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いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ
ep.3 ハーフ‐フル

1


電話の音が鳴っていた。うつ伏せで寝ていた香苗は、布団に顔をうずめたまま、手探りで音の発信源を見つけると、電話に出た。

『もしもし、香苗? 起きてた?』

電話から声がした。

「なんだ千歳か……

そう言う香苗の声は布団に押さえ込まれてくぐもっている。

『「なんだ」って、発信元、画面に出てるでしょ』

「まだ耳しか起きてない……

『起こしてごめんね。今日、夜まで空いてない?』

「空いてるかも……」と香苗は自信なさげに言った。まだ布団の国にいるので現実世界の予定はすぐには思い出せない。とはいえ、そういえば夏休みだった。アルバイト以外の予定はない。いやゼミがあった。でも八月までは行きたいときにでも行けばいいか。まだ七月だったよね。さすがに日付は忘れても何月かまでは忘れない。多分。香苗はあらためて「空いてる」と告げた。

『よかった。急で申し訳ないんだけど、今日出られない?』

「いいよ。また結ちゃんバンド?」

『ちょっと店を留守にしないといけなくって』

「千歳が?」

『そう。だから代わりにお店にいてほしくて』

「モッさんいれば平気でしょ」

『今日、山口くんがお昼のシフトに入ってるから』

「あー、はいはい」

香苗は納得して、最近店で働くことになった二人の男の子の顔を思い浮かべた。どっちが山口くんだっけ。茂くんか。元気なほう。二人ともあかりちゃんと同じ学校らしい。両手に花。隅に置けない。そうじゃなくて。

右も左もわからない新人くんには誰かついていてあげないといけない。そうはいっても単に一人増やすと人件費がかさむので、工夫してシフトを組むことになる。人数が多い時間帯に入れて一人当たりの負担を散らすとか、マネージャがフロアにも出るとか。

『お昼前までには来てくれるとありがたいんだけど』

「んー、準備できたらすぐ行く」

『ありがとう。じゃ、よろしくね』

電話が切れると、香苗は閉じたまぶたにぐっと力をいれてから、意を決して目を開いた。まだ九時前だった。眠いはずだ。

仰向けになり、目をしばたたかせながら上体を起こすと、伸びをした。カーテンを開けると夏の日差しが入り込んでくる。快晴だった。

洗面所に向かおうと部屋を出ると、廊下で菜摘とすれ違った。

「おっはー」と菜摘は右手をにぎにぎさせながら言った。

「おはよ。何その動き」

「おはようの挨拶」

「こう?」香苗は右手をぐーぱーしてみた。

「違う違う。第二関節から先だけ動かすの」

「シャワー誰か使ってる?」

「使ってないよ。しおりんは出てるし、マリちゃんは寝てるんじゃない?」

「ありがと」

「朝ごはん食べる? 何か作ろっか? わたしも今から」

「ありがとうお母さん……でもすぐ出かけるから今日は大丈夫」

「誰がお母さんか」

年下のお母さんに別れを告げると、寝ている茉莉まつりを起こさないよう静かな足取りで、洗面所へと向かった。共同住宅の廊下は加齢のためすぐに弱音を上げるのでいたわりが必要だった。


2


身支度をすませてダイニング(と言ってしまうと詐欺だけど食堂とは言いたくないのでこう呼ばれている)を覗くと、菜摘がサニー‐サイド・アップ(つまり目玉焼き)を食べていた。ただの目玉焼きをあんなに美味しそうに食べる人はそういない。

「私、バイト行ってくるから」と香苗が声をかけると、菜摘は口を手で覆って「いってらっしゃい」らしき言葉を発した。飲み込んでから、あらためて「いってらっしゃい」と言った。

「慌てなくていいのに」

「夜はどうするの?」

「わかんないけど多分食べてくる。なんで?」

「うん。そういえばマリちゃんが、また肉もらったって」

「またぁ?」

「冷蔵庫に入ってるからなんとかしてって。肉パーティしないと」

共同の台所(じゃなくてキッチン)には大きな冷蔵庫があった。この冷蔵庫の中身は基本的に共産主義ということになっているのだけど、ときどき茉莉がもらいものを詰め込んで圧迫してしまう。「捨てたければ捨ててもいいから」と茉莉は言うが、菜摘が「食べ物を捨てるなんて!」と言うので、そのときどきごとに掃討作戦が決行される。張本人まつりは逃げるし、枝織は戦力外なので大変辛い。

「大体、肉をプレゼントってのが理解できない。お中元じゃないんだから」

「たまにはヘルシーなものにしてほしいよね」

「また太る……

「たくさん運動しなきゃね」

ひとまず“肉祭り”(皮肉を込めてこう呼ぶ)の日取りは後日決めるということにして、香苗は下宿もといLa Maison de Minamiを出た。美波さんは大家で、月末になると現れる、かわいらしいお婆さん。お肉はそんなに食べない。

外に出てみると快晴ではなく、大きな白い雲が浮かんでいた。日差しは強く、まだ朝なのにもう蒸し暑い。だけど少し風があるので、その涼しさで帳消しだった。大きく空気を吸い込むと、涼しさが身体の中に入り込んでくる。歩きだすと、ようやく目が覚めてくる感じがした。


3


店の入り口を通ると扉に付けられたベルが鳴る。この音を聞くと、店員が必ずやってくる。フロア担当者の習性だ。ちょっと条件反射のパブロフ君(本当は犬の名前じゃないけど)に親近感を覚える。なので香苗は、邪魔にならないよう、出退勤時はベルを鳴らさないようにして扉を開けるようにしていた。

「あら。カナちゃん、どうしたの?」

それでも時子は香苗が店に入ってきたのに気づいた。さすがは時子さん、と香苗は苦笑した。

「今日、昼、代わりに入ることになりました」

「あらあら。山口くん、お休み?」

「いえ、マネージャが外出するらしくって」

「そうだったの。でも、カナちゃんが一緒なら楽できそう」時子はそう笑うと「ラッキー」と付け加えた。

時子は主に朝から昼までのシフトに入ることが多いパートの主婦で、寿退職する前は幼稚園の先生をしていたらしい。とにかく視野が広くて、フロアの隅から隅まで見えているんじゃないかと思うことがある。一度聞いてみたら「お客様は、突然駆けだしたりしないから」と笑っていた。

「でもちょっと早過ぎじゃない?」

時子は不思議そうに言った。

開店時間からさほど経っていない店内には、二組の客が入っていた。これから多少増えていくとしても、一人でも余裕で回る。香苗も、茂と同じく、昼前くらいに来れば十分だった。

「家にいると二度寝しちゃうんで」と香苗は困ったように笑った。

「信じられない。カナちゃんでも二度寝するんだ」

「家では自堕落です」

「嘘。夢を壊すようなこと、言わないで」

時子はなにか香苗に相当誤ったイメージ(夢ってなんだろう)を持っているようだった。でもお互いに仕事中しか知らない同士だとそれも当然かもしれない。香苗の知っている時子も、時子の思っている時子とは全然違うかもしれない。

バックヤードを通りがかるとき、キッチンに本晴もとはるの顔が見えた。いつも通り黒い長髪を後ろで結わえて気難しそうな顔をしている。香苗は提供カウンター(できた料理が置かれるところ)に腕を乗せて覗いてみた。何かの下準備に没頭していて、なかなか気づかない。

「なんだ、香苗ちゃんか」随分待ってやっと気づいた。「こんな朝っぱらから、どうした?」

「ん? ちょっと通りがかっただけ」

休みオフの日にまで店に来るようになったら末期症状だな」

「モッさんにだけは言われたくないわ……お昼のシフト入ってるから」

「そいつは、随分早く来たな」

「千歳に叩き起こされたんだよね」

「あぁ。そういえば、裕司に急に呼ばれたって言ってたな」

「オーナーに?」

「それで新入りくんのお守りに来たわけだな。まだ朝飯食ってないだろ?」

「わかる?」

「そんなに物欲しそうに調理場を覗いてたらな。何か作ってやるよ」

キッチンを覗いていたのはそんな理由からではないが、香苗は素直に「ありがと」と言っておいた。確かに何かお腹に入れておきたいというのもなきにしもあらず。ちなみに作ってくれたのはただの味噌汁だった。寝起きには「あたたかいものがいい」んだとさ。


