ますんだ。ついでに喋るし文句も多い。その上、口も悪い」

フェデリカは驚きのあまりか口を開いたまま人形を見ていた。

「安心して」ハルが言った。「この人形が何か悪いものだというわけじゃないんだよ。どう言っていいかわからないけど、その、人形の体を借りてる人がいるんだ」

フェデリカはハルの言うことの意味がよくわからないようだった。ハル自身もよくわかっていないのだから仕方がない。

「回りくどいことは止めにして本題に入ろう」グリエルモが言った。「オレたちはこの人形の中に入り込んだやつが、どこにいるのかを知りたいんだ。だけどどうしても教えてくれなくてね。別にそれならそれでいい。他に方法はある。ただそれをするには、持ち主から許可を得ておく必要がある」

フェデリカは「許可?」と聞き返した。まるで話が飲み込めないという様子だった。

「人形ごと切り刻むんだ。いいかな? それでこの悪霊はこの世を去る」

切り刻むと聞いてフェデリカは悲壮な顔つきになった。人形が「ダメって言って。お願い」と言った。こちらも悲壮な声だった。

フェデリカは丸耳ウサギを見つめていた。不安そうに胸の前で指を組んでいて、今にも泣き出しそうだった。

「本当は知ってたの」フェデリカは呟くように言った。「ミミが動けるってこと……喋れるのは知らなかったけど」

人形は丸い手で慌てて口をふさいだ。

「でもミミは悪いことはしないの。私が一人で寂しくないように、一緒に遊んでくれたりするだけ。お願い、ミミを傷つけないで。悪い子じゃないの」

フェデリカが懇願するように言った。ハルはつい、昨夜のことを思い出して、人形を見た。ハルが何を考えているのか察したのか、人形は「ちょっと気絶してもらおうと思っただけだよ」と言った。「捕まえようとするからさぁ。怒らないで」

「いい方法がある」グリエルモが言った。「お嬢ちゃんがそのミミを説得してくれればいい。彼がどこにいるのかがわかれば、人形から出て行ってもらうことができる。それですべて解決する」

「ミミとはもう遊んじゃいけないの?」

「さぁな」グリエルモはつれなかった。「ただ今のままだと結局、そのうち遊べなくなる。放っておいてもそいつは死ぬ」

「そうなの?」と人形が驚いた。

「知らなかったのか。自分の体を離れて、いつまでも平気でいられるはずがないだろう。お前の体は今もどんどん衰弱していっているんだ」

「脅かそうとしたってダメだよ」

人形は強気に言ったが声は少し震えていた。グリエルモはそれを見て嘲るように笑った。「好きなように思えばいい」

フェデリカは何か思い詰めたように顔を伏せていたが、やがて人形に向かって「ミミ、お願い」と声をかけた。「ミミまで死んじゃったら、私……」フェデリカが涙に潤んだ瞳で人形を見た。昨日泣き腫らしたのか目が赤くなっていた。

人形は困ったように頭を掻いた。指はないので頭を撫でたという方が正しいかもしれない。

「わかったよ」人形は観念したように言った。「でも条件があるんだ」

「この期に及んで駆け引きか」グリエルモは愉快そうに口角を上げた。「まぁいいさ。言ってみろ。聞くだけは聞いてやる」

「その子も一緒に連れてきてくれない? あんたらだけじゃ、どんな酷いことされるかわからないからさ」

グリエルモは中指を弾いて人形を打った。


10


三人は人形の言う通りに歩いていった。表の通りに出て、花屋の前を通りがかると、人形が「ここ、ここ」と小さな声で言った。

「ここがお前の家か?」

グリエルモが聞くと、人形は首を振った。

「違う違う。ちょっと、ここで花を買ってきてよ」

「愛の告白をしに行くわけじゃないんだぞ」

「手土産くらいあったっていいだろ。まぁ、必要なんだよ。花束を買ってきてよ。悪いことは言わないからさ。頼むよ」

人形がそう言い張るので、ハルはフェデリカを連れて店に入った。フェデリカに好きな花を選ばせて、それを花束にして貰った。店から出てきた二人を見て、人形は「いいねいいね」と言った。「いい感じの花束だね。それなら大丈夫だよ」

人形の指示に従って、今度は来た道を引き返していった。同じ角を曲がってさっきの路地に入っていく。当然、フェデリカの家まで戻ってきてしまった。

「着いたよ」人形が言った。

「ここはフェデリカの家じゃないか」とハルが言うと、人形は「違う違う」と手を振って、その向かいを指した。「こっち」

「ここって……もしかして」フェデリカが呟いた。

人形が示したのはフェデリカの家の向かいにある、サクランボの看板を吊るした下宿だった。

「中に入ったらさ、幸の薄そうな女主人がいるから、その人にその花束を渡してあげてよ。『ローウェルくんに会いに来ました』って言えば、通してくれるからさ。まぁ大丈夫だと思うけど、もしどこで知り合ったのか聞かれたら、『サルコス島で一緒に遊んだ』とでも言っておけばいいよ」

人形の言ったとおり、扉を開けて中に入ると、主人らしき女性がいて、掃除をしていた。顔のつくりは整っているが、黒く波打つ髪は無造作にまとめられ、生気のない、疲れた顔をしていた。

あらかじめ打ち合わせていた通り、花束を差し出してローウェルの名を告げると、女性は意外そうに目を見開いた。少しだけ生気が戻ったように口元を綻ばせて、花束を受け取った。それから三人を、二階へと案内してくれた。

木の階段を登り、奥の一室の前まで来ると、女主人はその扉を開いて中に入っていった。ベッドには青年が横たわっていた。

女主人がカーテンを開けると、朝の日差しが入り込んできた。部屋の中が明るくなる。窓が開かれ、爽やかな風が入り込んでくる。けれど青年は目を閉じたままだ。女主人は、青年の背の下に手を入れると、掛け声を出して彼の上体を持ち上げ、ベッドの縁を背もたれのようにして座らせた。

「長い間、目を覚ましてないんです」女主人は言った。「でもこうして友達が会いに来てくれるだなんて、彼も喜んでいると思います」

女主人が部屋を出て行くと、人形──ローウェルが言った。「もうこれ以上、衰弱なんてしようがないだろう?」

「そんなことはないさ」グリエルモが言った。「随分と重そうだった。骨だけになるにはまだ早い」

「もうずっとこうなんだ。意識はあるんだけどね。体が動かないんだよ。手足だけじゃない。口すら利けない。彼女は、意識があるなんて知らないはずだけどね。毎日、話しかけてくるんだ。色々と」

