表紙 » 仮粧町通り商店街 異形種共同組合 ブッダマニアと消えない痕跡

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柴木真子は逮捕された。

もちろん警察に化け物殺しの犯人として突き出すわけにはいかないので、容疑は物倉美晴の殺害と桜町陽毬の拉致になり、細かくいえば工場への不法侵入や銃刀法違反、それにエニスに対する器物損壊なども加わるだろう。犬を殺すと一番重い罪は器物損壊になるのだ。いずれにしても後は司直の手に委ねられることになる。

ユウマも参考人として警察で色々と事情を聞かれた。担当するのが紅葉と協力関係にあるという刑事だったので、それほど説明に困ることはなかったが、とにかく長々と質問詰めにされ、化け物殺しの件を抜きにして辻褄があうように証言を作らされたのは大変だった。疲れ切って警察署を出るとき、「もう何度か話を聞かせてもらうことがあるかもしれない」と言われて閉口するユウマを見た刑事の、慰めともいえないような皮肉な笑みが印象に残っている。

しかし事件はこれですべて解決したとは言えない。いくつかまだ不明瞭な点が残ったままになっていた。今日ユウマが仮粧町通り商店街にある異形種共同組合の事務所に来ていたのは、エンジュ、小枝と一緒に、紅葉からの説明を聞くためだった。


まず残された謎の一つは、どうして真子が南木の巫女の手法を用いて化け物狩りを行っていたのかということだ。これは真子を警察に引き渡す前に、小枝が読み取った内容から理由が明らかになった。

真子は趣味で古書や骨董品を集めていた。その中には、散逸した南木の古い文献や儀式のための道具が混じっていたらしい。真子は古書を通じて、古来から南木の一族が人に仇なす魔を討ち滅ぼしてきたことを知った。その記述は南木の史観に基づいて書かれたものであるため、当然、化け物たちは人間を騙し害を及ぼす悪しき存在として記されている。

不幸なことに真子の、美味しいパンを焼き上げるのに活躍するその優れた嗅覚は、化け物を嗅ぎ分けることさえできた。古書に記された化け物が現代にも生き残っていることに気づいた真子は、一種の使命感を持って化け物狩りを始めた。見様見真似で再現した咒符を携え、南木の巫女の手口を真似て。

「その説明には、あんまし納得いかねぇな」

エンジュは紅葉の解釈に不満があるようだった。

「オレを拉致ったとき、あいつは、愉しんでやってるようにしか見えなかったぜ」

「それは別に矛盾しないのではないかしら。こんな手の込んだこと、やりがいがなければ続けられないじゃない? 歪んだ使命感を満たすのは、さぞ心地よかったことでしょうね」

「それもあるかもしれねぇけど、なんかもっと違う気がするんだよな。なんつうか、ガキが虫の足をもいで悦んでるのに近いような──

「好奇心?」とユウマは口にして、前に真子が言っていたことを思い出した。

──我ながら、好奇心が強すぎるなぁとはよく思う。

他をないがしろにしてでも思いついたことを試さずにはいられない、デートを放り出して美味しいパンを生み出しもすれば、人類をここまで進歩させもした、三大欲求に勝るとも劣らない強い欲求。

「大量の文献を紐解いて南木の秘技を再現するほど読み込むくらいだから、好奇心や実験精神は強かったのでしょうね」

南木の古書には、かつて巫女たちが〝退治〟してきた妖の種類や特徴が事細かに記されていた。真子はその〝図鑑〟の記述を確かめ、自らの手でより完全なものにするために、知りたい、試したい、という気持ちを掻き立てられもしたのかもしれない。

「その欲求のために踏み付けにされる側は堪ったものではないけれど」

「しかもそれを悪いとも思ってないんだろ。人のなりして、マジでどっちが化け物だって話だよ」

「あら、そうかしら。人間なんてそんなものじゃない?」

不快そうに眉をひそめるエンジュに対して、紅葉はあっさりとしていた。

「欲望に任せて都合のいいもの以外を駆逐してきたからこそ、ここまで文明が発達したのでしょう? 自分たちの欲求に忠実でその影響を省みないという点では、根は同じじゃない。人間に節度を期待する方が間違っているのよ」

「お前、ユウマがいる前で、よくそんなこと言えるな」

「集団の傾向と個々人の特性を混同するのはよくないわ。一人一人を見れば、それは節度のある人間もいるわよ。そういう人は大抵、はみ出し者や変わり者だったりするのだけれど」

「オレはそうは思わねえな」エンジュは不満げだった。「普通のやつがそっちだろ」


残されたもう一つの謎は、物倉美晴がなぜ殺されたのかということだ。エンジュの話では、真子は美晴を化け物だと認識していた。しかし骨や遺体が消えてなくならなかったことからもわかる通り、美晴は化け物ではなかった。なぜ真子は美晴を人間ではなく化け物であると取り違えたのだろうか。

