18
ユウマは事務所に帰ってエニスをケージに入らせると、また先程の染みのある塀のところへ戻ってきた。陽毬には、散歩の後どこか行かないかさりげなく誘われたが、断腸の思いで断った。もしかすると陽毬はそのつもりでめかし込んできたのかもしれないと思うと胸が痛かったし、ユウマ自身もっと陽毬と一緒にいたかった。しかしこんな胸騒ぎを抱えたまま楽しくデートをするなんてことは、ユウマにはとてもできそうになかった。
「あら、黒江くんも来たのね」
染みの場所には紅葉が来ていた。休日だが、いつも通りの黒いセーラー服だ。
「さっき犬の散歩をしてるときに見かけて……エンジュに呼ばれたんですか?」
「えぇ」
「この染みのことでですよね……これって、何なんですか?」
「それを調べに来たのよ」
紅葉の隣にはもう一人、小学生くらいの女の子が立っていた。
「この子は小枝、私たちの頼りになる仲間よ。小枝、この人は例の黒江くん」
「あぁ……あの」
眠そうな半目の少女は、表情を変えずに呟いた。『あの』ってなんだろう、ユウマはちょっと気になった。
「鈴生小枝です。よろしく」
少女はそう言って手を差し出してきた。
「あ、黒江夕間です、こちらこそ……よろしく」
ユウマは小枝の手を握った。少女らしく可愛らしい小さな手は、小枝の印象とは違って温かく、幼けない柔らかさがあった。
「この子はサトリなの」紅葉が言った。
「サトリ……?」
サトリという妖怪の話はユウマも聞いたことがあった。字を覚と書いて、人の心の声を聞き取るのだという。民間伝承にも、旅人の前に現れては、考えを言い当てて驚かせてみたり、害意を察して逃げていったりと、様々な逸話がある。
「それは違います」と小枝が言った。「それは、人間の分類でいうところの本覚りのことです。私は他人の心の声を聞いたりすることはできません」
ユウマは驚いた。小枝は確かに、ユウマが頭の中で考えていたことに返答していた。だけど、他人の心の声が聞こえるわけではないというのなら、どうしてそんなことができるのだろう。
「私の場合は、触った相手の心が読めるんです」
ユウマが目を丸くするのを見て、小枝は握手する手を離した。それから無感動そうな表情のまま、口元だけを少し和らげた。
「握手したとき、黒江さんが何を考えていたかは、内緒にしておいてさしあげます」
ユウマは慌てて、小枝と握手したとき何を考えていたか、思い出そうとした。出された手を自然と握り返しただけだったので、そのときに何を考えていたかなんて覚えていなかったが、なんだかバツが悪いというか、すごく弱みを握られてしまったような気がした。
「黒江くんがどんな恥ずかしいことを考えていたかは気になるところだけれど、そろそろ調査に取り掛かりましょうか」
紅葉に促されると、小枝は例の染みのついた塀の方へと歩み寄っていった。現場のすぐ脇では、エンジュが無口なまま険しい顔をして佇んでいた。
小枝が色の変わった壁面に手を当てる。まるで触診をするように、目を瞑って、掌に全神経を集中させているようだった。
「……どうよ」
エンジュがぶっきら棒に尋ねても、小枝は返事をしなかった。しばらくそのまま目を閉じて俯いた状態でいたが、次第に眉間に苦しげな皺が寄り、やがて表情を歪ませて、苦痛を耐えかねるように手を離した。
小枝は脂汗のようなものを額に浮かべ、深い海底から水面に戻ってきた直後のように、激しく息を継いだ。
「……狭間さんです」
小枝は息も絶え絶えに小さく呟いた。
「下手人は?」紅葉が端的に聞いた。
「……わかりません。恐怖と苦痛の印象が鮮烈で、相手の人相までは読み取れませんでした」
紅葉はそれを聞いて、残念そうに溜息をついた。
「今回は発見が早かったから色々とわかることも多いかもと期待していたのだけれど。結局、いつもと同じね」
「お、同じじゃありませんよ」
小枝は俯いたまま、体を小さく震わせていた。
「いつもと同じなんかじゃありません。こんなのは拷問……いえ、拷問でさえない、ただ無目的にいたぶって、嬲りものにして、苦痛と恐怖を与えて相手が泣き喚くのをただ悦んでるだけ……こんな、こんな……」
小枝は自分の肩を抱くようにして震えていた。先程までの無表情からは想像がつかないほどの恐怖に顔を引きつらせ、目に涙まで溜めている。
「それは、一連の事件とは別の手口ということかしら?」