「それで、鬱憤晴らしに、夜な夜な街に繰り出して、パーティを開いてたのか?」

「はっきり言ってくれていいよ」ローウェルの声は平然としていた。「復讐したかったんだ」

ハルは宿で聞いた話を思い出していた。人形が人を襲うという奇怪な事件。ただ、誰でもというわけではなく、話をしてくれた男の言では、悪党ばかりが襲われているということだった。

ハルは「何が、あったんですか」と聞いてみた。

ローウェルはしばらく黙っていたが、やがて「大通りは歩いたろう?」と話しはじめた。「ヴィニアは交通の要所だからね、商売が盛んなんだ。日がな一日、荷馬車が行ったり来たりしてる。大渋滞さ。昔はもっと歩きやすい街だったみたいだけどね」

人形は人から聞いた話のように言った。

「しかし道が混むと商売には都合が悪い。一方で商売が儲かれば儲かるほど道は混雑する。すると、どうする?」

「道を広げればいい。それか増やすか」

「そう。街の評議会は、道を敷きなおして、街を効率的にしようと考えた。そうすれば街の人たちも歩きやすくなるし、彼らももっと儲けられる。素晴らしい。ある一点を除けばね」

ローウェルは不快そうに言った。

「ここら一体を潰して道を通そうとしてるんだ。もちろん住人たちは反対だ。このあたりの人間はほとんど、他に移り住むような金がない」

「年寄りは住処を離れたがらない」

「それもある。年寄りに限らないけどね。それで、抵抗しているんだ。ここからは出て行かないぞ、って。それに手を貸してた」

「抵抗ね」グリエルモは意味ありげに言った。「過激な抵抗をしてたんじゃないか」

「暴力は嫌いなんだ」

ハルは、昨夜のことは触れないでおいた。

「大人の喧嘩ってのは、法を使ってやるんだ。ただし、法は無知な人間を守ってはくれない。だれか物のわかった人間が法を駆使して守ってやる必要があるんだよ」

「随分詳しいようだ。法律家だったのか?」

「昔は目指してたんだ。挫折して放浪の末に辿り着いたのがこの街さ」

「しかし最後は暴力に屈した」

「その通りだ。気をつけてはいたんだけどね。とんでもない化け物みたいなやつに襲われたんだ。獣みたいな面をした大男だ。とても人間とは思えなかった」

ローウェルの口調は穏やかだったが、時折声が震えていた。恐怖か、怒りか。丸耳ウサギの顔は表情を変えることはない。赤いビーズからは涙もこぼれない。

「同じようにしてやろうと思ったんだ。オレと、同じように」

「いいんじゃないか? オレには関わりのない話だ。好きにすればいい。ところで鍵はどこだ。オレの用はそっちだ」

「左手だよ」

グリエルモはベッドの青年──ローウェルの肉体へと近づいていった。左手首を取って持ち上げると、閉じられている指を開かせた。手の中には鍵が握られていた。よく見ると、握られているのではなく、手に刺さっているようだった。

「一つ聞いておきたい。この鍵はどうやって手に入れた? まさか夢遊病の気があるとは言わないだろうな」

少し間があって、ローウェルは「友達だよ」と答えた。「昔、旅先で知り合ったやつなんだけどね。会いに来てくれたんだ」

「そのお友達に会う方法はあるか?」

「いや。旅の途中だと言っていた。もうこの街にはいないと思うよ」

「そうか」

グリエルモは興味をなくしたように言うと、ローウェルの左手に指を伸ばした。

「その鍵を、どうするんだ?」ローウェルが聞いた。

「破壊する」

「どうして。オレが何をしようと、関わりのない話なんじゃないのか」

「もう少し、可愛いお人形のフリを続けたらどうだ。お嬢ちゃんがびっくりしてる」グリエルモがからかった。「それこそお前には関わりのない話だ」

「あの……」ハルがおずおずと口を挟んだ。「その鍵を壊すと、どうなるんですか?」

「大したことはない。元の体に戻るだけだ──正確にはオレの鍵を開けてやればだが。その後は、二度と人形が動き出すことはない」

「オレはその鍵がなければ、二度と外を出歩けないんだぞ」

ローウェルが悲痛な声で言った。それを聞いてか、フェデリカがぐっとハルの服の裾を握った。フェデリカは下を向いて、泣きそうになっていた。

「鍵を壊さないでおくわけにはいかないんですか」

ハルの問いに、グリエルモはにべもなく「ダメだ」と言った。しかしそれに重なるように「いいんじゃない?」としわがれた声がした。

「別に探してる鍵じゃないんだし、残しておいてあげたら?」

声を発したのは、窓辺に止まった鳥だった。漆黒の羽毛、漆黒の脚、漆黒の嘴をした、小さな鳥だ。「エミリアさん」とハルが呼ぶと、ウインクするように赤い目をまたたいた。ハルは(鳥って瞬きをするんだ)と驚いた。人間のまぶたとは違って、横方向の瞬きで、一瞬白く光ったように見えた。

「相性は良さそうだし、一日のうち半分くらいで止めておけば、悪い影響もないんじゃない?」

「こいつは、自分で鍵の抜き刺しもできないんだぞ」

「抜くだけならできるんじゃない? それに、自分でする必要なんてないでしょ。ねぇ?」エミリアはフェデリカを見て言った。「どうせなら女主人おかみさんにも教えてあげたら? 二人で面倒みてあげればいいじゃない」

エミリアはフェデリカを見て「イヤ?」と聞いた。フェデリカは首を激しく左右に振った。

「じゃあ決まりね。ウィル、まだ何かある?」

エミリアがグリエルモに聞いた。

「知らん」グリエルモは投げやりに言った。「どうなろうとオレには関係ないんだ。勝手にすればいい」

「そう。それならもう行きましょう。伝えることがあるの」

グリエルモはエミリアに背を向けると、丸耳ウサギを鷲掴みにした。取り出した鍵を刺すと、それから人形を肩越しにベッドの方に放り投げた。そのまま何も言わず、グリエルモは部屋から出て行った。

ハルは後を追おうとしたが、何も言わずに出て行くのは気が引けて、部屋を振り返った。フェデリカはまだ事態が飲み込めていない様子だった。ローウェルは──丸耳ウサギの方は──どこに入り込んだのか姿が見当たらなかった。

