表紙 » 仮粧町通り商店街 異形種共同組合 ブッダマニアと消えない痕跡

20

崩れ落ちた教会を、紅葉は高い樹の大枝から見下ろしていた。

「な、な、なんてことしやがんだ!」

エンジュが叫んだ。さっきまで教会で死人に囲まれていたはずが、今は紅葉に抱えられてる。

「弁償のことなら平気よ。こんな時間にこんなところで、誰かに見られる心配はないわ」

「誰もそんなこと心配してねーよ!」

夜の山林を月明りだけが照らしている。建物が崩れた音も振動も、エンジュの叫び声も、風に揺れる樹々はすべて静かに飲み込んでしまう。

「あいつら、元は人間だったんだぞ! それをあんな生き埋めにしやがって!」

「元々土に埋まってたんだから同じことじゃない」

「バカ言うな! あんな瓦礫でめちゃくちゃにされたら、死体だってボロボロじゃねーか! 死んでまでそんな風になるなんて可哀そうだろ!」

「知らないわよ。悪いとしたら、全部あの大暮四門のせいよ。大体、私がこうやって〝神隠し〟で助けてあげなかったら、あなた、あのままやられていたでしょ。感謝されこそすれ、非難されるいわれはないわ」

「誰がやられるか! あのくらい一人でどうにかできたわ!」

「どうやって? 向こうはあなたのことを調べているわよ。だからああやって、死んでまで利用される、いかにも“可哀そう”な死体に襲わせたの。違う?」

二人の視線の先で瓦礫が動いた。崩落した教会の天井を腕で押し退けるようにして、鎧武者が姿を現す。その傍らには守られるようにして四門がいた。

「あの鎧武者だって相性最悪よ。あれはきっと、田尻甚四郎の死屍しかばねね」

「知ってるのか?」

「前に郷土誌で読んだことがあるわ。なんでも山に篭って鬼退治をしたっていう伝説の武士よ」

「それ、本当か?」エンジュは物悲しげに眉をひそめた。「なんてひでぇことをしやがる。罪もない鬼を殺すなんて」

……罪もない?」

「だってわざわざ山に行ったんだろ。山で静かに暮らしてる鬼を殺すなんてあんまりだ」

「それならあなたの敵ね。ちょっとは本気を出す気になった? 結局、あの侍にしても、他の可哀そうな死体たちにしても、大暮四門を倒さない限りは浮かばれないんだから。変に情けを掛けたりなんかしていると、狩られてしまうわよ」

「うるせーな、情けなんて掛けてねーよ」

「とにかく、向こうは準備万端で待ち受けているのだから、こちらもある程度は対策を──

そこまで言って、紅葉は言葉を途切れさせた。四門が武者に瓦礫の中から何かを引きずり出させている。それは黒い木の箱だった。地面に直立させると、長い五角形をした洋式の棺であることがはっきりとわかった。十字の彫られた蓋が落ちる。中には西洋甲冑の騎士が、胸の前で腕を交差させ、身幅が太く全長が身長を超えるほどの大剣を抱くようにして納められていた。

騎士は重い金属音を立てて一歩、二歩と棺から歩みでると、大剣を軽々と手にした。

「また厄介そうなもんを出してきやがったな」

……対策を立ててから挑みましょう。幸い、こちらは樹の上よ。簡単には手出しはできないでしょうから、どう戦うかしっかり打ち合わせて──

しかし紅葉の言葉はまたも最後までは発されなかった。四門が二体の死人に妙なことをさせていた。騎士は大剣を低く構え、その上に武者が足を掛ける。一体何をしているのかと紅葉が訝しがっていると、なんと騎士は大剣を振るい、武者を二人の方へと投擲してきた。

「うそでしょ!?

──ちっ」

二人はお互いを突き飛ばすと、反動で樹から飛び降りた。さっきまでいた大枝が斬られ、枝葉を撒き散らして落ちていく。

「紅葉、そいつは任せた! オレは本体を狙う!!