4


鏡を見て、服に乱れがないかチェックすると、香苗は更衣室を出た。店の制服を着ると、少し身長が高くなる気がする。椅子に腰掛けるときも服に皺ができないか自然と気をつけてしまうし、人は服で姿勢が変わる。姿勢が変われば性格くらい変わることがあってもおかしくない。

従業員控え室には誰もいなかった。香苗がシフトに入るのは大体は賑わう時間帯なので、静かな控え室というのはちょっと懐かしい感じがする。

机の上にグルメ情報誌が置かれていたので、香苗は手に取ってみた。

この手の情報誌にはおおまかに無料のものと有料のものとがある。有料のものは、わざわざ読者がお金を払ってまで知りたい思うような情報を載せないといけない。だからかはわからないが、読んでみると、取り上げる店の選び方にしても、紹介の仕方にしても、有料誌には、念波みたいなものがある。筆者の感覚を読者に植え付けようという念力。それが面白い、というのが本晴の意見だった。

「自分が良いと思うものを広めようとするのは、一種の生殖活動だろうな」というのも彼の意見だったが、「いいんじゃない? 妊娠するわけじゃないんだし」というのが香苗の意見だった。念波で身は重くならない。

雑誌に目を通していると「おはよーざいまーす……」という気の抜けた声と共に、背を曲げ、首を前に出し、眠そうに目をつむったままの女の子が従業員控え室にやってきた。

「あれぇ。さぁみゃぁさん、めずいっすね」と物ぐさな発音で香苗の名字を呼んでから、申し訳程度に指三本を唇に当て、空気が抜けるようなあくびをした。

「桃子こそ、こんな朝から。学校は?」

「夏休みっすよ、夏休み」

「専門学校って夏休みあるんだ?」

「ありますよぉ。夏休みだけじゃなくて、夏休みの宿題までちゃんとあるんですよ。大学にもあるんすか? 宿題」

「んー、宿題はないかな」

「マジっすか。いいなぁ」と言いながら桃子は香苗の正面に腰掛けた。そのまま手を伸ばして机に顔をうずめる。

「でも人によっては休み自体がないかもね。私もゼミとかあるし」

香苗の言ったことに桃子は反応しなかった。つむじをつついてみたところ、やはりなにも反応しなかったので、軽くチョップを当てた。桃子は「いてっ」と言ったが、顔は上げなかった。

「職場で寝るな」

「昨夜遅かったんです……勘弁してください」

「眠いのはわかるけど、ちゃんとメリハリは付けなさい」

「あと五分だけ……

……あ、モッさん。どうしたの、休憩?」

桃子は勢いよく顔を上げた。それから警戒するように目を鋭くあたりを見回し、誰もいないのを確認してから、口を尖らせて香苗を睨んだ。

「いないじゃないっすか、土屋さん」

「いつもながらだけど、こんな手にそこまで綺麗に引っかからなくても」

「わかってるんですよ」桃子は溜め息をついた。「わかってても、もしかするとって思うと、やべってなっちゃうんすよね」

「たまに本当だと効き目が増すのって知ってた?」

「あーもーこれだから心理学部は」

「別にそういうことをする学科じゃないんだけどね」

ちなみに香苗の通う大学に心理学部は存在しない。文学部、心理社会学科。文系なのに実験多し。単位は厳しい。

「人の心を操って好き放題できるんじゃないんすか」

「できるわけないでしょ」

できたら世の中もっと大変なことになっている。

「そうっすよね。できたらそんなに悩まないですもんね」

桃子がさりげなく(露骨にか?)放り込んでくるストレートに香苗は眉を寄せた。桃子はそれを気にする様子もなく、続けて聞いてきた。

「最近どうなんですか。土屋さんと。うまくいってます?」

桃子が頬に拳をついてにへらと笑う。

「うまくいくもなにも、休みが合わないから……

「休みが合うも合わないも、あの人いつ休んでるんですかね」

「初詣は一緒に行ったけど」

「お。いいじゃないっすか。もう半年以上前のことっすけど」

「そうなんだよね」

香苗はめずらしく溜め息をついた。

「沢宮さんもキッチンに来たらどうです? そしたら一緒にいられますよ」

「同じ空間にいたって、それだけじゃしょうがないでしょ」

「それもそうっすねー」

すっかり目も覚めたのか、桃子の口調もはっきりしてきていた。話題も区切りがついたところで、両手の指を組んで伸びをすると、「じゃ、そろそろ行ってきます」と言って、桃子は更衣室へと向かった。

しばらくして桃子は再び従業員控え室に戻ってきた。調理服に着替えた桃子は、それだけで一端の料理人に見える。実際は調理専門学校に通いながらアルバイトに勤しむ身。指輪やピアスはギリギリまで外さない。

何か忘れ物でもしたのかと思っていると「そういえば」と桃子は言った。「ゴールデンウィークはどこも行かなかったんですか」

「そんなこと聞きに戻ってきたの?」

「気になると、仕事に集中できなくって」

「言われてみれば、ゴールデンウィークは一緒だったかな」

「え。マジっすか。どこ行ったんですか? 遊園地? 海外? グリーンランド?」

「お店」

……

「私も全出勤だったから」

「ゴールデンウィークって休みないんですか。市場も仕入先も開いてないんじゃ」

「今年は市場の定休日プラス一日くらいだったから。日曜と一緒で、多めに仕入れてって感じで」

「もしかしてお盆の時期も……?」

「お盆は休み。のはず」

「沢宮さん、元気だしてください。うち、応援してますから」

桃子は哀れを誘われたように目元に手をやった。香苗は別に気落ちしているわけではないが「ありがと」と応えた。なんだかんだで桃子なりに励まそうとしてくれている。のだと思う。多分。


5


昼も近づいてきた頃、控え室に元気な「おはようございます」を響かせて、茂がやってきた。初日に「運動部だった?」と聞いたが違った。逆にもう一人の男の子、どちらかというと物静かな弘樹が運動部らしいから、ステレオタイプというのはなかなか当てにならない。

「あれっ、なんで香苗さんが……いらっしゃるんですか」

茂に過剰な敬語で驚かれ、香苗は苦笑した。

「おはよ。そんなにかしこまらなくていいよ。丁寧に喋ろうとするのはいい心掛けだけど」

「また何か変でした……?」

「『いらっしゃる』は距離を感じるなぁ。お客様やオーナーに話しかけるんだったら丁度いいけど」

「確かに。それも考えたんですよねぇ」

茂は腕を組んで、困ったように首を傾げた。

「でも、『なんで香苗さんがいるんですか』だと、ちょっと失礼かなって思って」

「ははぁ」香苗は口元を緩めた。「なるほどねぇ。自分なりに考えてはみたんだ」

「なんて言えばよかったん……でしょうね」

香苗は別に『なんで香苗さんがいるんですか』と言われても気にしない(声と表情でわかるし)けど、確かに失礼に取られる場合もあるといえばある。

「『今日シフト入ってたんですか?』とか『今日はお休みオフじゃなかったんですか?』みたいに聞けばいいんじゃない?」

「あぁっ、そうか」

「元の言い方に寄せるなら、『あれ、なんで香苗さんが……』で止めとくとか」

「そうか……なるほどなぁ」

感心して頷く茂を見て、香苗はくすりと笑った。そんなに難しいことではなくても、こうやって自発的に試行錯誤しようとするのは好ましい。

茂はお調子者のようで、意外と仕事に熱心だった。メニューを覚えるのにしても、料理の提供の仕方や客席での立ち居振る舞いにしても、積極的に香苗に質問してくる。慣れない言葉遣いも身に付けようとがんばっている。いまどきこんな子なかなかいないよ。いかんいかん、おばあさんみたいなことを言ってしまった。