「行くね」ハルはフェデリカに言った。「元気で」

──ありがとう」

ハルにはその一言で十分だった。

下宿を出たところでハルはグリエルモに追いついた。しばらく路地を歩いたところで、遅れてエミリアが舞い降りてきた。エミリアはグリエルモの肩に止まった。

「あの二人が心配?」

「うまくいく見込みがなければ、心配のしようもない」

「見込み、あると思うけど。お節介アドバスもしてきたから、それを守れればね」

「どっちにしろ、もう終わった話だ。それよりどうだ?」

「経過報告よ。鍵の契約者ユーザーは見つかった」

「契約者は、ね」

「アデモッロという資産家よ。だけど鍵は本人ではなく、部下に使わせてるみたい。それが誰なのか──

「そこまでわかっていれば十分だ」

「十分って?」

「お願いすればいい。鍵を見せてくださいって」

「冗談言わないで」

「見せてくれるさ」

何か悪いことを企むような笑みをグリエルモは浮かべていた。

「ハル、お前はどうする?」グリエルモが振り返った。「宿で待ってるか?」

「ついていきます」ハルは即答した。

グリエルモたちが何をしようとしているのかはわからなかったが、わざわざ聞かれたということは、ついていってもいいということだと思った。ついていけば、何か役に立つこともできるかもしれない。

「じゃあ、このまま向かうか」グリエルモは再び背を向けて歩きだした。「街の偉い人に挨拶だ」


11


アデモッロの邸宅は街の賑やかな地区からは離れたところにあった。人ごみや雑踏の喧騒からはほど遠い、閑静な場所だ。建物の周囲は高い白壁で囲まれていて、正面の門扉には警吏の格好をした男が二人、番をしていた。

「どうするつもり?」エミリアが聞くと、グリエルモは「そのうちわかる」とだけ言った。ハルとエミリアは、ひとまずグリエルモがどうするか、見守ることにした。

グリエルモが門に近づいていくと、「待て」と門番は言った。「何の用だ」

「アデモッロに会わせてもらおう」

「何か約束があるのか」

「約束は、守る相手としかしないんだ」

「なんだ、ただのチンピラか」門番は露骨に蔑んだ顔になった。「ここは貴様のような輩が来るところじゃない。痛い目に合う前に、とっとと失せろ」

「失せないとどうなるんだ」

「痛い目に合うぞ」

「それはもう聞いた」グリエルモは嘲笑した。「もっとましな口を聞いてくれ。馬鹿と話をしているような気がしてくる」

「我々を愚弄するのか」もう一人の門番が凄んだ。

「二人ともじゃない。こっちの間抜けだけだ」グリエルモが最初の門番を指した。「もういいか? オレはアデモッロに用があるんだ。行かせてもらう」

グリエルモが二人を無視して門扉に手をかけようとすると、門番は槍を振りかざした。それがグリエルモの体を打ちすえる前に、グリエルモの周囲から飛び出した影が、門番の首を掴み、二人ともを宙吊りにした。

「何をしてるの!?」と驚いたのはエミリアだった。

「身を守っただけだ」

「騒ぎになるわよ!!

「だったらどうした」グリエルモは平然として言った。「むしろ好都合だ。鍵を持ってる部下とやらが出てくるに違いない。探す手間が省ける」

「最初からそのつもりだったの!?

強い口調で詰問するエミリアには答えず、グリエルモは影を門扉に伸ばした。影の手に押し広げられて、鉄でできた美しい曲線の柵状門が飴細工のように曲がっていく。簡単に人一人が通れるほどの隙間ができた。

「さぁ行くぞ」

「ちょっと待って、ハルも連れて行くの?」

「オレに聞くな。本人に聞けよ」

「ボクも行きます」ハルは言ってから、ちょっと考えた。「でも、忠告があるのなら、聞きます」

「別にない。大金持ちのお宅拝見だ。滅多にない機会だから、しっかり見学してろよ」

門をくぐると、家屋まではまだ随分と距離があった。よく刈り込まれた草地に、少し曲がりくねった道が敷かれている。一帯が大きな公園のようだった。

道なりに辿っていくと、門番と同じく警吏のケープを羽織った男たちが数人駆けつけた。盾や槍を手に手にしている。「止まれ」「何だそれは、何をしているんだ」「そいつらを降ろせ」と切っ先を向けて口々に言う。グリエルモはまだ門番を掴み上げたままだった。

「降ろしてやってもいいが、もっとマシなやつを連れてきてくれないか?」

グリエルモが門番たちを離すと同時に、影が槍のように突き出でて、他の男たちの武器を弾き飛ばした。男たちは喫驚と戦慄の声を上げ、腰をついた。尻を擦るようにして後ずさり、なんとか立ち上がると、一人が背を向けて走り去った。他の男たちも甲高い悲鳴を上げてそれに続いた。

「いい傾向だ」グリエルモは愉快そうに言った。「あれだけ怯えていれば、思ったより早いうちに、本命を連れてきてくれるんじゃないか?」

「だといいけど」エミリアはまったく面白そうではなかった。

随分と距離はあったが、庭園を進んでいくと、それ以上は邪魔をされることなく、邸宅の入り口に着いた。大きな扉をグリエルモが押すと、閂は掛かっていなかった。

「誰もいないようだ」

「みんな逃げちゃったんじゃないの?」エミリアは不満そうに言った。「さっきから使用人の一人だって見かけないじゃない」

「そんな賢明なやつが、こんな豪邸を建てると思うか? まぁ、お目当てのやつ以外は逃げてくれたほうが、面倒が少ない」

広く人気のない通路を進むと、噴水があった。天井が吹き抜けになっていて、光が差し込んでいる。雨の日には水も降り注ぐのだろう。空間の隅には石像が置かれ、噴水の前に立つ二人と一羽を見つめていた。

「気をつけろよ。こういうのが突然動き出して、襲ってくるんだ」

「わ、わかりました」とハルが緊張した面持ちで答えると、エミリアが「真に受けちゃだめよ」と言った。

通路に沿っていくつもの扉があったが、グリエルモはそれらには目を向けず、真っ直ぐと進んでいった。突き当たりには、また、大きな扉があった。これも鍵は掛かっていなかった。


12


通路の奥の扉は、大広間に繋がっていた。端から端まで走って十数秒もかかりそうな空間に、薄く文様の入ったタイルが敷かれてある。壁沿いには装飾を凝らした柱が一定間隔で並び、その間に銅像などの調度品が並んでいる。天井は石を投げてもぶつけるのが大変そうなほど高い。二階ほどの高さに、張り出した通路が巡らされていた。

「ようこそおいでなさいました」

上から声が降ってきた。よく通る声が室内に反響して前後左右からも重なって聞こえる。大広間の奥、張り出した通路が広くなった踊り場から、男が手すりに手を掛けて見下ろしていた。