逆様に落ちていきながらエンジュが叫んだ。

「まったく──面倒はいつも私に押し付けるんだから」

そう呟くと、紅葉は翼を出した。夜空に広がった漆黒の羽根が銀色の月光を受けて細やかに光る。


エンジュは地面に落ちる寸前で身を翻すと、着地と同時に勢いよく駆けだした。真正面に眼光を飛ばし、脇目もふらず一直線に四門の方へと向かっていく。紅葉に言った通り、狙うは四門だけらしい。

しかしその後を武者が追いかけていた。太刀を下に構え、身を低くして猛烈に走ってくる。四門が伸ばした右手を引くと、それが更に加速する。

四門の術は、死者を蘇らせるだけでなく、指先から伸びる霊的な糸を繰ることで、死人を操り人形のように動かすことができた。その動きは、四門の操作によるために生前の技量は反映されなくなるが、代わりに人体の限界を超えることができる。たとえば最初にエンジュが武者を殴った後、思いがけない体勢から斬りかかられたように、人体の構造を無視した動きをさせることもできれば、今のように本来の走力以上の速さで走らせることもできる。

エンジュも人外の足の速さではあるが、武者はそれ以上の速度で大地を駆けた。距離が縮まる。低く構えた太刀を、チャキリと握り直す。エンジュの背を映した美しい刃文の刀身が、月光を跳ねて白く光る。後ろを振り向こうとすらしないエンジュに、鬼を殺すためだけに作られた妖刀が鋭く振り払われた。

その一閃めがけて、黒い影が天空から直下降してきた。激しい音を立てて、太刀が刃渡りの中ほどで折れる。切っ先が宙を舞う。その足元には、折り畳んだ扇子を手にした紅葉の姿があった。翼も髪も制服もタイツも靴もすべてが黒い。たおやかな手指と、冷酷なその美貌を除いて。

斜め前方に転がった武者は、すぐさま起き上がってエンジュを追おうとする。紅葉はその前に割り込むと、折れた太刀を黒い扇子で受け止めた。

武者が繰り返し浴びせかける一撃を、紅葉は舞うように弾き返す。既に四門は糸繰りによる完全操作を止め、武者に半自動セミオートで斬りかからせていた。従ってこれは、刀術に不案内な四門による力任せの素人刀法などではなく、武芸を修めた戦国の侍、田尻甚四郎本来の太刀筋であったが、紅葉はそれを巧みに防いでいく。静かな夜を夥しい金属音が切り裂く。

その光景を一瞥もせずに、エンジュは四門へと迫ってくる。

四門が左手を動かした。大剣の騎士が、使役者を守るように立ちはだかる。身長を超える大剣を軽々と構えるが、この豪腕は四門の術の力ではない。

四門は冷静だった。対鬼に有利な田尻が足止めされたのは見込み違いだが、まだルドヴィークが残っている。むしろ純粋な戦力でいえばこちらが最強の手札だ。欧州からこの国に渡るときにわざわざ持ち運んだこの死体は、生前、巨人やドラゴンとさえ戦ったという伝説の騎士だ。怪物を狩ることにかけては千軍万馬に勝る。

騎士は両手で掴んだ大剣を低く薙ぎ払った。右から左に高速で振るわれる剣閃を、全速で駆けてくるエンジュは避けようがない。唯一の例外が上空だが、それは罠だった。大剣を斬り返して、足場のない空中に飛んだところを狙うのが、この騎士の常套手段だった。

しかしエンジュは飛ぼうとはしなかった。それどころか剣を避けようとすらせず、ただ走りながら、一歩を強く踏み込んだ。そこを中心に地面が割れる。その亀裂は一瞬で周囲に広がり、大きな地割れを作った。

大地には地脈と呼ばれる自然エネルギーの経絡が張り巡らされている。そのエネルギーが過剰に集まる場所は龍穴と呼ばれ陰陽道では一種の聖地として祀り鎮められるが、もっと小さなエネルギーの淀みはどこにでも点在している。その極小さな針の一点は、いわば大地の破砕点であり、エンジュはそこを精確に踏み抜いたのだった。

割れる地面に足を取られ、騎士は体勢を崩した。体が上を向き、大剣は上方に薙ぎ払われる。その切っ先はエンジュの頭頂、ヘアバンドの結び目をわずかに掠め、虚空に強い風切り音を立てた。

エンジュはタックルするように騎士の脚を掴むと、走ってきた勢いを回転に変えた。ハンマー投げのように遠心力で速度をつけ、一回転で思いっきり投げ飛ばす。

「飛んでけェェ──────!!