そういえば、と香苗は思い出した。アルバイトの面接で店に来たときも「ビシバシ鍛えてください」と言っていた。それもあって運動部出身かなと思ったんだった。

「じゃああらためて。香苗さん、今日って休みじゃなかったんですか?」

「茂くんを鍛えてあげてってマネージャから頼まれて」

「マジっすか。香苗さんに見てもらえるなんて光栄っす」

大げさな物言いに香苗は苦笑する。やる気があるのは好ましいけど、からかいがいはない。

「もう仕事には慣れた?」

「最近ようやく席番号覚えましたよ」

「結構かかったね。苦労してたもんねぇ」

「いやぁオレ、数字は苦手で」

そういうのを数字が苦手って言うんだろうか。

「でも香苗さんに指導してもらえたら、すぐ覚えます」

もう覚えたんじゃなかったんかい、とつい突っ込みそうになり「もう覚えたんじゃなかったの?」と控える。

「そうでした」

本当に茂は席番号を覚えたのか、香苗は不安になってきた。

注文を受ける人と料理を運ぶ人は同じとは限らない。特に忙しいときほどそうだ。そんなとき席番号が頭に入ってないと料理をどのテーブルに運べばいいかわからないし、忙しいときに誰かに「これどのテーブルでしたっけ」なんて聞かないといけないようでは仕事にならない。それどころか席を間違えて提供ミスをしたりなんかしたら、場合によっては料理が無駄になる。口をつけてから間違いに気づくお客様もいるからだ。

5番テーブルってどの席かわかる?」

「えっ。わかります。えーっと……」わかると言ってから茂は考えはじめた。「窓際のこっちから五番目ですよね」

「正解。なんだ、覚えてるじゃない」

「ばっちり覚えました」

「じゃあ22番は?」

「え!? 多分、通路じゃないっすか……ね」

「本当に?」

「ちょっと待ってもらっていいですか」と言ってから、茂は指を折り始める。「通路沿いの二人掛けの真ん中……じゃないっすかね……?」

「あと一回だけ聞くけど、本当に?」

「えぇっ……違いましたっけ……

「さぁ。どーだろ」

そう言われて茂は困ったように首を傾ける。再び指を折って数える。それでも自信はなさそうだ。不安そうにまた指を折る。

「いや、ここはもう、自分を信じます。通路沿いの二人掛けの真ん中の席です」

「正解」と香苗が言うと、茂は胸を撫で下ろすようにほっと息をつく。

「合ってるんじゃないすか。おどかさないでくださいよ」

「でも、これで5番と22番は絶対忘れないでしょ」と言って香苗は笑った。この二席を覚えておけば他の席を忘れたときでもそこから数えていけばそんなに困らない。毎回数えるのは効率が悪いけど、そこはやってるうちに自然と覚えてしまう。最初のステップとしては十分だ。ちなみに香苗が笑ったのは、ちょっとはからかいがいがあったからだった。反応が素直な子はかわいい。


6


フロアの仕事は、やることの一つ一つは大してややこしくはない。お客様を席にご案内して、注文を取って、料理を運んで、会計をして、下膳して席を綺麗に整え直す。他に細々とした雑務は色々あっても、大まかにはこのくらいだ。

それでも初めてフロアで働く人は、最初の数日、長ければ数週間は「接客って疲れるんですね……頭がぼーっとします」という感じになる。大抵は週末の夕食時のシフトで、一度は頭の中がこんがらがって、パニックになる。

そうなる理由は、フロアの仕事は常に同時並行的に発生して、いつでも割り込んでくるからだった。料理を運んでるときに来店客に気づいて、これを運んだらご案内しないとと思っていると、まだ運んでいる途中に別のお客様に呼び止められて、「すぐお伺いしますので少々お待ちください」と言っている間にも、キッチンでは新しい料理ができるし、別の席からも「すみませーん」と呼ばれることくらい日常茶飯事で、その度に、ちゃんと覚えておくのは当然として、頭の中で優先順位を入れ替えていかないといけない。そうしている間にもレジには会計待ちのお客様が並んでいるし、新しいお客様をご案内するためにはテーブルを片付けないといけないし、その上新入りの頃は、当たり前だけど、席番号もあやふやでメニューもちゃんと覚えきれておらずお客様との接し方にも慣れていない。頭がパンクしてもしょうがない。

こういうことが苦もなくできるようになって、ようやく接客担当としてのスタートラインに立てる。やってれば、なんだかんだで慣れるけどね。

この日のランチタイムは余裕があった。必要な人員が2だとしたら時子と香苗で普通にしていても2.5くらいは動ける。それに加えて茂もいるので、明らかに人員過剰だった。とはいえ香苗がいなければ、時子が一人で茂の面倒まで見ないといけないので、流石に手が足りなくなる。本来であればマネージャの千歳がこの時間帯だけフロアも手伝うことでつじつまが合うはずだったが、急のことなのでこうなってしまった。

お昼の混雑時ピークを越えて一段落つくと、「今日は楽だった~」と時子が笑った。

「山口くんもどんどん仕事に慣れてきてるし、おかげで楽させてもらちゃった」と時子が言うと、お世辞には聞こえない。茂は「そんなこと……ありますかね?」と喜んでいた。

時子は昼までのシフトが上がると、すぐに帰宅する。子供が帰ってくる前に家のことを済ませないといけないそうで、結構慌しく帰っていく。

香苗は時子の子供には会ったことがあった。天使みたいな顔をした怪獣だった。火くらいは噴く。時子でも怒ることがあるんだなぁと思って聞いたら「子供を叱れないと、幼稚園の先生はできません」とのこと。

それから子供の相手をしながら夕食の支度をし、旦那の帰りを待つ。やっぱりエプロン姿でお出迎えするのだろうか。香苗は想像してみたが、かわいい。似合いすぎてるなと思った。自分も結婚したらそういう暮らしもあり得るのかなと考えてみようとしたが、まったく想像できない。

「そんなに悪いものじゃないよ」と時子が笑って言うと、そうかもしれないと思えてくる。あぶないあぶない。時子の笑顔に幻惑されるのは茂だけではなかった。時子にはそうでも、香苗にもそうとは限らない。私にはとても縁がないだろうな、と香苗は心の中でほっと溜め息。


7


消耗品を補充しに裏手の倉庫に向かう途中、従業員控え室を通りがかると、本晴が食事をとっていた。

昼までのシフトとか、夜だけのシフトだと、食事を済ませてから仕事をしたり、仕事が終わってから食事をしたりできるが、朝から晩までのような長時間の勤務のときは、休憩時間に食事をとることになる。弁当を持ち込んでもいいし、外に食べに出てもいいのだけど、店で食べる方が手軽なので、香苗もよく社食(多分社員用の食事の略。バイトだけど)で済ませる。従業員割引も効く。

「何食べてるの?」

香苗が声をかけると、本晴は咀嚼していた分を飲み込んでから「まかない」と答えた。

「そりゃ、見ればわかる。桃子がつくったの?」

「そう」

「どう? お味の方は」

「まだまだだな」

本晴が食べているのはラザニアだった。赤い陶製の容器に焼けてカリカリになったチーズがふたをし、スプーンを差し込まれた割れ目からライスやミートソースが顔を覗かせている。焼きたてのチーズの香りが、ソースの酸味をまとって、胃を刺激するように漂っている。

「ふーん。ちょっとちょうだい」 

返事を待たず、香苗は本晴の手からスプーンを取った。

「美味しいじゃない」

「美味しいのは当然だ。レシピ通り作ってるんだからな」

「じゃあいいでしょ」

「悪くはないが良くもない。人の考えた分量、人の考えた温度、人の考えた時間に合わせてやってるだけだからな。自分の目や耳や舌で判断してない。これで合ってるかな、大丈夫かな、とおっかなびっくりなのが味にも出てる。レシピはあくまで参考で、自分の中に基準を作っていかないといけないんだ」