「私がアデモッロです。何かご用があるとか」

「驚いたな」グリエルモの声もよく響いた。「もう話が伝わっているのか」

「情報は商売人の命ですからな」男は大仰に指を立てて言った。「常日頃から、連絡は滞りなく行き渡るよう心掛けているのですよ」

「なるほど。大儲けできるわけだ」

「それで、私に一体何のご用です。お支払いするべきものはきちんとお支払いしいるはずですが」

「勘違いするな。オレは別に彼らのお使いで来たわけではないし、上納金をつまみ食いしにきたわけでもない」

「まったくの無関係ではなさそうですな」

「安心しろよ。ちょっと知ってるだけだ」

「ではどうして表の者に酷いことを」

「部下思いなのは結構だが、もう少し口の利き方を教えてやったほうがいい。その方が本人のためだ」

「貴方が帰ったら、そうしましょう」

「帰るよ。その前に、ちょっと見せてもらいたいものがあるんだ」

「なんでしょう」

「鍵だよ。どんな鍵を持っているのか、ちょっと見せてくれないか」

「用があるのならはっきりと仰って頂きたい。何も、こちらは後ろめたいことなどありません」

「もう言った。鍵を見せてくれ。そうしたら帰るよ。大した手間はとらせない」

「本当にただ鍵を見たいだけなのですか」

「そうだ」

教団ルミナーリアとも関係がない」

「そう言っている」

「なるほど、わかりました」アデモッロは納得がいったように、大きく頷いた。「信じましょう。鍵はお見せしてもよろしい」それから困ったように頭を掻いた。「ただし、残念ですが、お帰りになることはできません」

「ハル、上よ!」エミリアが叫んだ。ハルが見上げると、そこにはいつの間にか、甲冑のようなものが、両手両足を天井に付くようにしてぶら下がっていた。兜の開口部がハルたちに向けられている。

甲冑は、猫がするのと同じように、全身を伸ばしながら天井を蹴って、飛び掛ってきた。ハルが気づいたときには遅かった。咄嗟にその場を退こうとしたが足に痛みが走った。間に合わない。ハルが身を縮めたそのとき、足元に放射状に伸びた影の中から、巨大な腕が現れた。甲冑は影とぶつかって、激しい音を部屋中に反響させながら、弾き飛ばされていった。

甲冑は空中で身を回転させると、着地の勢いを反動にまた襲い掛かってきた。

「懲りんやつだ」

グリエルモが影の拳を振るうと、甲冑は肩を捻り身体を回転させてそれをかわした。そのまま両手両足で床を叩き、反動でグリエルモに飛び掛る。グリエルモが咄嗟に仰け反ってそれをかわすと、同時に足元から突き上げるように影が飛び出てきた。下から頭を殴られた甲冑は、きりもみのように舞ったが、またも宙で体勢を整え床に着地した。殴られた反動で外れた兜が、遅れてタイルを叩き、金属音がこだました。

その甲冑を身に纏った人物の顔を見て、ハルは驚いた。

「あれは獣魂の鍵ビースト・コアよ」とエミリアが言った。「板金装甲冑プレート・アーマーを着込んであんな動きができるなんて、よっぽど相性がいいのね。それか元の身体能力が高いのか」

甲冑の男は脱げ落ちた兜のところまで歩いていくと、それを拾い上げた。男の顔は獣のように、鋭い牙が生え、勇ましい毛並みに覆われていた。しかしハルが驚いたのはそのためではなかった。

「グラートさん」ハルは彼の名を呼んだ。獣のような体毛に覆われていても、それは確かに、グラートその人の顔だった。

鎧の男は一瞬ハルの方を見たが、何も返事はせず、兜を被りなおした。

「お友達か?」グリエルモが顔を向けず言った。視線は鋭くグラートに据えられている。

「広場で戦った──

「あの代闘士チャンピオンか」グリエルモは面倒くさそうに言った。「生身でも剣を手掴みするような化け物だったな」

甲冑の男は再びグリエルモに向かって駆けてきた。

「少し真面目にやるか。離れていろ」

甲冑がグリエルモに踊りかかると、その真横から巨大な影の手が現れ、殴りつけた。いや、殴りつけたのではなく、甲冑を鷲掴みにしていた。両腕ごと押えつけられた甲冑は影の手の中で動きを止めた。

しかし甲冑がゆっくり腕を広げていくと、影の手指も徐々に開いていった。グリエルモが舌打ちをした。

甲冑が影を蹴って飛び出すと、グリエルモは後ろに飛んだ。拳はかわしたが、甲冑はその勢いで片足を軸に回転し、背中側から蹴りを放った。グリエルモはそれを腕で受け止めると、小石のように弾き飛ばされた。

ハルたちがグリエルモの名を呼ぶ間も与えず、甲冑が今度は二人の方へと襲い掛かってきた。今のような破壊力を見せられては、受け止めることなど不可能に思えた。怪我をした足では避けることもできそうにない。ハルは腰の剣に手をやった。だがどこを斬ればいい。相手は全身を鉄製の鎧兜に身を包んでいる。

甲冑の拳は、しかし、ハルの手前で壁にぶつかった。黒く透けるような壁が、突如ハルと甲冑との間に浮かび上がっていた。もう一度殴ろうとする甲冑に、壁から槍のように尖った影が飛び出す。甲冑は、頭を守るように両腕を畳んで、後ろに飛んだ。影が金属を叩き、鋭い音が何度も響く。退く甲冑を追うように、次から次へと、床から影が襲い掛かっていった。

「隅に行ってろ」いつの間にかグリエルモが隣に来ていた。「壁際なら楽に防げる」

「大丈夫? あんなに吹っ飛ばされちゃって」エミリアが言った。

「後ろに飛んだんだ。衝撃を逃がした」

グリエルモは上の方に顔を向けた。視線の先では、アデモッロが、手すりに身を乗り出すようにしていた。

「ありがとう。鍵のことはよくわかった」グリエルモの声が大広間に反響した。「用は済んだ。もう帰ってもいいか」

「バカめ」アデモッロが叫んだ。「無事には帰さん」

「何をそんなに怒ってるんだ」

「私の部下に手を出しおって」アデモッロは拳を握って言った。「そういう身の程知らずにきちんと制裁を加えておかねば、皆はどう思う?」

「新手のお楽しみ会サプライズ・パーティだったとでも言えば、わかってくれるさ」

「グラート! さっさとこいつを始末しろ」

グリエルモは「残念だ」と溜め息をついて、ハルたちを見た。「商売人のくせに、交渉は苦手らしい。人望もなさそうだ」

「ちょっと。腕、折れてるんじゃない?」エミリアは怒って羽をばたつかせた。「もっと大事に扱って」

「オレに言うな。やったのはあいつだ」

グリエルモは億劫そうに、甲冑の方へと歩いていった。

「行きましょう」エミリアが、ハルの肩に止まって、促した。ハルは言われたとおり、壁際へと避難した。

グリエルモは再び影を纏うと甲冑の男と戦いはじめた。うまく攻撃を防いではいるが、相手に痛手を負わせることもできてはいないようだった。殴り合いの音がけたたましく部屋中に響き続ける。