「……いえ……それは同じだと思います」
「喉は、同じように抉られていた?」
「……はい」
俯いたまま力なく答えた小枝は、立っているのも辛そうに見えた。
「この子は、人の心というより、記憶を読むの」
心配そうにうろたえるユウマに、紅葉が説明してくれた。
小枝のような類のサトリは、心の声を聞き取るサトリとは違って、直接触れることでその対象に残された記憶を読み取る。さっきユウマの心を読んだようにみせたのも、正確にいえば触れた瞬間の記憶を読んだのらしい。記憶は普通、本人の肉体に刻まれていくものだが、その持ち主が強い印象を受けたとき、焼きつけられるようにして他の物質に転写されることがある。残留思念などとも呼ばれるそれを、小枝は生きた相手の記憶と同様に読み取ることができた。
「黒江くんも知っての通り、私たちは死んでも死体が残らないでしょ」
「そうらしいですね……」
「それでも、今までの被害者たちが同じ手口で殺されているということがわかっていたのは、小枝のこの能力のおかげなの」
人間やその他の動植物と違い祝福されざる存在である彼女たちは、死ぬと塵となって消えてしまう。そのために、何者かに殺されたとしても、証拠は残らない。まるで初めから何も存在していなかったかのように。
それでも今回の事件が同じ手口で繰り返されていることは、非物質的な証拠によって判明していた。急に失踪した仲間の行方を、最後に誰がどこで見かけたか、丹念に聞き込みを行う。そうして絞り込んだ失踪場所を隈なく捜索し、残留思念の残された〝現場〟を見つける。存在は残らなくても、記憶は残る。仲間たちの記憶の網に刻まれた足跡を辿り、死んだ当人の今際の際の記憶を小枝が拾い上げることで、彼女たちは無惨にも殺された仲間の仇を討とうとしていた。
しかしこの追跡調査はそう簡単なものではない。何より小枝の負担が大きかった。殺された仲間の残留思念を読み取る度に、小枝はその殺され方を追体験することになる。
狭間の殺され方は凄惨だった。身動きを取れなくされてから、敢えて殺さないように、少しずつ身体を切り刻まれていった。まるでどこまでやれば死ぬかという実験の被検体にされたように。どれだけ助けを願っても、誰も助けに来ない。そんな中、激しい苦痛と共に、自分の体が少しずつ刻み落とされていく。体内をグチャグチャに切り裂かれる。……それがいつまでも訪れない夜明けまで、何時間も、何時間も続く。
小枝は涙をこぼしながら、狭間の死に様を語って聞かせた。何か手掛かりになるかもしれないからではあるが、あまりに酷だった。小枝は、初めにユウマに挨拶をしたときのような、幼いながらも人を食ったような余裕はまるでなく、見た目相応の少女のように震えていた。
大きな音がした。三人は同時にその発生源を見た。背中を向けて話を聞いていたエンジュが、塀に拳を突き立てていた。
それを見て紅葉は少し眉をひそめた。無残に砕けた壁面の補修にかかる費用を計算したのかもしれない。
「紅葉、はっきり言え」エンジュは背を向けたまま聞いた。「オレのせいか?」
「論理的に言えば、そうとは断言できないわ」
紅葉は即答したが、エンジュは何も言わない。紅葉は言葉を接いだ。
「もちろん可能性だけなら、ギルドの連中が報復のためにあなたの親しい者を敢えて狙ったということは考えられるし、今まで以上に残忍な殺し方をしたことも説明がつく。でもそれはあくまで可能性よ。そうと決まったわけじゃない」
「他に、どんな可能性があるってんだ」
「南木の線だって、まだ無くなったわけじゃないわ。化け物をいたぶって悦ぶ嗜虐主義者なんて、あいつらの中にならいてもおかしくないでしょう」
「大暮っつったかな。どこに行けばあいつに会える? 知ってるだろ。教えてくれ」
「ダメよ」紅葉は少し狼狽していた。「今のあなたが行ったら絶対にとんでもないことになるでしょ。お願いだからこれ以上、事態をややこしくしないで」
「話を聞くだけだ」
「この間そう言ってどれだけの大騒ぎを起こしたと思っているの。絶対ダメよ。いくら頼まれても教えるつもりはないから。槐、あなたが怒るのは当然よ。私だって腸が煮えくり返っているわ。でも、感情任せに動いたって、状況は好転したりはしないの。だからしばらくは、事務所でエニスの面倒を見てなさい。いい? わかった? 絶対に、勝手な真似はしないでよ」