「厳しい~」

「基準は厳しくないとダメなんだよ」

茶化すように言う香苗から、本晴はスプーンを奪い返した。

再びラザニアを口にしはじめた本晴は、髪を下ろしていた。キッチンでは縛ってまとめているが、それ以外のときは長く波打つ黒髪を垂れるがままにしている。昔のミュージシャンみたいな見た目だ。

あまり愛想のよい男ではない。お喋りが好きなタイプでもないし冗談もわかりづらい。趣味は仕事で休みの日にも料理のことばかり考えている。

以前はもっと大きい店で働いていたこともあるらしいが、やりたいことができて辞めたそうだ。何とかという国のよくわからない料理を食べてみたくなったとか言っていた気がする。それから日本に帰ってきて、その辺のお店で働いたり働かなかったりしているうちに、この店のオーナーに声をかけられたらしい。

オーナーとは中学以来の付き合いだそうで、本晴がこの店で働いていることとはそれ以外にも何かあるらしいが、香苗も詳しくは知らない。聞いたら教えてくれるかもしれないけど、聞いたことはない。

「あぁ、そういえば」

香苗が倉庫へ向かおうとしたとき、思いついたように本晴が声をかけてきた。

「盆は、実家に帰るのか?」

「ううん。ゼミとかもあるし」

「学校の行事かなにかか」

「四年になると卒業研究ってのをしないといけないんだけどね、そのための活動ってのがもうあるわけよ」

「じゃあ盆頃は忙しいんだな」

「お盆の週は休みなんだけどね。そこだけ帰省したってとんぼ返りだし。面倒だから」

「そうか」

「親に顔くらい見せてやれとか、そういうこと?」

「いや、それは、俺も人のことは言えんしな」

「そうなんだ」

言われてみれば、本晴にも産みの親がいて当然ではあった。しかしこの風貌からはそういうことがイメージしづらい。まめに実家に顔を出したり、親孝行をしているタイプにも見えない。

「たまには顔くらい見せたほうがいいよ。私が言えることじゃないけど」

「あぁ。そのうちな」

それで会話が終わったと思い、香苗が倉庫に向かおうとすると、再び本晴が声をかけてきた。

「どこか遊びにでも行くか」

思いがけない提案に、香苗はむしろ怪訝な顔をした。

「どうしたの。突然」

「最近休んでなかったからな。盆くらいどこか遊びに行こうと思うんだが、一緒にどうだ」

「そりゃ、いいけど」

「海と山、どっちがいい?」

海か山か。どっちも日帰りで行くにはちょっと遠いな、と香苗は思った。

「海。山は秋でしょ」

「徒然草だっけか」

「枕草子にもそんなのないけど」

「とにかく海だな。予定、空けておいてくれるか」

「うん、わかった」

「詳しいことが決まったら、また話すよ」

そう告げる本晴の後ろに、桃子のしたり顔が見えるような気がした。こんなことを本晴が自分から考えるとはとうてい思えない。

まったく、あの子は。また余計なお節介を焼いて。従業員控え室の壁に掛けられている鏡に映った自分の顔が思ったより嬉しそうにしているのに気づいて、誤魔化すように愚痴をこぼす。


8


店が混むのはお昼時と夕食時で、その間の時間帯はおおむね空いていて閑散時アイドルタイムと呼ばれる。客の入りは疎らで、それも人と歓談したり、時間を潰したりしている人がほとんどなので、注文もそんなに忙しくない。

この時間のフロアスタッフは一人だけで十分なので、香苗は休憩を取ることにした。夕からは夜のシフト担当者が来るので、本来なら退勤してもいいところだが、香苗が残っているのはフロアに出ているのが茂だからだった。

テーブルに肘をつき、頬を手に乗せて、香苗は小さい文字がびっしりと印刷された紙に目を向けていた。ゼミで指導教官から読むように言われた論文で、こういうものを何本も読まなければならないし、レポートも書かなければならない。さらにそれをゼミで発表しなければならないし、その後は教授からネチネチとした質問攻撃を受けることになる。それにきちんと答えられないとクドクドとしたお説教に変わってしまうので、読まずにいい加減に済ませるわけにはいかなかった。

香苗以外には誰もいない従業員控え室は、静かで、フロアの音が遠く聞こえてくる。客たちの歓談が、言葉としての形を失い音となって、流れてくる。そこに一際大きく笑い声が混じったり、カチャンと食器が触れ合う音が鳴ったりする。ときどき「かしこまりました」や「いらっしゃいませ」とハキハキした男の子の声が聞こえてきて、ふと香苗は気を取られるが、すぐに文字を追うことに戻る。

文章に集中していると、周囲を水に覆われているかのようになってくる。文字によって隔絶された空間では、外界からの音はくぐもり、光は滲む。一挙手一投足にゆったりとした手応えがあり、やがて、水温と体温の釣り合いが取れてくる。水中生物のように水の中でも呼吸ができるようになり、しかし水圧の高すぎるところへ潜るには、やはり息をぐっと詰めなければならない。

深いところには光も音も届かない。それでも手探りであちこちにぶつかっているうちに、なんとなくどういう場所かわかってくる。手を伸ばせば辺りにあるものすべてに手が届きそうな感じがして、それでも全周囲からくる水の圧力は感じたままで、息の仕方がわかりかけてきたおかげでぺしゃんこになってはしまわないけど、早くここを通り抜けてしまいたい気がする。実際にそうしてしまってから、息をしなおして、また戻ってくる、また通り抜ける、また息を詰める。そういうことを繰り返して頭がぼうっとしてくると、何か甘い物を食べなくちゃいけなくて自分が食べたいわけでは決してなく義務的に仕方なくチョコレートに手を伸ばすけど、テーブルの上にはチョコなんてなかった。

「おはようございます」

部屋の隅にそっと荷物を置くような挨拶に、香苗は紙面から顔を上げると、笑顔を作った。従業員控え室に入ってきたのは小柄な男の子だった。茂と同時期にアルバイトをはじめた、あかりのもう一人の同級生。

「おはよ」と日中でも朝の挨拶なのは飲食業の慣例。「随分早く来たね」

「もしかして、よくなかったですか」

「全然。遅刻するよりは早く来たほうがいいけど」香苗はチラと時計を見た。「って、まだ一時間以上あるのかぁ」

「用事で近くまで来てて……一旦家に帰る時間はなさそうだったんで」

「なるほどねぇ」

「沢宮さんは、今日は休みじゃなかったでしたっけ」

「私はピンチヒッター」

「早瀬さんですか? でも早瀬さんも今日シフト入ってなかったような」

「結ちゃんじゃなくてマネージャ」と香苗はちょっと苦笑した。シフトを代わってもらうといえば早瀬結花、という式がアルバイトをはじめたての新人くんにもすでに定着してしまったのは、アルバイト初週から何度か結花と同じシフトがあったにもかかわらず実際に来たのは香苗だったからだろう。

「それって大学のですか?」事務椅子に腰掛けながら弘樹が言った。「もしかしてお邪魔だったんじゃ」

「いーの。暇つぶしに読んでただけだから」

香苗は笑って答えると、テーブルに置かれた印刷用紙を片付けた。

「大学って結構忙しいんですか?」

「まぁねぇ。去年までは気ままなキャンパスライフだったけど……でも高校生だって、受験があるでしょ。まだ二年生だっけ?」

「まだ二年です」

「バイト始めるくらいだもんね。来年の今頃は大変だよー」と言いながら、香苗は自分の受験生時代を思い出す。あんまりちゃんと勉強をしていた方ではなかったので、最終的にかなり根をつめることになった。「最後の夏休み、楽しんどいたほうがいいよ。まともに遊べるのなんてこれで最後だから」

「そんなに大変なんですか」

「弘樹くんって成績いいほう?」

「えっと、まぁ、普通くらいです」

「三年のこの時期ともなると、周りもどんどん薄情になってくるからね。ギリギリになって成績いい友達に教えてもらお~なんて甘いこと考えてたら、アテが外れて痛い目見るよ」