「グリエルモさんは、大丈夫なんですか」

ハルが心配そうに言うと、エミリアが鳩のように首をかしげた。

「柄にもなく、苦戦してるみたいね」

ハルが不安そうな顔をしたのを見ると、エミリアは「大丈夫よ」と付け加えた。「負けはしないから」

「負けはしない?」

「あの鎧の怪物を倒そうと思ったら、どうすればいいと思う?」

ハルは考えた。全身を硬い甲冑に覆われた相手を倒すには、どんな方法があるだろう。

刃物で傷つけることができないなら、重い物で殴るのはどうだろう。いくら硬い装甲を身に付けていても、それを支えているのは人の肉体だ。しかしこと目の前の相手に関しては、さっきからグリエルモが殴りつけたり──ときおりあたりの銅像をぶつけたり──しても、平然としている。場所次第では、穴に落とすとか、水に沈めるとか──しかし今取れる手段でなければ意味が無い。

「繋ぎ目から剣を刺し込むとか」

ハルは思いつきで言ってみた。全身を覆っているとはいえ、手足の関節を動かすため、ある程度の隙間があるはずだった。そこからなら手傷を負わせることはできそうだ。

「そうね。甲冑を着た相手には有効な手段よ。あの素早い相手にそれができるならだけど。さっきからウィルも、それを狙ってはいるけど、うまくいってないみたい」

「じゃあ、どうすればいいんですか」

「どうしようもないんじゃない?」

「それじゃあ……

「ハル、あなた、鍵のこと、どれくらい知ってるの?」

エミリアの赤い瞳がハルを射抜くように見た。

……ほとんど何も。あの鍵があれば、不思議な力が使えるということくらいです」

「それだったら、もう少し詳しく知っておいたほうがよさそうね」

エミリアはまぶたを閉じて言った。今度は上下にとじる普通のまぶただった。鳥にも(まぶたはあるんだ)とハルは思った。

「あの鍵は人の閉ざされた力を解放するのよ。だけど閉ざされているのにはちゃんと理由があるの。単刀直入に言えば、使いすぎれば破滅が待っている」

「破滅?」

「死んでしまう。運が良ければね」

「運が良ければ?」ハルは聞き間違えたかと思った。「死んでしまうのに?」

「死んでしまったほうがマシということもあるのよ」エミリアは落ち着いた口調で言った。「あの獣魂の鍵ビースト・コアの持ち主は、力を使いすぎてる。ウィルの次善策プランBは時間稼ぎなのよ。遅かれ早かれ、決着がつく」

「決着?」

エミリアは甲冑の男の方を見た。

「彼、さっきあなたが声をかけたとき、返事もしなかったでしょ。あれは無視したんじゃないのよ。鍵の力が暴走して、もう何もわからなくなってるの」

ハルはグリエルモと戦う甲冑の男──グラートを見た。あの酒場で声をかけてくれた彼が、今そんな状態にあるなどと、想像するのが難しかった。

「鍵を使いすぎると、適正が低ければ、体が石になって砕けていく。これが運がいい場合」

ハルはコルトの村を襲った男のことを思い出した。彼の腕は石膏がはがれるように、崩れ落ちていった。

「一番不幸なのが、そこそこの適正がある場合。鍵の力が暴走すると、まずは理性が失われる。そのときの行動は人によって違うけど、たとえば強い復讐心を抱いている人なら周りの人を襲ったり、忠誠心の強い人なら意識がなくても命令を守り続けたりする」

ハルはグラートが酒場で言っていたことを思い出した。彼は自分の雇い主に心から忠誠を誓っていたのだろうか。

「その状態を過ぎると、見境なく暴れはじめる。苦しみから逃れるように。そうして最後には力を使い果たして──人ではなくなるの」

「人ではなくなる?」

「こればかりは口で言っても伝わらないと思うけど、あまり見たいものじゃないわ」エミリアは不愉快そうに言った。「彼の場合はそうなるでしょうね」

「そんな……」ハルは悲痛な声を出した。「なんとかならないんですか」

「ウィルもなんとかしてあげようとしてるのよ」エミリアは悲しげに言った。「せめて苦しまずに、人として死なせてあげようと──でもちょっと厳しそうね」

「彼を止める方法はないんですか」

ハルはそう言ってから、コルトの村での出来事を思い出した。

「鍵を抜いたらどうなるんですか」

コルトの村を襲った男は、おそらく力の使いすぎで、腕が砕け落ちていった。しかしグリエルモが男から鍵を抜くと、石化は止まり、男も死にはしなかった。

「今の段階なら、まだ鍵を抜けば助かるわ」

「それじゃあ」

「できる?」エミリアの赤い瞳がハルを見据えた。「全身甲冑に身を包んでるのよ。あれだけ暴れてるのを、脱がしてあげられるの?」

ハルは言葉に詰まった。グリエルモがあれだけ手こずっている相手に、そんなことができるはずはなかった。

「ハル、厳しいことを言うようだけど、聞いて」エミリアの赤い目が光ったように見えた。「あなたに一つだけ、できることがあるわ」

ハルは飛びつくように「なんですか?」と聞いた。

「さっき、ウィルが獣魂の鍵ビースト・コアの男を捕まえたのを見たでしょ。短い間だったけど、動きを止めることはできる」

ハルはうなずいた。確かに一度、グリエルモの影の手が甲冑の男を捕まえた。無理やり押し広げられて、逃げ出されてしまったが、その間は無防備と言ってよかった。

「手以外の影を同時に出さなかったのは、あれで精一杯だったんでしょうね。意外と非力なんだから。でも、ハル、あなたがいれば、それで十分よ」

「それって」ハルはエミリアの言いたいことがわかった。何か背中に冷たいものが走る思いがした。

「私がウィルに伝えてくる。ハルの近くで相手を捕まえるようにって。そうしたら」エミリアは抑揚のない声で言った。「あなたが止めを刺しなさい」

ハルは返事ができなかった。

「兜の開口部を突けば一撃で仕留められるわ。いい?」

ハルは口を開いたが、声は出てこなかった。一体何を言えばいいのか。口の中が乾ききって張り付いたように動かなかった。止めを刺す? グラートを殺すということ? ボクの手で? ハルは寒気がした。どうしてそんなことをしなければならないというのだろう。

