15
ユウマが組合の事務所を訪れると、エンジュは応接用のソファーに胡坐をかいていた。目を大きく開き、食い入るようにして本を読んでいる。表紙いっぱいに舌を出した犬の写真が印刷されてあるその雑誌は、『月刊 ワンちゃんのキモチ』という定期刊行誌の一冊らしい。
「珍しいね、エンジュが本を読んでるなんて。どうしたの、これ」
ユウマは低い応接テーブルに目を落とした。そこにもエンジュが手にしているのと同じ、大判の冊子が乱雑に重ねられてある。どれも陽気な顔の犬でいっぱいだ。
「押し付けられたんだよ。すぐそこに古本屋があるだろ。あそこのジジイが、知り合いが店を畳むって聞いたからって引き取ってきたらしくてよ、どうせこういう雑誌は売り物にならねえからって、全部置いてったんだ」
「売れない物をわざわざ引き取ってきたんだ」
「オレが犬の面倒見させられてるって、あの烏女が言い触らしてやがんだよ……」
「あぁ、そういうこと」
よく見ると事務所内には雑誌だけでなく、犬用のケージやトイレ、エサや飲み水を入れる容器、それにおもちゃのようなものまであった。さっそくエニスがガジガジかじっている。エンジュがわざわざ自分で用意したとは思えないので、商店街の人たちが持ち寄ってくれたのかもしれない。
「じゃあそれで、犬の飼い方を勉強してるんだ」
「そういうわけじゃない」
エンジュは不満そうに言った。まだ犬の世話をすることに納得がいっていないのだろうか。
「その割には随分真剣に読んでるみたいだったけど」
「別に真剣に読んだりしてなんかねーよ。ちょっと暇潰しに目を通してみてただけだ」
「そう言うんなら、そういうことでもいいけど……」
「そういうことでもいいってなんだよ! 本当にそうなんだ!」
「ごめんごめん。どんなことが書いてあるの?」
「犬のしつけ方」
そう言ってエンジュが少し顔を横に向けたので、ユウマもそちらを見る。さっきまで座っておもちゃを噛んでいたエニスが立ち上がり、トコトコと部屋の隅へと歩いていった。四角い枠の中にシートが敷かれた犬用トイレのところまで行くと、お座りをするようにお尻を下にしてブルブルと震える。
「ったくしょーがねーな。お前、さっきもしたばっかりだろ」
エニスがやりきってしまうと、エンジュは雑誌をテーブルに放って立ち上がった。尻尾を振って足元にじゃれついてくるエニスに、小さなおやつのようなものを一粒与える。それからシートの上の小さな丸っこい茶色の物体をトイレットペーパーで包んでトイレに捨てに行った。
「……十分いい子に見えるけど」
手を洗って戻ってきたエンジュは、不満そうに口を尖らせた。
「どこがだよ、おやつ目当てで小出しにしてやがんだ」
「だったらご褒美あげなきゃいいのに……」
「そんなことしてヘソ曲げたらどうすんだよ。部屋の中でウンコされたら、オレが掃除しないといけないんだぞ」
ユウマはつい、本当はご褒美をおねだりされると無視できないんでしょと言いそうになったが、さすがにそれは口にしなかった。
「でも、そんなことでへそを曲げたりするかな」
「するぞ」
「したの?」
「した」とエンジュは言ってから「ウンコじゃないぞ」と付け加えた。
「へそを曲げたってことだよね」とユウマも苦笑する。「何があったの?」
「別に大したことじゃねーよ」
そう不貞腐れた風にしながらエンジュが話してくれたことを整理すると、こういうことらしかった。
エンジュがエニスを散歩に連れていっていると、いつもは寺の裏あたりで昼間っから酒をかっくらっている“ゴロツキ”どもに出くわした。ゴロツキというのはエンジュの表現だが、ユウマはこれはきっと、人間社会に溶け込まずに暮らしている、エンジュと仲のいい妖怪たちのことだろうと思った。
その妖怪仲間たちは、エンジュが犬を連れて歩いているのを見かけると、大はしゃぎで近寄って来た。
「おい、それどうしたんだ。なんで犬なんて連れてんだ」
「酒の肴に持ってきたのか」
「んなわけあるか。犬を食うわけねーだろ」
エンジュが呆れて言うと、彼らは真顔で言った。
「食うだろ」
「この前食ったの、美味かったなァ」
「あーぁ、あの白くてモコモコしてたやつか」
「おいエニス、いいか、こいつらには絶対近づくなよ」
エンジュが脚の後ろにエニスを隠すと、妖怪たちはゲラゲラ笑った。
「食うんじゃないんなら、なんで犬なんか連れてんだ」
「なんでもなにも、散歩してるだけだっつうの」
「あー、それあれだろ。オレ知ってるぞ。ペットとかいうやつだろ」
