いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ
ep.1 夏の始まり
1
いつも通り朝のまだ誰もいない校門をくぐるとき触れる鉄の門扉はひんやりと冷たい。七月の空気が熱を帯びはじめるには少し早い時間だった。
正門を抜けてすぐ、街灯のように細長く高く伸びた支柱の先に備えられた時計の針の位置は、七時を少し回っていた。ちょっと遅刻だな──弘樹は自然とそう考えたことに気づいて、なんとはなしに付け加えた──本当なら。
校舎へ向かう途中、体育館への渡り廊下を横切るとき、館内を横目に見ようとしたが扉は閉ざされていた。中で誰かが運動しているような気配は感じられない。朝練の必要がなくなってしばらく経つ。先輩たちが練習しているはずがなかった。だからもう遅刻でもなんでもなかった。
少し遠く、野球部の掛け声は校庭の方から聞こえてきていた。これから地区大会を戦う彼らには朝練の必要がまだあったしこれからもあるだろう。二年生の引退はあと一年先だし、どこの部だってそうだ。気合の入った声にときおり混ざる金属音を背に、弘樹は校舎へと向かっていった。
この時間はまだ校舎の中も人気がない。窓から差し込む朝日が誰にも邪魔をされず廊下に影を落とす。特進クラスや準特コースは課外授業を課されているが、理数コースとは別棟なのでまず見かけない。わざわざ朝早く登校しておいてサボるような生徒はいないらしかった。
だから弘樹が自分の教室に、人影を認めたのは意外だった。
昇降口から二階へ上がり、ふと教室を見たとき、窓越しに二人の生徒の姿が目に入った。教壇に腰掛けた男子生徒に、女子生徒が何か話しかけていた。一人には見覚えがあった。男子生徒が教壇から立ち上がる。きちんと閉まっていなかった教室の入り口からは「……ごめん」と聞こえてきた気がした。前後はよく聞き取れなかったが、聞こえてしまわないよう、弘樹はきびすを返すと、いま上ってきたばかりの階段を、再び降っていった。
2
昼休みになるといつもなら学食に向かうが、今日は茂が「金がない……」と力のない目で言うので、弘樹も購買でパンを買った。校庭と校舎の間には舗装路に沿って樹木が植わっている。いくつか置かれている白いベンチは他の生徒たちで埋まっていて座れるはずもない。茂が校舎の壁沿いの段差に腰掛け、弘樹も隣に続いた。
授業中ずっと寝ていた茂は、パンを袋から出すとにわかに生気を取り戻し、大きく開けた口に放りこんだ。もぐもぐとしばらく口を動かしているうちは幸せそうだった。
「もうなくなった」
まだ袋を開けたばかりの弘樹は少し肩を入れてパンを遮蔽した。
「もっと味わいなよ」
「そんなちびちび食ってると食った気にならんよ」
弘樹はパンを少しちぎって口に入れた。
「よく噛んで食べないと」
「そんなこと言われたの小学生以来」
「僕はつい最近も言った気がするんだけど……」
茂はくしゃくしゃに丸めたパンの袋をもう一度広げて、じっと見て、また丸めた。そんなことをしてもパンは増えないよ、とはさすがに弘樹も言わなかった。
「お昼代もらってないの?」
「もらってる」
「なんに使ったの」
「色々あるんよ」
弘樹のいぶかる様子を見て茂は付け加えた。
「違う違う。毎月、一か月分まとめてもらってて」
「無茶するね」
「だろ? オレもそう思うわ。わが親ながら、息子のことなんもわかってないんだからなぁ」
お昼代をなにかしらかに使い込んでしまったらしい茂は自分の非を棚にあげて親を非難した。こういう目に懲りてちゃんとお金を管理できるようになってほしいと思ってるんじゃないかなぁ、と言ったほうがいいのか弘樹は悩んだ。
「具合悪いの?」
「ううん、僕は大丈夫」
「そっか。今風邪ひいたらもったいないからな。夏休みなのに」
七月も中旬に差し掛かり夏休みももうすぐだった。期末試験から解放されたからか、長期休暇が目の前だからか、誰もどこか嬉しそうな顔をしているようだった。