ジャイアントスイングで投擲された騎士は、雑木林に突っ込むと、樹々をへし折りながら闇の奥深くへと消えていった。

これにはさしもの四門も目を剥いた。エンジュとの距離はたった数歩だ。あれだけ遠くに飛ばされてしまっては、騎士を呼び戻すのはとても間に合わない。四門を守るものはもはやなにもない。

「よぉ、久しぶりだな」エンジュは鬼気迫る様相で笑みを浮かべた。「どうやらこれが百年目ってとこだな。テメェみてぇなクズには、お灸を据えてやるくらいじゃ済まさねえぞ」

「お灸を据える?」

しかし四門にたじろぐ様子はなかった。

──思い上がりも甚だしい。お灸を据えるというのは、罰を与えるという意味でしょう。私情で私に害を加えようとしているだけの貴女が、それを罰などと称して、神の代理人にでもなったつもりですか」

「またごちゃごちゃうるせーこと言いはじめたな。悪いことをしたら怒られるのは社会の常識だろうが。人の尊厳踏みにじるような真似しておいて、なにしゃらくせえこと言ってんだ」

「人の尊厳? 私が人の尊厳を踏みにじっているというのなら、人間たちはどうなのです。密閉された暗い鶏舎の中で歩けなくなるまで太らされて出荷される若鶏ブロイラーの生命の尊厳を、人間たちは踏みにじっていないとでもいうのですか。捕食者が自分に対しては被捕食者の倫理を求めるなど欺瞞でしかありません」

「自分のやったことを矮小化してんじゃねーぞ。動物をわざと苦しめた挙句に高笑いしてるやつがいるっていうんなら、連れてきてみろよ。そいつもぶん殴ってやる。まぁその前にテメェだが──ところでよ、時間稼ぎは止めにしようぜ。涙ぐましい努力してるとこ悪ィけど、こういう口先だけの下らねえお喋りはどうも性に合わねえんだ」

エンジュの言う通り、四門は時間稼ぎをしていた。

「どうだ? あの騎士は戻ってこれそうか?」

四門は眉をひそめた。さっきから騎士を半自動の自律行動で戻ってこさせようとしているが、重い鎧が折れた樹木や藪に引っかかっているのか、なかなか姿を現さない。完全操作で引き戻せば雑木林から引っ張り出すことはできるだろうが、そんな露骨な動きをこの相手が見逃すとは思えなかった。死人の操作中は本体の隙が大きくなる。騎士を手元に引き寄せる前に間違いなくやられてしまう。

「悪あがきは止めて覚悟を決めろよ。テメェがやったことの報いはきっちり受けてもらう」

四門は指先から伸びる霊糸を切ると、伏せ気味の顔でクツクツと笑った。穏やかではあるが地獄の底から響いてくるような声だった。しばらくして、四門が顔を上げた。カッと見開かれた目の中心で、横長の四角い瞳孔が禍々しくエンジュを見据える。

「もうこれで勝ったつもりか? 図に乗るなよ小娘!!

四門は両手を広げると、エンジュに襲い掛かった。

エンジュも咄嗟に手を出す。お互いに両手を組み合い、手四つの状態で押し合いになる。

「力比べか? 上等だ! 他人に戦わせて後ろに引っ込んでるようなやつが、腕っぷしでオレに勝とうなんざ甘ェんだよ!!

エンジュは好戦的な笑みで啖呵を切ったが、すぐにその顔から余裕が消える。ねじ伏せるつもりで組んだのだろうが、ビクともしない。それどころかむしろ、どちらかというとエンジュの方が押されていた。

「死霊使いがひ弱だと誰が言ったァ──!! 切り札というものは、最後の最後まで取っておくものだ!」

そう叫ぶ四門の腕がムクムクと大きくなる。腕だけではない。肩も胸周りも体格そのものが一回りも二回りも大きく膨らみ、服が裂け、膨張した筋肉質な肉体には密度の濃い体毛が生えてくる。そして頭には大きく巻かれた角──西洋の悪魔が正体を現した。黒典礼サバトの黒山羊だ。