「しないなら、しないでもいいのよ」エミリアは言った。「このままでも、どのみちウィルは負けないんだから」

ハルは再び、グリエルモと甲冑の男を見た。甲冑の男はグラートだった。グラートにハルは尊敬に近い好意を抱いていた。その彼に身の破滅が待っているという。

「死んだほうがマシなことって、なんなんですか」

ハルの質問にエミリアはすぐには答えなかった。どう答えればいいのか思案しているようだった。

「化け物になるのよ」エミリアはゆっくりと言った。「逃れられない苦しみから逃れようとして、救いを求めてもだえ狂う、人ならざる異形の化け物に」

コルトの村を襲った男の腕が砕けていくときの悲鳴が、ハルの記憶の中で蘇った。見ている方が恐ろしく感じるほどの苦しみようだった。あのような苦しみを受けながらにして生き続ける存在──

ハルは顔を伏せ、ぐっと目をつむった。服の上から胸元を握ると、空気を鼻から深く吸い込んで、ゆっくりと口から吐いた。込み上げてくるものがそれで収まることはなかった。

「グリエルモさんに伝えてください」

ハルが言うと、エミリアは悲しげに頷いて、ハルの肩から飛び立っていった。

ハルは右腕で顔を拭った。昂ぶった気持ちを鎮めなければならない。剣を振るうのに最も大切なのは平常心だ。剣を抜くのであれば、いかなるときでも、揺らぎのない心でいなければならない。そうでなければ、その刃は自身へと跳ね返ってくる。剣を教わりだしてから、ずっと言われ続けたことだった。

しかし気持ちはすぐにはおさまらなかった。焦ってはいけない。深呼吸をすると少し足元がふらついた。ハルが腰から壁に背をつくと「痛い」という声がした。

ハルは怪訝な顔をした。聞き間違いかとも思ったが、そうは思えないほどはっきりと聞こえた。ハルがポケットをさぐると、中から出てきたそれは、「気をつけろよ」と文句を言った。


13


腕を上げて身を守る甲冑を、グリエルモの影が殴りつけた。弾き飛ばされる甲冑は、しかしもう身体のバランスを崩すことなく、床に足を着けたままだ。立ち姿を崩さず、すぐに再びグリエルモに襲い掛かる。

グリエルモがその足元から影を突き上げると、甲冑は少しだけ身をよじった。影は甲冑のすれすれを掠める。甲冑の拳が、後ろに仰け反ったグリエルモの目の前を、風切り音をたてて通り抜ける。

姿勢を崩したまま、グリエルモは脚を振り上げ、蹴りを浴びせかけようとした。甲冑は即座にそれを防ごうと腕を上げたが、その反対側から影の拳が叩きつけられた。甲冑は、突風に壊された風向計のように、転がりながら飛んでいった。

また仕切りなおしだ。もう何度目かわからない。

「苦戦してるようね」

エミリアがグリエルモの側にやってきた。

「そう見えるか?」グリエルモはうんざりした様子で言った。「そろそろ飽きてきた」

「いい知らせがあるわよ。すぐに終わらせる方法があるの」

「アデモッロのやつをつつき殺してきてくれるのか? その嘴で」

「彼をもう一度、捕まえてくれない?」エミリアが示した先で、甲冑が起き上がっていく。「ハルが止めを刺してくれるから」

「正気か?」グリエルモは信じられないといった表情をした。「やるって言ったのか? あいつが自分から」

「言ったわよ。だからハルの近くで、しばらく捕まえていてくれない? さっきみたいに」

グリエルモは視線を甲冑から外そうとはしなかった。

「簡単に言うな。戦ううちに少しずつ強くなっていってるんだ。正確には、オレの攻撃に慣れていっている」

「騙まし討ちは得意でしょ。もう一回くらい、なんとかして」

甲冑が襲い掛かってくるのを見て、エミリアは上空に飛び上がった。

グリエルモは溜め息をつくと、駆けだした。甲冑の方ではなく、ハルの方に向かって。甲冑からは逃げる格好になる。甲冑が背後を追った。

グリエルモより甲冑の方が速かった。二本の足だけでなく、両手も地面について、獣が駆るように、グリエルモを猛追した。距離が縮まる。甲冑は、両足で床を蹴り、身体を一気に伸ばし、前足で掴みかかるようにして、グリエルモに跳びかかった。その鉄製の爪が獲物を捕らえようとする瞬間、グリエルモが躓いたかのごとく身を屈めた。二人の背後から、巨大な影の手が現れた。影は張り手のように、甲冑を壁に叩きつけ、そのまま押さえ込んだ。

そのすぐ脇にはハルが立っていた。

「ハル、今よ!!」とエミリアが叫ぶより早く、ハルは影の手によじ登っていった。兜に手をかける。しかしハルの手に握られているのは、エトリアの白い剣ではなかった。

「何をしてるの、ハル!?

ハルは兜を引っ張ると、空いた首元に何かを突っ込んだ。

甲冑は壁に体の左側面を押し付け、右手脚で影の手を押し返していった。そして影の手指ごとハルを振り払った。ハルは背中から床に叩きつけられた。

ハルが痛みを堪えながら顔を上げると、甲冑が足元に立っていた。兜の開口部がハルを見下ろしている。

エミリアがハルの名を叫んだ。甲冑が拳を握り、振りかざす。しかしそれが振り下ろされることはなかった。突然、甲冑が震えるようにして、兜の開口部から黒い霧のようなものが散った。甲冑が両膝を床につく。ハルが慌てて身を転がすと、甲冑はうつ伏せに倒れ込んだ。

「ハル!」エミリアがハルの肩に止まった。「大丈夫? 一体、何をしたの」

ハルは大きく息をついた。切れかかった息で「鍵を、抜いたんです」と答えた。まだ生きた心地がしなかった。

「鍵を? そんな、首元になんかにあるんだったら、ウィルがとっくに──

エミリアがそう言いながら甲冑を見ると、鎧の隙間から、何かが這い出してきた。「ちゃんと優しく受け止めろよ」と文句を言いながら出てきたそれは、手に鍵を持っていた。少しつぶれて平べったくなった、茶色い毛並みに、よれよれになったリボンの花飾り、赤いビーズの目をつけた、丸耳ウサギの人形だった。