紅葉は美晴の身元を突き止めた後、警察だけではなく、美晴の出身地にある組合にも協力を依頼していた。その調査によると、美晴には幼い頃から人とは違うところがあったらしい。

それはたとえば浮世離れした性格や、傷を負ってもすぐに治ってしまう特異な体質であった。手首を切っても、頬を切っても、明くる日にはすっかり痕がなくなってしまっている。そんな奇妙な女の子を、危害を加えられてもやり返してこないのをいいことに、あえて傷つけて気晴らしにする女子もいた。クラスメイトは遠巻きにそれを見て、美晴に近づこうとはしなかった。いじめの証拠はすぐに消えてなくなった。

女手一つで美晴を育てていた母親も、美晴を気味悪がった。傷が残らないが故か、過度な躾けを受けていたような徴候もあった。しかし近所の住民が虐待を疑っても、その痕跡は次の日にはすっかり消えてなくなっていた。

このような経験は美晴の対人関係観に大きな影響を与えたと思われる。

そんな美晴にも居場所はあった。文字だけでやり取りをするインターネットの掲示板やSNSやオンラインゲームの世界では、誰も美晴を気味悪がらなかったし、そう思われる心配もなかった。決して他人が嫌いではない美晴は、ネット上のやり取りにのめり込んでいった。英語を覚えると、更に世界は広がった。自分の周囲の狭い社会ではとても生きていける希望のなかった美晴は、そこで初めて人生というものを実感したのかもしれない。

翻訳の仕事も、ネットで知り合った人間に紹介してもらった。大好きな児童文学を翻訳して暮らしていけるなんて夢みたい──遺留品の日記にはそう記されていた。

母親が亡くなったのを切欠に、見ず知らずの土地に移り住むことにした。仕事もプライベートも人付き合いはオンラインで済ませられるように、オフラインでの人間関係はできるだけ減らして、波風を立てず、静かに暮らそうと考えた。故郷から連れてきたのは、犬一匹だけだった。

この特異な体質によって、物倉美晴の事件は、警察官による検視の時点では行き倒れであろうと目され、後にあらためて殺人であると判明することになった。死体が見つかったとき、不格好ではあっても、外傷が表面上はほとんど治ってしまっていたからだ。生前幾度となく傷つけられてきた美晴は、法医解剖によって死して再び切り裂かれることになったが、それがなければ事件が発覚することもなかったかもしれない。

しかし、どうして美晴はそのような特異体質を生まれ持ったのか──紅葉はこれを、美晴の先祖には人ならざる者とのハーフがいたのだろうと推測した。特定の因子を保有していても、ある世代では潜在したままなのに、ある世代では発現することがある隔世遺伝のように、その祖先の血が美晴には強く顕れたのだろう。そのせいで、普通ではない体に生まれつき、また、柴木真子に化け物だとみなされて殺されることになった──

それでもユウマは、美晴の人生が不幸なものであったとは思いたくなかった。もちろんユウマには想像もつかないような辛いことが沢山あったはずだろう。だけど、美晴にも幸せはあったはずだし、その幸せを彼女の最後の言葉が肯定しているように思いたかった。


「それにしても寂しくなったわね」

話に区切りがつくと、紅葉はそう呟いて事務所の中を見渡した。

「いくらもう必要ないからといって、そんなにすぐ片付けてしまうことはないでしょう?」

紅葉が言っているのは、ペット用品のことだった。エニスのためのケージも、トイレスペースも、食事の容器も、エサや替えシートの袋も、おもちゃもリードも、なにもかもきれいさっぱり片付けられてしまっていた。すべては元に戻っただけなのに、やけに事務所が広々と感じられる。

「使わねぇもんをいつまでも出してたってしょうがねぇだろ」

エンジュはぶっきら棒に答えた。ことさら不愉快そうに、頬を膨らませてそっぽを向く。

「それにしたって、しばらくは残しておいてもいいじゃない。短い間だったとはいえ一緒に暮らした仲なんだから。思い出の品に故人を偲ぶくらいのことはしてもバチは当たらないと思うのだけれど」