「え。えぇ」

「まぁ、三年の夏にもなって、友達に勉強教わろうって時点で、かなり危険信号だけど」

「そ、そうなんですか……

弘樹は思ったより深刻そうに相槌を打った。見かけによらず受験にプレッシャーを感じるタイプなのだろうか。まぁ、でも、それくらいのほうがいいのかも、と香苗は一人納得する。

「あ、そういえば、本、ありがとうございました」

弘樹は思い出したように言うと、足元の手提げに手を伸ばした。

「あ、それ、あかりちゃんに渡してくれる?」

「水森さんにですか?」

「うん。あかりちゃんにも貸してあげるって約束してて」

「僕に先に貸してよかったんですか」

「いいんじゃない? 多分」

「そうなんですか?」

「まぁタイミングが合わなかったから。最近あかりちゃんと同じシフトの日なかったし」

「なるほど、わかりました」

「ちなみにどうだった?」

「本ですか? うーん」と呟きながら、弘樹は視線を左下に向けた。答えを待つ間しばらく沈黙が続く。香苗としては「おもしろかった」「つまらなかった」くらい気軽な答えが返ってくると思っていたのだが、思ったより真剣に考えているみたいだ。

「いくつか試してみたいなと思いました」

「へー。どれ?」

「ドア・イン・ザ・フェイスとか」

「あぁ、シャイニングね」

「なんですかそれ」

「知らない? 映画の『シャイニング』」

「名前だけは聞いたことあるような」

軽く笑いながら、香苗は内心意外に思った。フット・イン・ザ・ドアならまだしも、試してみたいのがドア・イン・ザ・フェイスとは。弘樹のイメージとは大分違った。

ドア・イン・ザ・フェイスというのは心理学を応用したテクニックで、簡単に言えば、最初に無茶苦茶な要求をしておいて、それを多少穏当な要求に引き下げることであたかも譲歩したかのように感じさせて、相手に頼みを聞いてもらいやすくする手法のこと。最初の無茶な要求を、ドアに顔をムリヤリ突っ込むことに例えて、ドア・イン・ザ・フェイスと呼ぶ、というわけではないらしい。『シャイニング』のジャック・ニコルソンとはもちろん関係ない。

ちなみにフット・イン・ザ・ドアは、「ちょっとだけだから!」をちょっとでは済ませないことを言う。

香苗が弘樹に貸したのは、そういった心理学ネタがふんだんに乱用される部活もののフィクションで、専門的な知識がなくても楽しめる本なので、「心理学ってどういうことをするんですか?」と聞かれたときによく人に貸している。それで心理学がどういうものなのかわかってもらえるかというと、むしろ誤解を深めていそうだけど。


9


更衣室が混まないよう先に着替えておきます、と弘樹が従業員控え室を出てしばらくしてから、「おはようございます」と、今度は、爽やかな目覚めが声に身を変えたような挨拶とともに、女の子が二人入ってきた。二人?

「あれ。絵美ちゃん、どうしたの」

水森姉妹の妹の方は、今日はお休みのはずだった。姉のあかりだけでなく、妹の絵美まで一緒なのはおかしい。

「間違って来ちゃいました」

「まったく、おっちょこちょいなんだから」

呆れたように言うあかりの隣で、絵美がえへへとはにかむ。

「お店の前で『あっ!』って気づいたんですけど、せっかく来たのに、そのまま帰るのももったいないなぁって」

「お店に入ったって得したりはしないでしょ」

「そんなことないよ」

あかりの指摘に絵美はむくれた。

「そんなことあるでしょ」

「そんなことないもん」

「じゃあどんな得があるの」

「えーっと」と絵美は人差し指を顎のあたりに当てる。「……やっぱり、特にないかな」

「まったく、もう……

二人のやり取りを聞いて香苗も苦笑した。

「まぁ、来て困るわけでもないし、のんびりしていったら?」

「そうします」と絵美は助け舟に笑顔で乗り込んだ。

絵美は事務椅子を両手でよいしょと軽く浮かせて引くと、香苗の正面にちょこんと座った。あかりも隣の椅子を片手でさっと引く。

「そういえば」椅子に腰掛けながらあかりが言った。「香苗さんこそどうしたんですか?」

こう聞かれるのは今日何度目だろう。香苗は眉を寄せつつも口の端を綻ばせた。

「千歳が代わってくれって言うから」

「マネージャがですか?」

「何かオーナーに呼ばれたんだってさ」

「そうなんですか。珍しいですね」

あかりの言う通り、あまりあることではなかった。店のことで何か話があるときはオーナーが来るのが普通だし、あらかじめ決まっている予定なら影響がでないようにシフトを組む。その日の朝になって香苗に電話して代わりをお願いするなんてことは、千歳の都合でということに限れば、今までなかった。他の都合でならちょくちょくある。

「でもよくないですよ」

あかりがちょっと真面目な顔をして言った。

香苗は察しはつくものの「なにが?」ととぼけた。

「わかってますよね」

「もー、そう硬いこと言わないの」

あかりの言いたいのはこういうことだろう。

この時間、フロアの仕事は一人で十分なので、香苗は休憩を取っている。退勤しないのはフロアに出ている茂に何かトラブルがあれば対応できるようにするためだ。休憩時間は時給が発生しないので、香苗が休憩を取ることで人件費が節約できる。しかし、そうやって仕事のために待機している間は拘束時間であって休憩ではないのではないか。

「まぁ、ほら、これからこうやって、仕事でもないのに来ちゃった人と楽しくお喋りに興じたりするわけだし」

「それってエミのことですか?」と絵美が笑った。

「むー」とあかりは不服そうにするが、香苗は笑って受け流す。


10


ほどなくして制服に着替えた弘樹が戻ってきた。室内を眺める素振りが少し意外そうなのは、水森姉妹がいるとは思っていなかったからだろうか。

「あれ」あかりがすかさず声をかけた。「小林くん。もう来てたんだ」

「ちょうど近くまで来てて」

「そうなんだ。……もしかして島田先輩?」

そう言いながら、あかりはわずかに腰を浮かすと、座っていた椅子を横にずらして、スペースを開けた。

「うん。結構切羽詰まってるみたい」と応えつつ、弘樹はその隣に腰掛けた。

「なになに? 何の話?」

香苗が口を挟むと、弘樹とあかりは一瞬互いに目を合わせ、それからちょっと苦笑して、弘樹の方が口を開いた。

「学校の先輩にちょっと頼みごとをされて」

「後輩に勉強を教わってるらしいんですよ。受験生が」

「小林先輩って勉強教えるの上手なんですか?」

「そうだったらいいんだけど……

「学校の先輩ねぇ」と何気なくつぶやきながら、香苗はちょっと不思議に思った。部活に入っていた弘樹はわかるとしても、部活にも委員会にも所属していないはずのあかりが、上級生と関わることはなさそうに思える。それで学校の先輩に共通の知り合いがいるというのは、何やらおもしろそうな話だ。