「ペット? なんだァそりゃ?」
「ほら、人間がよく動物を飼ってるだろ。あれだよ、あれ」
「よくわかんねぇな。動物なんて飼ってどうするんだ」
「さぁな。人間ってのはよくわかんねぇことをするもんだからな」
「オレ知ってるぞ。芸とかさせるんだろ。猿回しとか、あぁいうやつだ」
「芸? 犬が芸なんてできんのか?」
「犬には無理だろォ。猿とは違って四つ足だ」
「仕込めばできるんじゃねえか」
「できるかもしれねぇけど、こいつには無理じゃねえかな。とてもじゃねえが、そんなことできそうな顔には見えねえよ」
「確かに、あんま利口そうには見えねぇな」
「あぁ、見るからにバカで頭悪そうなマヌケ面だ。あんま可愛かねぇなァ」
そうやって彼らはエニスを囲んで大笑いしたらしい。
ユウマはしかし、本当にそんなことを言われたのかちょっと不思議に思った。ユウマの感覚では、エニスはどちらかというと利発そうな顔立ちだし、けっして不細工でもない。だがエンジュは「そう言ったんだ」と頬を膨らませて主張するので、きっとそう言われたのだろう。
それでエンジュは少々腹を立てたらしい。別にエニスのことは好きでもなんでもないが、そこまでバカにされることもないと思ったのだそうだ。
「おうおう、手前ら。図に乗ってんじゃねえぞ。お前らも他人のことどうこう言える頭してねえだろうが。こいつの方が、お前らよりよっぽど賢えよ」
「こいつがぁ?」
「バカ言え。んなわけあるか」
「いくらなんでも、言っていいことと悪いことってのがあるぜ。こんな犬っころより頭悪いなんて言われちゃァ、黙ってらんねえ」
「こいつはなぁ、ちゃんとオレの言うことは聞くし、芸だってしっかり仕込んであるんだ。お前らみてぇな脳みそまで酒浸りのろくでなしと一緒にしてもらっちゃ、犬の方で迷惑ってもんだ」
「言いやがったな」
「そうまで言うなら、見せてみろよ。しっかり仕込んだその芸ってやつをよォ」
そこでエンジュは、エニスに空中でキャッチさせようと、持っていた布製の噛むおもちゃを放ってやった。
しかしエニスは座ったまま見向きもしなかった。おもちゃは虚しく、エニスの横にポトリと落ちた。
妖怪たちは腹を抱えて爆笑した。
「あいつら、『やっぱり頭悪いバカ犬じゃねえか』って大笑いしやがったんだ」
エンジュはよっぽど悔しかったのだろう。怒気強く、憎々しげに鬼歯を剥いていた。
「……でも、練習もなしに空中キャッチなんて、ちょっと難しすぎるんじゃ」
「違うんだって! できたの! 前はちゃんとキャッチしたの!」
「そうなの?」
「見てろよ。おいエニス、ほらこれ、ちゃんとキャッチするんだぞ」
エンジュはカシャカシャと音の鳴る小さなぬいぐるみを二三度振って勢いをつけると、エニスの方に放った。
エニスは首だけ横を向いて、そのおもちゃが床に落ちるのを見守った。
「……やっぱり無理だよ」
「ウソじゃないんだって! 本当にできたんだ! おいこら、エニス! テメェなんでキャッチしねえんだよ!」
「エンジュ、エンジュ、だめだよ怒鳴ったりしちゃ、怯えてるじゃないか」
「ふーッ、ふーッ」
「落ち着いて、落ち着いて。ステイ、ステイ」
「オレを犬扱いするな!」
「とにかく、そういう理由で、どうしたら犬に言うことを聞かせられるか勉強してたわけなんだね」
「……そういうこと」
エンジュは今の騒ぎで床に落ちた雑誌を拾うと、あらためて応接ソファに座り直した。ドカッと半分寝そべるように腰掛けて、大雑把に足を組む。
エンジュは再び『ワンちゃんのキモチ』を読み始めた。
ユウマは苦笑した。最初に紅葉がエニスを連れてきたとき、エンジュは相当嫌そうにしていたが、なんだかんだで仲良くやっているようだった。エンジュ自身は否定するだろうが面倒見はいい方だし、ちゃんと散歩に連れていったり、エニスがバカにされたことを怒ったり、一方でエニスもわざわざエンジュの足の下に入って寝そべっているところからすると、案外気が合うのかもしれない。
「で」
広げた雑誌越しに声がした。
「珍しいのはそっちもだろ。こんな時間にどうしたんだ」
エンジュは紙面に視線を落としままだった。ページをめくり紙の擦れる音がする。事務所の中は照明で明るいが、外は暗く、窓ガラスが鏡のように室内の風景を映していた。
「どうした? そんな深刻な話なのか?」
ユウマが中々答えなかったからか、エンジュは雑誌の向こうから半分顔を覗かせた。
「いや……うん。まぁ深刻といえば深刻かもしれないんだけど」