「そんなしゃらくせえこと、する気はねぇよ」

「どうして?」紅葉は無垢な笑顔で首を傾げた。「あの子の遺品を目にすると、悲しくて泣いちゃうから?」

「誰が泣くか!」

エンジュは飛び跳ねんばかりの勢いで否定した。しかし紅葉はまともに受け取るつもりはないらしい。

「もう、そんなに強がらなくたっていいじゃない。大好きなエニスがいなくなってしまったのが、寂しくて仕方ないんでしょう」

「バカ言うな。これでようやく犬の世話なんかから解放されたって清々してるくらいだ。ったく、オレ一人に面倒押し付けやがってよ」

「またそんなことを言って。知ってるのよ。槐、あなた、エニスが死んだとき、涙をぼろぼろこぼして泣きじゃくったそうじゃない」

「はぁ!? 誰がそんなこと──」と言いかけて、そんなことを言うのは一人しかいないとすぐに思い当たったらしい。エンジュは目を怒らせて振り向いた。

「ユウマ、テメェまた余計なこと言いやがったな」

……いやぁ、でも、嘘をつくわけにはいかないっていうか」

「だったらその軽い口、二度と開けなくしてやろうか……!」

「なぁんだ」

ユウマが恐ろしい鬼の本性を剥きだしにするエンジュに迫られているというのに、紅葉はとても満足げな笑顔をしていた。

「やっぱり、泣いてたんじゃない」

「泣いてない!」

……でも事実として涙は流していたんでしょう?」

「そんなの、目から汗が出ただけだ!」

「またそんな使い古された言い訳を……エニスがいなくなって悲しくないの?」

「悲しくない。ぜんっぜん悲しくなんかない」

エンジュはフンと首を振って断言した。

そんな一同のやり取りを小枝はじっと黙って見守っていたが、何を思ったのか、相変わらずの無表情のまま、つかつかとエンジュの目の前に歩み寄ってきた。

無言で手を差し出す。

「な、なんだよ」

ちょっと気圧された様子でたじろぐエンジュを、小枝は半分閉じた目でじとっと見つめた。

「槐さん、私と握手しましょう」

「ヤダ」

エンジュが断ると、小枝は無理やり手を取ろうとした。パッと両手を上げてエンジュが避ける。小枝はそれを不満そうに見つめると、無言でエンジュの手を追った。更に避けるエンジュ。追う小枝。少し広くなった事務所の中で、二人の追いかけっこが始まった。

全身を刺されてまだ包帯も巻いているくせに、エンジュは怪我を感じさせない勢いで小枝から逃げ回った。ユウマは苦笑しながら、あのとき言われた『こんくらいツバでもつけときゃそのうち治る』というのは、あながち強がりではなかったのかもしれないと感心した。

「じゃあ、そろそろ僕は行きます」

忙しそうな二人はそっとしておいて、ユウマは紅葉に暇を告げることにした。

「あら、もう行くの? もう少しゆっくりしていけばいいのに」

「そうしたいのは山々なんですが、これから用事がありますから」

「彼女のお見舞い?」

紅葉はすべてお見通しらしい。

あの後、陽毬は入院していた。目立った外傷はなかったものの、助けだされたときには気を失っていたので、どこか悪いところがないか念のために検査するよう、病院に送られていた。

「それなら、これを持っていくといいわ」

そう言って紅葉は、花束を渡してくれた。

「お見舞いに行くのに手ぶらじゃなんでしょ」

「あ、ありがとうございます。……でもいいんですか?」

ユウマはこんな高価たかそうなものを貰うことへの遠慮を口にしたつもりだったが、紅葉は少し違った捉え方をしたようだった。

「いいのよ。今回は二人がいて助かったから、悔しいけど、今日のところは花を持たせておいてあげる。でもそのうち、私のことも素敵な花束でデートに誘ってちょうだいね」

そうやって紅葉に送り出され、ユウマは組合の事務所を後にした。

商店街を出て、明鹿橋通りを渡り、東側に折れる。真っ直ぐ病院に向かうなら大通りをそのまま歩いていけばいいが、ユウマはすこし寄り道をすることにした。

表通りと並行に走る裏手の路地は民家に挟まれ、片手が小さな井手になっている。塀に沿ってちぐはぐな意匠の街灯が疎らに連なっているが、日中なのでどれも静かに眠っている。人通りはなく、日差しは穏やかで、やわらかにそよぐ風が心地よい。

途中、ユウマは足を止めた。そこは、ある民家のクリーム色の塀の前だった。ユウマがわざわざこの道を通ったのは、ここに立ち寄るためだった。

事件が解決し、犯人が法によって裁かれたとしても、それは人間社会の中だけのことに過ぎない。物倉美晴とエニス以外の犠牲者は、裁判ではなかったものとして扱われ、新聞にその名が載ることすらない。だけど確かに彼らは存在していた。誰も知らなくても、自分だけはそのことを覚えておくべきだとユウマは思った。

しかしユウマがそこで目にした物は、そんな感傷を吹き飛ばしてしまった。ヒビの入った塀の脇にある街灯のすぐ足元に、野草や野花や綺麗に磨かれた丸石やカップ酒といったものが、いかにもにぎやかに、所せましと並べてあった。

きっと狭間の仲間たちが置いていったのだろう。

ここに綺麗にラッピングされた花束を丸ごと置くのは不釣り合いに思えて、ユウマは花を一輪だけ抜き取ると、そっとお供え物の端に並べた。

心の中で別れを告げて、陽毬の待つ病院へと向かう。

ようやく悲しみが物質として表出してきたことに、ユウマは少しだけ安心した。


<了>