「なんだか受験って、大変そうですね」

「絵美もつい半年前まで受験生だったじゃない」

「あ、そうだった」

この春に高校生になったばかりの絵美はクスクス笑った。

「でも」と弘樹が口を挟んだ。「高校受験と大学受験じゃ違うんじゃない?」

「そうなんですか?」

「うん」と答えてから弘樹はちょっと困ったように付け足す。「僕も大学受験はまだだからわからないけど……

「そうですよね」と絵美はまたクスクス笑う。

「実際どうなんですか?」とあかりが香苗に話題を振った。

「うーん」

香苗は曲げた人差し指を唇の下に当てて考えた。大変だったといえば大変だったけど、あらためてどうかと問われると、なんと言っていいか悩む。

「まぁ、どこに行きたいか次第なんじゃない?」 

「香苗さんはどうでした?」

「一生で一番勉強したかなぁ。それまで全然勉強してなかったから、ツケが回ってきたわけだけど」

「そうなんですか?」

「どうしても行きたい学校ができちゃって……それが遅かったんだよね」

「それって、もしかして」と絵美が真剣そうに尋ねる。「好きな人と同じ大学に行きたかったとかですか?」

「まl、そんなとこ」

正確にはそこそこ違うが、当たらずとも遠からずな部分もあるので、そう答えておいた。香苗の返答に、絵美だけでなく、あかりもぱっと白い歯を見せる。

「それで、じゃあ志望校には合格できたんですか?」

「うん。なんとか」

「えー! すごいです」とあかりは声をキラキラさせて言った。

「愛のパワーですね」

「わざと恥ずかしがらせようとしてるでしょ」

「そんなことないですよ!」

「愛のパワーって」

「でも、そうですよね。その人と一緒に勉強したりとかしたんですか?」

「いやー、勉強は教えてくれなかったかな」

「そうなんですか?」

「そのときは片想いだったしね」

「そのときはってことは」と絵美が割って入った。「今は違うんですか?」

「うん。まぁ」

「ちゃんと恋も実ったんですね!」と再びあかり。

「いちいち表現が気恥ずかしいんだけど」

「いい話じゃないですか。愛の力で受験も受かって恋も実って。うらやましいです」

そう言うあかりは殊更おだてているようでもからかっているようでもない。大体がそんな器用なことができる子ではないので、香苗としても言葉通りに受け取るところだけれど、その方がむしろ困ったりもする。時に素直な反応が一番かわしづらい。

「そういうあかりちゃんは」ということで、香苗は話題の矛先を変えることにした。「誰か同じ大学に行きたい人でもいるの?」

香苗としては適当に話を逸らしたかっただけだったが、思いがけず、「え!?」とあかりの濁点付きの反応を引き出してしまった。

「わ、私の話はよくないですか?」

「っていうことは、いるんだ?」

「い、いないです! 全然!」

あかりは両手を振って否定した。面白いくらい「います」と言ってしまっているようなものだが、本人は誤魔化せると思っているのか、抗弁を続けるつもりらしい。

「そんなに慌てなくていいのに」

「あ、慌ててません!」

「お姉さんにだけこっそり教えて? 誰にも言わないから」

「もー、だから違いますって! っていうかまだどうするかも決めてないですし」

「どこに行きたいかってこと?」

「それもですけど」とあかりは両手を下ろす。「進学するのかどうかとか、まだ全然ちゃんと考えてなくて」

あかりは困ったように微笑んだ。

水森姉妹の事情については香苗も知らないではなかった。気軽に、決めかねてるんならとりあえず進学しといたら、などと言う気にはなれない。あかりの性格を考えると、色々と悩んでしまうのも当然だろう。

当たり前だけど弘樹は何の話かわかっていないようだし、絵美もニコニコしている。

「でも、それと、同じ大学に行きたい人がいるかいないかは、微妙に論点が違わない?」香苗は蒸し返した。「急に話を変えたのがむしろ怪しい」

「か、香苗さ~ん」と弱り切った様子で笑うしかないあかりを横目に、香苗はさっきから隣で真剣な面持ちをしている絵美に水を向けた。

「絵美ちゃんも気になるでしょ?」

「気になります」

「もう、絵美まで……そういう絵美こそ、どうなの?」

「エミはまだ高校に入ったばかりだもん」

……じゃあ、えーっと、あ、そうだ。小林くんはどう? 大学受験のこととか、もう考えてる?」

「え?」と安全圏にいたところを突然巻き込まれた弘樹は、ちょっと驚いて、それから少し考えるように右上を見た。「うーん。僕もまだ全然。今までずっと部活ばっかりだったから」

「そっか。そうだよね」

「でも最近の先輩たちを見てると、考えるなら早めの方がいいのかなって気はしてくるかな」

「たしかに」

それを切欠に、二人の話題は、受験勉強をどうするかに流れていった。香苗ももう強いて話を戻そうとはせず、弘樹と喋っているあかりの笑顔を見ていた。

笑顔のことが多いあかりではあるが、いつもの中立ニュートラルポジション的な笑みではなく、ときどき見せる、気持ちが弾むのに任せた笑い顔をしていた。案外、職場とは違って、学校ではいつもこんな表情なのかもしれない。

そういえば、バイトの面接に同級生二人を連れてきた日も、あかりはこんな風に楽しそうにしていたな、と香苗は思い出した。あらためて、楽しそうに話をするあかりと、それにあまり表情は変えずゆったりと応えている弘樹とを見る。香苗は口元を緩めつつも、今は何も言わないでおいた。楽しみは後に取っておくに限る。


11


香苗が制服から着替えて戻ってくると、従業員控え室には誰もいなかった。絵美はもう帰ったし、あかりと弘樹はフロアに出ている。夕食時を前にしてキッチンからも忙しそうな音が聞こえてくるが、ここだけは閑散としていた。静かな部屋の外側だけを喧騒が取り巻いている。

水栓が開き、水が流れ出て、太い音でシンクに当たる、その水流に何かが差し込まれ、水を弾き細やかな音を立てる。フライパンを動かしたり持ち上げたりするたびにコンロと擦れ合う金属音を飾り付けに、食材を炒める火によって水分が飛ばされていく。音の合間を埋めるように桃子と本晴の声が聞こえる。

フロア担当の香苗がキッチンに入ることはないので、中がどうなっているのかはよくわからない。聞こえてくる音からきっとこんなだろうなと想像するだけ。たくさんの注文を手際よく捌くため、いくつも並行して、食材を切り揃えたり、調味料を混ぜてソースを作ったり、複数のコンロでひと時に煮たり焼いたり、目を丸くしててんてこ舞いの桃子に、本晴が眉をひそめながらあれこれ指示をしている。そうやって何とか作り上げた料理がフロアスタッフの手で笑顔とともにお客様に運ばれていく……とそういえば、今日フロアに出てるのはあかりと弘樹だった。

あかりは見本としてポスターにでもしていいくらい気持ちのよい笑顔を見せるが、弘樹はあんまりそういう感じではない。料理を運ぶにしても、注文を受けるにしても、来店者を案内するにしても、穏やかに、大きく表情を変えない。無表情というわけではないし、不思議と無愛想な感じもしないが、対照的な二人ではあった。ちなみにちょっと聞いてみたら、弘樹としては満面の笑みのつもりらしい。

香苗はバッグを手にすると、念の為にシフト表を見て、記憶の中の予定と一致していることを確かめた。それから帰るかと部屋を出かかったところで、出入り口からちょっと意外な顔がひょいと覗き込んだ。少し前に帰ったはずの茂だった。

「どうしたの? なにか忘れ物?」

香苗が声をかけると、茂はバツが悪そうにはにかんだ。

「明日のシフト確認し忘れちゃって」

いかにもという感がして、香苗は苦笑した。

「茂くんは明日は休みで明後日十一時から」

「ありがとうございます!」と言ってから、茂は不思議そうに続けた。「よく覚えてますね、オレなんて自分のも忘れてたのに」

「ちょうど今見たところだったから。わざわざ戻ってこなくても、電話で聞いてもよかったのに」

「いやー、そうも思ったんですけど、忙しいのに邪魔してもなって。香苗さん今から帰るとこですか?」

「うん」

「奇遇ですねオレもです」

そりゃそうでしょ、と思わず突っ込みそうになった。

店を出ると通りは茜色に染まっていた。雲が出ていて、その手前側は青く暗く、遠方の地平との間は焼けたように明るい。空調の効いた店内から人々の行き交う蒸し暑い表通りに出てくると、冷凍食品の外装を開いたような感じがする。

香苗が振り返ると、夕食時前の店内は賑わいを増し始めていた。制服を着て歩き回っているのは弘樹とあかりで、シフトに入っているわけでもないのに来てしまっていた絵美はとうに帰っていたが──香苗はちょっと思い出して笑ってしまった。