14


丸耳ウサギは鍵を杖のようにしてよたよたと立ち上がった。ハルが優しく手に取って、持ち上げると、「感謝しろよ」と言った。

「なんだその人形は」大広間に声を響かせたのはアデモッロだった。「その動く人形! 我々を襲っていたのは貴様らだったのか!」

「誤解なんだが」グリエルモは愉快そうに笑って言った。「そう思いたければ、思ってもいい」

「もう正体は割れたんだ。必ず貴様らを捕まえて、苦しめ抜いて、殺してやる。生きてこの街を出られると思うな。街中が貴様らの敵だ」

「お人形集めの次は、お人形遊びか?」グリエルモは指を振った。「街中というのは言い過ぎだ。みんなお前のお友達ってわけじゃない。嫌ってるやつも、大勢いる」

「我々の部下は街中にいるぞ!」

「それはよかった。ところで、人をつかってばかりいないで、たまには自分で何かしてみてもいいんじゃないか? 降りてこいよ。一緒に遊ぼう」

「腕力ばかりの木偶に、働きを与えてやっているのだ! 今度も立派に仕事を果たしてくれるだろう。貴様らの顔を牢の中で見るのが楽しみだ!」

「ねぇ」エミリアが口を挟んだ。知らない間にどこかへ行っていたのか、高いところから舞い降りてくると、グリエルモの肩に止まった。「そろそろお暇したほうがいいんじゃない? 屋敷の外に、人が集まってるわよ」

「なるほど」グリエルモが笑った。「お喋りが弾むと思ったら、時間稼ぎだったのか?」

「今更気づいても遅い。せいぜい自分たちの愚かさを後悔するんだ」

「後悔が許されるのは過去を変えられるやつだけだ」

グリエルモがそう言ったのは、アデモッロに向けてではないように聞こえた。

──まぁ、帰らせてもらうことにする。用は済んだんだ。あんまり長居しても悪いからな。だがその前に」グリエルモはアデモッロを睨みつけた。「お前には消えてもらわねばならない」

アデモッロはそれを聞くと、慌てて手すりから離れ、二階の扉から逃げていった。

「バカめ」グリエルモが蔑むように言った。「自分の命にそんな価値があると思ってるんだ」

アデモッロが消え、大広間には二人と一匹と一体と、一着の甲冑だけが残された。ハルはグラートの兜を脱がせてやった。その顔は、酒場であったときと同じものに戻っていた。牙もなければ獣毛もない。

「彼は、どうなるんでしょう」

ハルが呟くと、グリエルモはエミリアを見た。エミリアは「助かると思うわ」と答えた。

「彼は、アデモッロに借金があるんです」

ハルは俯いたまま言った。

「子供の治療費が必要で……用心棒として働いて、それでお金を返しているんだそうです。でも──

ハルが言葉に詰まると、グリエルモが後を引き取った。

「元と同じ条件で、ってわけにはいかないだろうな」

グリエルモはハルに近づくと、丸耳ウサギから鍵を取り上げた。鍵は、グリエルモの手の中で、粉々に砕けた。

「こうなっては、特にな」

「どうにかしてあげられませんか」

「無理だ」グリエルモはきっぱりと言った。「それは彼の問題だ。オレたちにどうこうできる話じゃない」

「でも──

「いいか。自分を助けるのは自分しかいない。誰かが助けてやることはできないんだ」

ハルは何か言い返そうとしたが、それより先にグリエルモは言葉を続けた。

「自分で立てないようなやつには、誰かが手を貸してやる必要があるかもしれん。だがこの男は自分の足を持っている。こいつは子供じゃないんだ。お前と違ってな」

ハルは(そうだろうか)と思った。どんなに強く、たくましくても、人は誰かの支えが必要なときもあるのではないか。しかしそう思っても、ハルがグラートのためにしてあげることは、何も考えつかなかった。

「ねぇ」エミリアがまた口を挟んだ。「さっきも言ったと思うんだけど、早くここを出ましょう。そのうち、屋敷の中にも入り込んでくるかも」

「懲りないやつらの提灯行列か」

「そう悪い手じゃないと思うわよ。アデモッロも鍵のことを少しは知ってるでしょうし。そろそろ今日は限界でしょ?」

「生意気な鳥類の嫌味を聞くくらいの体力は残っている。行こう。手薄な方に案内してくれ」

そう言うとグリエルモは大広間の入り口へと歩いていった。

エミリアはグリエルモの後を追っていきかけたが、ハルが立ち尽くしているのを見て、戻ってきた。肩に止まる。ハルは倒れこんだグラートを見つめていた。

「ハル、行きましょう」

ハルは顔を上げた。悲しそうな目をしていたが、エミリアの言葉に頷いた。大広間の外へ、グリエルモを追って歩き出した。

「ハル、あなた一つ忘れてるわよ」

エミリアの赤い瞳にハルの顔が映った。

「少なくともこれ以上、彼は命をドブに捨てるようなことはしないですむ。あなたのおかげでね」

「オレのおかげじゃないの?」丸耳ウサギがハルの手の中で言った。

「あなたたちのおかげでね」エミリアは呆れたように言い直した。「そういえばあなた、復讐はどうしたの? 自分と同じようにしてやるんだって言ってなかった?」

「よく考えたら、あいつらはお人形ごっこができないからね」そう言うと、丸耳ウサギは自分の頭をつっついてみせた。「まぁオレは、こっちの方で復讐するよ」

「ちゃんと言いつけは守るのよ。羽目を外し過ぎると──

「わかってる、わかってる。オレって、母性本能くすぐるのかな? 世話焼きの女にばっかりモテるんだよね」

エミリアが嘴でついばむと、丸耳ウサギは泣いてハルに助けを求めた。


15


エミリアの案内で邸宅の裏手に面したバルコニーに出ると、グリエルモはハルを抱き寄せた。

「しっかり掴まっていろよ」と言うと、グリエルモは影の手を左右二本出し、それを脚代わりにバルコニーの床を踏み切って、高く飛んだ。そのまま近くの雑木林に飛び込むと、木の幹を影の手で掴み、葉っぱや木のくずにまみれる以外は、無事に着地した。

「死ぬかと思った」と丸耳ウサギが言った。

二人と一匹と一体は街の中を歩いていった。足を怪我しているハルとしてはありがたかったが、大丈夫だろうかと不安にも思った。グリエルモが言うには「急いだほうが怪しい」らしい。