悪魔に限らず名の知れた種族は正体を隠していることが多い。現代社会では安定供給が難しい魔力を温存するという目的もあるが、高名種はそれだけ対策が知られているという事情もあった。鬼殺しの妖刀を差し向けられたエンジュがいい例で、正体が露見することは、戦闘をする上では不利に働く。

しかしもはや四門に他の選択肢はない。幸いにも人気のない山中だ。ここでこの鬼娘を殺し、もう一人の黒羽の女を取り逃がしさえしなければ、四門の正体を目撃した者は誰もいなくなる。

四門が力を込めると、エンジュの足元で大地が砕けた。先程の地割れのせいで、足場は不安定になっている。四門が体重をかけると、少しずつエンジュは体を押し込められていく。

四門は高らかに哄笑した。

「さっきまでの大口はどうした!? 自慢の腕力はこんなものかァ!! 東洋の外れで粋がっているオーガと大同小異の怪物ごときが舐めた口利きやがって! 相手の本性を見誤ったことを後悔するがいい──!!

血走った目。口が裂けるほどの笑み。四門は隠していた狂暴性を剥き出しにしてエンジュを罵った。握り締めた指先の鋭い爪は、エンジュの手の甲に刺さり、血が溢れ出ている。

四門はほとんどエンジュに覆いかぶさり、この身の程知らずな小鬼を組み伏せるのも時間の問題かと思えた。しかしエンジュがキッと顔を上げると、一瞬、その視線に射すくめられた。見開かれた鬼の目は、金色に輝いていた。

「言いやがったな。そこまで言うんなら、オレの本気を見せてやる──

四門の指が折れる。割り箸を折るようにバキバキと、指の一本一本があらぬ方を向く。

四門は苦悶の叫びを上げた。思わず上体を反らして逃れようとするが、怪力は指を離さない。それどころか更に手ごと握り潰そうとしてくる。

本性を隠していたのは四門だけではない。エンジュもまた鬼の本性を解き放とうとしていた。騎士に斬られて解けかけていた、頭頂部で結んだヘアバンドがハラリと落ちる。その下からは隠しても隠し切れない鬼の証が鋭く突き立っていた。

「本邦最強種を舐めんじゃねぇ────!!

エンジュは手を引っ張ると、そこに合わせて頭突きをかました。大地が唸る程の衝撃だ。反動で四門がひっくり返る。額は割れ、白目を剥き、口を開いて崩れ落ち、大の字に倒れ伏した。

決着はついた。四門の腕が震えて持ち上がろうとしたが、途中で力尽き、パタリと落ちた。


エンジュは四門を見下ろした。その瞳には普段とは似ても似つかぬ残虐な色が浮かんでいる。まだ生きている──殺せ、止めを刺せ。エンジュはゆっくりと手を上げ、それを四門の方へ伸ばしかけた。が、途中で動きを止めると、かわりに自分の頬をパンパンと叩いた。

「あっぶねー、つい本気出しちまったじゃねーか。殺しちゃったらどうすんだよ、この馬鹿力」

そう吐き捨てたエンジュの瞳は、いつもの鋭さに戻っていた。

……馬鹿力はそちらでしょう」

仰向けのまま、四門がか細い声で呟いた。

「意識があったのか」

……このくらいで気を失うほど……ヤワではありませんよ」

「西洋の大妖怪の面目躍如ってところだな。けど、さすがにしばらくは動けねえだろ。なにせオレの頭突きをモロにくらったんだからな」

エンジュは自慢げに笑ったが、四門は何も答えなかった。

「ったく、愛想のねーやつだな。ま、いいや。お前には聞きたいことがあるんだ。知ってること、洗いざらい喋ってもらおうか」

「例の……事件についてですか……。それは構いませんが、その時間があるでしょうかね……

「あん? そりゃいったいどういう意味だ」

「お話することはやぶさかではありませんが……その前に死んでしまっては話も聞けないでしょう……

「わけわかんねーこと言ってんじゃねえよ。そんなザマでまだ何か悪あがきでも──

そう言いかけたとき、エンジュの肩越しに太刀が突き付けられた。切っ先の折れた、鬼殺しの妖刀だ。それを手にしているのはもちろん鎧兜に身を包んだ武者──田尻甚四郎。

……紅葉はどうした」

「あの娘なら去りましたよ……こちらに近づく車に気づいて、〝対処〟しに行ったようです」

「ウソだろ」

エンジュは流石に驚いた。確かにこの騒動を人間に見られるのはマズイ。だからといって、戦闘中に敵を残して勝手に去るなんてあるか? しかし紅葉ならそうしてもおかしくない。個々の都合よりも組合の──ひいては妖怪全体の利益を優先することができる非情な女だ。