シフト替わりの前に従業員控え室で歓談していたとき、ふと思いついたのだろう。弘樹に後から聞いたところでは、例の本をあかりに渡そうと思ったらしい。

話の途中で弘樹が声をかけた。

「あ、水森さん」

「なに?」「なんですか?」

水森姉妹が一緒に振り向いた。

日頃はあまり大げさに驚いたりはしない弘樹だが、このときはさすがに思いがけなかったようで、いつものやや眠たそうな眼をちょっとだけ大きく見開いた。

「あ、ごめん、お姉さんの方なんだけど」

「でもエミも、水森ですよ」

屈託なく笑う絵美に、弘樹は余計困ってしまったようで、漫画でよくある大粒の汗のしずくを頭に貼り付けてあげたくなる様子でうろたえていた。

「じゃあエミのことは、エミって呼んでくださいね」

弘樹が絵美から二人のことを下の名前で呼び分けるよう押し切られるのを見て、これはきっと強く押されたら断れないタイプだなと香苗は思った。

帰りは茂も駅の方らしい。香苗も方角的には途中まで同じなので、一緒に歩いた。昼間に比べれば日は傾いているし、街路樹の多い並木道なので雰囲気だけは涼しげだが、湿度が高く熱がまだ残っているので十分に蒸し暑い。

「香苗さんって、この辺に住んでるんですか?」

「うん。お店から五分くらいかな」

「バイト来るの、めっちゃ楽っすね」

「目と鼻の先だからねぇ」

「いいなぁ。学校の目の前に住んでるやつとかいたりするじゃないですか。あぁいうのうらやましいっす」

「そういう人って大体遅刻ギリギリに来ない?」

「来ます来ます。『さっきまで寝てた……』ってまだ半分寝てる感じで」

「あはは。いやでも、そう。やっぱギリギリまで寝てられるってなると、一旦起きても、また一秒でも長く寝てたくなるんだよね。せっかくだし」

「え。香苗さんも二度寝とかするんですか」

朝も同じことを言われたな、と思い返して、香苗は苦笑した。

「ある程度は遠いほうがメリハリはつけやすくていいのかもね。大人になったら親も起こしてはくれないし」

「香苗さんって、一人暮らしなんですか?」

「うん」と答えてから、香苗はちょっと考えた。「親許は離れてるけど、一人暮らしとは違うかも。何人かで一緒に住んでるから」

「一緒に?」

「部屋はそれぞれだけどね。キッチンとかお風呂は共同で」

「へー、シェアハウスですか? なんかオシャレっすね」

そう言われて香苗は自身の住まうLa Maison de Minamiの見面を思い浮かべた。シェアハウスと呼ぶのはちょっと躊躇われる気がする。しかし間違いというわけでもなさそうなので、曖昧に微笑んでおいた。

「そういえば」香苗はそれでふと思いついた。「今度、バーベキューか何かするんだけど、来る?」

「えっ、いいんですか?」

「ちょっと食べきれない量の肉があって……お肉好き?」

「めっちゃ好きっす」

むしろ嫌いな人なんているんですか、と言わんがばかりに茂はうなずく。香苗は安堵した。戦力確保。これは大量に食べてくれるだろう。今度の“肉祭り”は楽できそうだ。

並木道が途切れる少し手前、ネパールカレーの立て看板が出ている居住用マンションの角から曲がった路地の先に、シェアハウスとは呼ぶには躊躇いのある下宿がある。そこで茂と別れようと手を振りかけたとき、「あの」と茂が言った。

「今日は、すみませんでした」

突然頭を下げられて、香苗は戸惑った。謝られるようなこと何かしたっけ。休みだったところをわざわざ出てきたことだろうか。それにしたって千歳の都合であって茂のせいではない。

「えっと、ごめん、何のこと?」

「お客さん怒らせちゃって……

「あぁ、あれね」と香苗はようやく思い当たった。

昼過ぎ頃だったか、クレームというほどでもないが、態度が悪いと茂が客に怒られるということがあった。経緯は香苗も大体見てはいたが、それほどおかしな接客をしていたというわけではなかった。もちろん文句のつけどころもないとは言わないが、きつい言葉をかけられる筋合いのあるほどでもない。なにか気が立っていたのか、香苗が話を聞いても、理由があって怒ったというより怒るべき理由を探している様子だった。頻繁にというほどでもないが、ままあることだ。

「あんまり気にすることないよ」

香苗はそう軽く応えた。その客のテーブルから離れたあとこっそり茂に掛けたのと同じ言葉だったが、そのときと違って茂の表情は冴えなかった。楽天的に見えて、思ったより根は真面目なのかもしれない。

「あんな言い方されたらビックリするよね」

「それもなんですけど……やっぱり自分の接客も悪かったのかなって」

「そう?」

「それで怒らせちゃったわけですし」

「ははぁ」

香苗はちょっと思案した。

「なんで怒られたか、見当はつく?」

……言葉遣いが悪かったからですかね」

「そうかなぁ。他のお客さんは普通にしてたし、怒られるようなことはしてなかったと思うけど」

接客は難しい。お客様の笑顔のためにとは言うが、世の中には色々な人がいる。そのいずれをも客として接することになる。突き詰めて考えればある人にとって気持ちのいい応対がある人には気に障ることもあり得る。こちらのせいで不快にさせてしまうこともあれば、理不尽に怒られることもある。客のことを考えずに接客は成り立たない。けど本当に文字通り“あらゆる”お客様の満足をとなれば、際限なく相手の要求を聞き入れ続けることになるし、そして結局は失敗する。

「もし何かあって、『こうすればよかったな』って思ったんなら、そこは直した方がいいけど──それでおしまい。それ以上、気に病むことなんてないし、怒られたことなんて忘れちゃっていいよ」

「それでいいんですか?」

「うん。いい」

それで簡単に割り切れるかはわからないけど、ひとまず香苗はそう言い切った。

「あとは、よくわからない怒られ方したときは、毅然と謝る」

「きぜんと?」

「威圧的にって意味じゃなくて真摯にね。ピシッとした感じで。背筋を真っ直ぐ。ひとまずは不快にさせたことを率直に謝る。別に、謝るなら傷つかないといけない、なんてことないんだし。それで話を聞いてもダメそうなら上の者を呼んできますって言って、葉月マネージャとか土屋シェフを呼べばいいから。私でもいいよ」

「そういえば、代わりに謝ってくれたときの香苗さん、凛々しかったです」

真顔で言う茂に、香苗は困ったように微笑で返した。面と向かってこういうことを言われるのは面映いし、かといって『そんなことないよー』みたいなことを言うのも気が引ける。気負いすぎないで、気楽に考えてくれればいいんだけど。

「まぁ、あんまり難しく考えすぎないようにね」

伝わったのかどうか。茂は元気良く「はい!」と答えた。


12


まだ日が暮れ切るには早い夏の宵口は、早めに点いた街灯でむしろ薄暗さに気づく。並木通りは通りに面してお店が並んでいてちょっとした商店街の赴きだが、裏に入ると意外と民家が多い。車一台がやっと通れる一方通行を一人奥へと歩いて行くと、表通りの賑やかさは遠ざかり、飲食店のものとは違った、家庭的な夕餉の香りがどこかしらか流れてくる。

下宿の表門のところで香苗は、思いがけず茉莉まつりと鉢合わせた。くっきりしたメイクに明るく量の多い髪を波打たせ、胸元の広いカシュクールのワンピースに身を包んだ茉莉は、いつもならもっと早い時間に出ているはずだ。そういえば茉莉と顔を合わせるのも、なんだか久しぶりな気がした。

「これから出勤?」

「今日は同伴なくなったから。はー、直前にドタキャンとかマジないわ」

「相変わらず大変そうね」

「その分貰う物貰ってればいいけど」

「貰ってるでしょ」

「まぁね。でも約束すっぽかされたって売り上げ増えないから」

「そうなんだ? 今度いっぱい使ってくれたりするんじゃない? 後ろめたいんだから」

「ドタキャンするようなやつに限って図々しいんだ」

うんざりした様子で茉莉は横髪を掻き分けた。覗いた耳埵みみたぶを飾るイヤリングは、前に見たのとは違うものだった。派手目が好きな茉莉にしては小ぶりなもので、そういえばあんまり大きいのは「なんかケータイのストラップみたいで嫌」と言っていたのを思い出した。スマートフォンじゃなくて、折りたたむやつについてるあれ。「そっちは今帰り? まだあの店で働いてるんだ」