まだ彼らがアデモッロの邸宅を抜け出したことは知られていないだろうから、手配が出回るその前に、街から出ることになった。丸耳ウサギのローウェルとは、そこでお別れすることになった。「また遊びに来てくれよ」と、お尋ね者には難しい注文をつけて去っていった。

「街を出るなら、一旦合流しましょう。手配はしてあるから」

エミリアの言う意味がハルにはよくわからなかったが、グリエルモは頷いていた。

エミリアの先導に従って街を歩いた。いつの間にか日は暮れゆき、道行く人の顔はほとんどわからなくなっていた。ただ脚だけが道を進んでいくように見える。

よく見ると、路地には地べたに寝そべるようにしている人たちがいた。最初は何をしているのだろうかと思ったが、やがて、それがグリエルモの言っていた「ひさしうまやも貸してくれない」ということだとわかった。そして彼らが、街に一時的に立ち寄った旅人だというわけではないことも、わかった。

いつの間にか、見覚えのある通りに出たことに気づいた。初めてこの街にやってきた日に、通りがかった道だ。思ったとおり、あの宿があった。ハルとグリエルモが最初に泊まった宿だ。

「あの、ちょっとだけいいですか?」

ハルがそう言うと、グリエルモが振り返った。ハルは駆け足で宿へと入っていった。

しばらくしてハルが出てきた。

「何をしてたんだ?」とグリエルモが聞いた。

「言付けを頼んできました」

「言付け?」グリエルモは不思議そうに言った。あのとき二人のやりとりを、彼は聞いていただろうか。グリエルモはそれ以上は聞かなかった。ただ「遅れるとまた小言を言われるぞ」とだけ言って、また歩きはじめた。ハルもそれに続いた。

街中を抜け、やがて人気のない郊外へとやってきた。日は完全に暮れていた。あたりにはときおり作業小屋のようなものがあるだけで、出歩いている人は見当たらない。ただ月が草原を照らしているだけだった。

エミリアを追って二人が進んでいくと、やがてその先に、人らしき影が見えた。その人が右手を横に広げると、エミリアは滑り降りるように、その腕に止まった。すると、ろうそくの火が弾けて消えるときのように、鳥の姿は消えてしまった。

「まったく、馬鹿なことをして」

そこで待っていた人が、眉間に皺を寄せて言った。肩にかからないくらいの髪の、若い女性だった。

「ヴィニアで買い物もしたかったのに。どうしてくれるの?」

「よかったじゃないか。荷物が増えずにすんだ」

グリエルモが言い返すと、彼女は余計怒りを募らせたようだった。しばらくグリエルモをなじっていたが、ハルが戸惑っているのに気づいたのか、女性はハルに視線を移すと、うってかわって微笑んだ。

「はじめまして」とハルが言うと、女性はくすくすと笑った。

「何を言ってるの。もう『はじめまして』は済ませたでしょ。『お嬢さん』?」

「え?」ハルは驚いた。「もしかして……

「エミリアよ。あらためてよろしくね、ハル」

ハルはエミリアの差し出した手を握った。しかし、どういうことかうまく理解できないでいた。

「積もる話は後にして、今はひとまず、街を離れましょう。二人とも、馬車に乗って」

「馬車って?」ハルが聞いた。あたりに馬車らしきものは見当たらなかった。強いていえば、そばの作業小屋の隣に、幌付きの荷車が打ち捨てられている。

「そこの荷台。ちょっと待ってね、馬はすぐに呼ぶから」

そう言うと、エミリアは小さな鍵を取り出した。それを逆手に持つと、服の裾をまくりあげ、あらわになった脇腹に突き立てた。エミリアの周囲に黒い霧のようなものが立ち上り、急流のように彼女を取り巻くと、その中から、さっきまでとはまるで変わってしまった姿のエミリアが現れた。赤い瞳に、腰まで伸びる長い髪、鋭い八重歯、そして頭にはヤギの角のようなものが生えていた。

ハルはエミリアの姿を唖然として見つめた。

「そんなにじっくり見ないで。恥ずかしいから」

エミリアは人差し指を立てると、空中に何か図のようなものを描いた。すると、何もない空間から生え出てくるように、青みがかった黒の毛並みをした馬が現れた。その赤い瞳は、とても人が手懐けることなどできないような、禍々しい光を放っていた。

「さぁ、行きましょう。御者台はウィルが座ってよ」

「オレは腕を怪我してるんだぞ」

「自業自得じゃない。それにこの馬カスパーとはお友達でしょ。任せたわよ」

鍵を引き抜くと、エミリアは元の姿に戻った。それからハルに「おいで」と言うと荷車の方へと歩いていった。

グリエルモが馬と荷車をつなぐと、馬車は夜の闇へと走り出した。はじめ、すごい速さで走り出したために、荷台が激しく揺れた。「もっと静かにやって」とエミリアが怒鳴ると、馬車は速度を落とした。

荷台の中はそれほど広くなかった。ハルとエミリアが並んで座ると、それでいっぱいくらいの横幅だ。幌のおかげで少し暖かい気がした。エミリアが「横になってみたら?」と言うので、その通りにすると、天蓋に覆われた前方の口から、グリエルモの背中と、星空が見えた。

コルトで見るいつもの星とはまったく違って見えた。

馬車に揺られて星空を見ているうちに、いつの間にかハルは眠ってしまった。エミリアはその寝顔を見て、荷台に積んであった毛布を掛けてあげた。およそ剣を振るったりするようには見えない、あどけない顔だった。

「ねぇ」エミリアが前方に声を投げかけた。「そういえば、この子、どうして連れてきたの?」

「荷物持ちだと言ったろう」グリエルモは振り返らずに言った。「買い物もし放題だ。全部、そいつが持ってくれる」

「今日はもう、つまらない冗談に付き合う元気は残ってないんだけど」

「鍵を持ってる」グリエルモが言うと、エミリアの表情が強張った。「オレは詳しくないからな。どんな鍵か確かめてみてくれないか?」

「いいわよ。今から調べる? どこにあるの?」

「いや、そいつが起きてからにしよう」

「いいけど。どうして?」

「どうせ、握って離さないだろうからな」

エミリアがハルを見ると、胸元をしっかりと握りしめていた。試しに手をやると、本当に握って離さない。

「言った通りだろ」

後ろに目がついているようにグリエルモが言った。エミリアは穏やかな笑みをこぼすと、自分も毛布を被った。

その夜ハルは一晩中、首から下げた鍵を握っていた。大事なものを抱きしめるように。大切な人に抱きとめてもらうように。


第二話 終