エンジュは奥歯を噛みしめた。敵は一体とはいえ、後ろを取られた状態は不利が過ぎる。いくらエンジュが本気を出すつもりがあったとしても、この武者ならその前に十分斬り殺せる。

……心配することはありません」

エンジュの焦り顔を見て、四門は愉快そうに笑った。

「この男の狙いは……私です」

四門の言葉を裏打ちするように、武者は太刀を高く構えた。その眼窩は虚ろだが、憎しみの炎が揺れているのが見て取れるようだった。

「それも当然です……なにせ四百年の恨みですからね……

かつて南蛮人と共にこの国に渡ってきた悪魔に魂を奪われて以来、成仏することもできず、現世という牢獄に閉じ込められ、道具として利用され続けてきた田尻は、その間にもはや人格は朽ち果て、怨霊に近い状態となり、残されたのはただ死霊使いの眷属たちに対する恨みだった。それでも操られているうちは術者の命ずるままに動くよりなかったが、霊糸が外れ、また四門の両の指がすべて破壊された今、その怨念がすべて最後の所有者である四門に向けられていた。

意に反して甦らされた死人たちの顔にエンジュが苦しみを見たように、死霊使いのわざはかくも死者を苦しめる。そのごうを揺らめく刀気のごとく纏わせて、折れた刃は月明りを背に鈍く輝いた。

積年の恨みがこめられた太刀が振り下ろされる。鮮血が散り、反った刀身を伝って滴る。雫がポタリポタリと落ち、四門の顔に赤い染みをつくる。しかしその熱い血潮は、冷血な悪魔のそれとは異なっていた。

折れた太刀を、エンジュが素手で掴んでいた。

「気持ちはわかる」

エンジュは骸骨の二つ空洞をジッと見た。

「恨むのは当然だし、アンタがこいつを殺したいってのももっともだ。けどよ──ここは譲ってくれねえか。どうしてもこいつに、聞かなきゃならねえことがあるんだ」

「無駄ですよ……」四門が口を挟んだ。「もうこの男に意志は残っていません……下手なことをすると、貴女まで殺されてしまいますよ……

エンジュは四門の横槍には耳を貸さず、田尻に瞳を据え続けた。手には刀身を握り込んだままだ。本来、刀は引くときに最もその切れ味を発揮する。しかし鬼殺しの妖刀は、ただ掴んだだけでエンジュの手に深く食い込んでいた。親指と人差し指の間の肉はパックリと裂け、とめどなく血が溢れている。もし田尻がこのまま太刀を引けば、手が斬れ落ちてしまうのは間違いない。

沈黙の時が続いた。声を上げるものはなにもない。風にそよぐ木々のざわめきさえ、今は息をひそめて見守っている。やがて、太刀の柄から、田尻は手を離した。そしてこうべを垂れた──かたじけないと、死霊使いの魔の手から解放してくれた少女に謝意を示すように。

その曲げられた背から、光のようなものが抜け出てきた。シルエットは人の形に似ていたが、無重力空間で水滴がそうなるように、丸い球の形にまとまった。それはゆっくりと浮かび上がっていく。霊感が強いわけではないエンジュにも、はっきりと見えた。

辺りは同じような光の玉で溢れていた。倒壊した教会の瓦礫の中から無数に、また雑木林からも一つ──いくつもの光の粒がキラキラと、光の帯を引いて、はるか上空へと向かっていく。それはやがて、余計な明かりなど一つもない山中を静かに照らす、空いっぱいの星座に紛れて、古より天に瞬く星々と見分けがつかなくなった。

地上に残されたのは、鎧兜に身を包み膝をついた白骨だけだ。

エンジュは顔を伏せると、困ったように微笑した。

「ばかやろう……鬼殺しに感謝されたって、うれしかねえよ」


…続く