「うん」

「続くねー。もう結構長いんじゃない?」

「そうかもね」と言って香苗は考えてみたが、バイトの中では最古参だと気づいた。いつの間にか。

「千歳ってまだいるの?」

「いるもなにも店長だよ。肩書きはマネージャだけど」

「店長? 前原は?」

「オーナーは他の店のこともあるからね。こっちは千歳に任せてるみたい」

「ふーん」と茉莉は納得いかなさそうにイヤリングを指先で弄んだ。「そういうの任されるんだったら、香苗かなって思ってたけど」

「千歳は目端が利くから。気も利くし」

「それは香苗の方じゃない? 千歳には悪いけど」

「あとしっかりしてるし。私は好き勝手するだけだから。学校とかもいろいろあるし」

「便利使いされて大して時給も貰えてないでしょ。もったいないと思わない? うちで働けば今の十倍くらい稼げるよ」

「私のバイト代どれだけ低く見積もってるの」

「あたしの月収どれだけ低く見積もってるの?」

茉莉が挑戦的に笑い返す。香苗はちょっと考えた。

「時給三、四千円くらいだっけ? 六時間の月二十五日として──」二十五掛け四が百だから……「六十万。源泉徴収されて五十万くらい?」

「諸経費が引かれるから四十五万くらい。時給だけならね。指名とか売り上げが多いともっと増えるから。結果を出せば時給も上がるし、香苗なら全部でそのニ、三倍くらいは行けるんじゃない。どう? 十倍越えた?」

「越えた」

「はい決まり」

「何がよ。っていうか無理だと思う。私には」

「何が?」

「嫌な客にもニコニコしてなきゃいけないんでしょ?」

「そんなの飲食も一緒でしょ」

「そうかな」

そうは思えなかった。

もちろんどんな店にも迷惑な客が来ることはある。接客業である以上それは避けられない。ただ飲食店にとって、あくまでそれはイレギュラーな対応でしかない。何が嫌かは人それぞれだろうけど、少なくとも香苗は客が店で食事することを嫌と思ったことはない。

香苗はちょっと角度を変えてみることにした。

「仮に給料が同じだったら、どっちで働く?」

「そんなの楽な方に決まってるでしょ」

「そうだよね」香苗は困ったように笑った。「私は時給が低くても気ままな方がね。しんどいのはパス」

「そんなにあそこが好きなんだ」

「まーね。気楽だし」

「土屋とはまだ続いてるの?」

「え? うん、まぁ」

突然の話題に、香苗はちょっとたじろんだ。

土屋本晴もとはるとの関係は、別に隠してもいないが、言い触らしているわけでもない。そこに茉莉が踏み込んでくるとは思っていなかった。

「真剣に考えた方がいいよ。先のこと。正直、見込みないと思う。自由人のなりそこないみたいな男に合わせてテキトーぶってても、その間にどんどん歳は取っていく」

それだけ言うと「じゃ、あたしは仕事行くから」と茉莉は去って行った。ヒールの音が遠のいて、表通りの喧騒に紛れて消える。シビアな茉莉らしいきつい一言を残して。

気づけば街灯の明かりが際立つほどに辺りは暗くなりつつあった。


13


食堂には誰もいなかった。まだ遅い時間というわけでもないのに珍しい。菜摘も枝織も出かけているのか。無人の食卓には、ラップのかけられた小皿が置かれてあった。牛のタタキで、紙片に『つくってみた』と謎のイラストとともに書かれてあった。菜摘の字だ。

香苗は荷物を二階の自室に置いてから、顔を洗い、シャワーを浴びて、ラフなTシャツとショートパンツの部屋着に着替えて、再び食堂(じゃなくてダイニングだった)に戻った。共用の冷蔵庫を開けて、閉める。食卓の紙片に『サンキュ』と書いて、小皿を片手に食堂を出た。見送るように、冷蔵庫がヴーンと鳴った。

階段を昇り、自室に戻ると、小さな折りたたみ式のちゃぶ台に小皿を置いてから、部屋の隅にある冷蔵庫を開ける。共同の冷蔵庫とは別に、香苗は自分の部屋にも小さな冷蔵庫を置いていた。わざわざ取りに降りるのが面倒でもあるし、未成年者がいるのにお酒を入れておくのも気が引けるということもある。一本だけあった缶ビールを取り出すと、プルタブを引いた。隙間から炭酸ガスが音を立てて抜け出る。

そういやレポート書かなきゃな、と香苗はバッグや本棚から必要な資料を取り出してはみたが、止めた。窓を開けると、少し離れたところを通る車の音が流れ込んでくる。ついでに風も少し入ってきた。

このレポートを書いて、それからどうするんだろう。香苗は考えてみた。ゼミで卒業研究をして、卒業論文を書いて、卒業する。進学するつもりはない。生活費は自分でまかなっているとはいえ、学費は出してもらっているし、明確な目的があるわけでもないのに大学院にまでいくなんてそんな選択肢はない。

その点、茉莉は立派だな、と香苗は思った。ちゃんと自分で稼いで自分で生きてる。今の収入ならもうこんな古びた貸家普請に住み続ける必要もないだろうに。冷蔵庫を肉で一杯にしてくれたりもする。

進学しないなら、就職することになる。どこに。少なくとも、今バイトをしているHanna' Shallotではないだろう。社員を募集しているという話は聞かないし、千歳がいれば十分だ。茉莉はあんな風に言うが、素敵な店だし、きっとうまくやっていくだろう。

あとは──考えたことがないではない。本晴からプロポーズされて、結婚する。地元に帰って本晴が自分の店を持ち、香苗も一緒にその店を手伝う。茉莉のセリフではないが、これが一番見込みがなさそうだった。考えるだけアホらしい。

香苗はビールの缶に口をつけた。泡とともに苦味が舌や奥歯の裏側にまで入り込んでくる。

夜さり方の窓辺には薄手のカーテンがときおり思い出したように揺れている。頬に手をついてそれを眺めていると、細かな震動でちゃぶ台が鳴った。香苗は電話を取った。

画面の発信元には葉月千歳と表示されていた。

『あ。香苗? 今日はありがとう。問題なかった?』

「うん。なかった。茂くんも、いい感じにがんばってたよ」

『よかった。急にごめんね。無理させたんじゃない?』

「いやー、別に予定もなかったし」

窓からの風で、ちゃぶ台の上から紙がニ、三枚滑り落ちた。香苗は座ったまま、電話とは逆の手でそれを拾う。

「どうせ暇だったから」

『今度何か埋め合わせするね』

「いいよ」

『でも』

「あー、じゃあさ、お酒、買ってきてくれる?」

『え? ……今?』

「うん。帰ったら冷蔵庫に缶ビール一本しかなくてさ。ちなみにそれは今飲んでる」

『て、徹夜にならないならいいけど……

「日付が変わる前には帰してあげる」

『お店閉めてからになるけど、それでいい?』

「うん。待ってる」

『わかった。じゃあまた、後でね』

「うん」

電話を切って窓辺に座ると、二階からは通りを行く人が見下ろせた。並木通りを含む繁華街からは近いので、人通りは多いというほどではないにせよ、なくもない。ネオンサインとはいわないが、街の明かりも暗くはない。

店の閉店時間を考えると、千歳が来るにはまだまだ時間がかかる。それまでに飲み切ってしまわなければいいけど、と残り少ないビールの缶を傾けた。口に当ててはいるが、ほとんど中の液体が流れ出てこないくらい。せいぜい唇を湿らすくらいに少しずつ。

そうやってチビチビと味わうようにして飲んだほうがいいかとも思ったが、やっぱり構わず飲み干してしまった。なるようになれ。時間をかけて、ぬるくしてまで飲むことはない。どうせ千歳が買ってきてくれる。そのときまた一緒に飲めばいい。その方が、きっと美味しい。


to ep. 4