「なんだよ、まどろっこしいな。もったいぶってねえで、サクッと言えよ」
ユウマとしては、まだ少し悩んでいた。一旦はエンジュに相談しようと決めたからここまで来たのだが、やはり他人のプライバシーに関わることだと思うと、少しためらいがあった。正確に言えば、妖怪とは無関係な人間関係についてエンジュに相談するのは気が進まないところもあるというか。なんとなく、その相手──つまり陽毬を、異界に巻き込んでしまうような気がして。
しかしここまで口にしたからには、話してしまわないわけにはいかない。
「ちょっとトラブルがあって」
「だからそのトラブルってなんだよ」
「桜町陽毬さんのことなんだけど」
「あぁ、お前と付き合ってる例の女な」
「まだ付き合ってはないよ」
そう言ってふと、さっきの告白のことを思い出した。あの言葉がちゃんと届いていれば、今はエンジュが言う通りの関係だったのかもしれない。そう思うと返す返す残念だった。何より気が重いのは、いつかもう一度、あのときと同じくらいの勇気を振り絞らないといけないということだ。
「なんだ、恋愛相談か?」
「うーん……」
「悪ィけど、そういう話オレにされても、あんま力になってやれそうにないぞ」
「うん……あ、いや、恋愛話とかじゃないんだけど」
「うぜーーーーッ。じゃあなんだよ! いいからさっさと全部言えや」
「ご、ごめん……」
ユウマはエンジュの剣幕に観念して、陽毬に起こったことを話すことにした。
ユウマは順を追って説明した。数日前に幽霊を見かけ、狭間に止められたこと。その後、エンジュと聞き込みをした帰り、同じ幽霊を見かけたこと。陽毬とパン屋にいった帰りに、その幽霊に再び遭遇し、陽毬が憑りつかれてしまったらしいこと──。
「ふぅん……それで、桜町のやつが無事か心配だってことか」
長々と説明したのに、エンジュは一言で要約した。
「別に大丈夫なんじゃねえか? 本人も、ちょくちょくあることだって言ってたんだろ?」
「そうだけど、そんな日頃から幽霊に憑りつかれるなんてことあるのかな……?」
「よくある話だろ。神憑りとか狐憑きとか聞いたことないか? たとえば昔から巫女だとかそういう連中は、神を憑依させて自由に振舞わせることで神をもてなしたり、神託を受けたりしてきたんだ。そういうのって、桜町みたいな体質のやつがやってたんだろうな」
「えっ。じゃあ神様って本当にいるってこと?」
「それが神かは知らねえけど、昔の人間はそう思ってたんだろ」
「なるほど……」
「海の向こうにも悪魔憑きとか、何かに憑かれて人が変わったようになる話なんてのは、いくらでもあるみたいだしな」
「それは平気なのかな」
「さぁな、オレはこの手の話はあんま詳しくねえからな。どうしても心配なら、狭間のやつに見てもらったらいいんじゃねえか?」
「狭間さんに?」
「あいつならオレと違って霊感も強ェからな。よく地縛霊と縄張り争いなんかしてたりするみてえだし。憑りついた霊を叩き出すくらいのことは出来るかもしれねぇぜ」
「でも、さすがに桜町さんを狭間さんに会わせるのは……」
「ははっ、繊細そうだもんなあの女。あんな化け物面見たら、ビックリして卒倒しちゃうかもな」
「そういう意味じゃないんだけど」
「別に桜町を狭間と会わせるこたねえよ。なんか適当に理由つけて、あいつのいるところに連れてってさ。楽しくお喋りしてる間に、狭間のやつにこっそり診させりゃいいだろ。オレが頼んどいてやるよ」
「適当に理由をつけてって言われても……」
「なんだよ。ちょっとデートにでも誘えばいいだけじゃねえか」
「そう簡単に言うけどさ」
「簡単な話だろ。いつも仲良しこよしで学校に行ってんだ。休みの日にどっか遊びに誘うくらい何が難しいんだよ」
「そう言われると身も蓋もないね……まぁ何が難しいかっていったら、僕が臆病なのを乗り越えるのが難しいってことになるんだろうけど」
「お前はいっつも考えすぎなんだよ。いいじゃねえか、当たって砕けりゃ。あんま先のことばっか気にしてねえで、そのときの勢いでやっちまったほうがいいってこともあるだろ」
「理屈ではわかってるんだけど……」
「まぁ頭でっかちなのも悪いことばかりじゃねえけどよ、惚れた女のためなんだ、今回くらいはちっとばかし男見せようぜ。男を見せるってほどのことでもねえけど」
エンジュはカラカラと笑った。
そういうわけでユウマは陽毬をデートに誘うことを約束させられた。ユウマはエンジュのこの逞しさの千分の一でも分けて貰えればなとつくづく思った。