夏休みか。弘樹は去年の夏休みを思った。練習に合宿にと部活漬けなのは変わらなかったが、中学のころと違った小所帯の部は居心地が良かった。入学からまだ半年も経っていなかったが、上級生との距離はなくなっていた。
「なぁ夏休みってなんか用事ある?」
茂の質問には答えないまま、弘樹はまたパンを小さくちぎって口にした。
「ないよな。もう部活も辞めたんだし」
「辞めたんじゃないんだけどね」
辞めたわけでは決してなかった。辞めるつもりはなかったし、三年生になって受験勉強を本格的にはじめるまでは続けられるものだと、当然のように考えていた。
「友達んちでやってる店で人手が足りないらしくってさ、一緒にやんない?」
「バイトってこと?」
「そう。知ってる? 三組の水森」
「他のクラスの人のことはあんまり」
「同中でさ」
「じゃあ僕とは別の中学ってことだから、ますます知らないよね」
「小学校も一緒」
「生まれた病院まで一緒とか言わないでよ」
「病室も一緒だし産婆さんまで一緒」
「うそでしょ」
「うそだよ。あんまり乗り気じゃない?」
弘樹は答えあぐねた。茂のじっと見る目からさりげなく視線を逸らすと、また袋の中のパンを少しちぎった。
乗り気かどうかでいえば乗り気なわけではない。かと言って断る理由もなかった。もう練習もないし合宿もない。だから別に夏休みにアルバイトをはじめたとしても何の問題ない。けれど何故か気乗りしなかった。どちらかというと困ったような気持ち。どうしてだろう。弘樹はそれを見て取られたような気がした。
「違うんだ。そんな浮ついた気持ちじゃないんだ」
弘樹は何も言っていないが、なぜか茂は弁解しはじめた。
「聞いてくれ。夏休みってさ、有意義なことをするべきだと思うんだ」
「う、うん……」
弘樹は耳を疑った。茂に似つかわしくない言葉ということでもあるが、それより、有意義という言葉を知ってたんだというのが正直な気持ちだった。
「来年はもう受験だろ。そしたらもう遊べるのは今年だけじゃん」
「バイトしてたら遊べないと思うけど」
「休みくらいあるよ。……あるよな?」
「僕に聞かれても……」
「あるとして、遊ぶのにもお金がいるでしょ。バイトする。金溜まる。夏、遊ぶ。とても有意義」
「遊ぶって、具体的になにするの?」
「そりゃもう、海に行ったり」
「誰と」
「オレとオマエ。君と僕」
「男二人で海?」
「わかってるよ。誘うよ。女の子」
「計画倒れになる予感しかしないよ」
「それはそれでいいじゃん。やるだけやって、だめならしょうがない」
なにがいいのかはわからないが、茂は自信あり気に笑った。
やるだけやって、ね。弘樹は、今年の県大会で、先輩たちがそう言っていたのを思い出した。試合が始まったらやるしかないのだから、それは正しかった。やるだけやろう。全力でぶつかって、それからのことはその後だ。コートの横でそう励ましあっている先輩たちを見ていた弘樹は、勝ってほしいと思った。勝てばもう一試合、もう一試合を勝てばまたそれだけ続けられる。
「そんなに心配しなくても、心当たりはあるからさ」
茂はそう言って立ち上がった。弘樹のパンもさすがにもう残ってはいなかった。
空になったパンの袋を丸め、教室に戻る道すがら、今朝のことを考えた。あれは弘樹の考えたようなことではなかったのだろうか。茂の態度を見るにあまりそうとは思えなかった。けど……よくわかんないからなぁ。弘樹が茂の顔を見ていると、気づいた茂は口角を上げて見せた。いい笑顔をしていた。よくわからないのはもちろん茂のことではなかったのだが、やっぱり茂のこともよくわからなかった。
3
普通科はいくつかのコースにわかれていてクラスごとに空気が違った。弘樹の四組は理数コースで男子が多数──正確には三十八対〇──だが、目当ての三組は英語コースだった。
放課後、茂と三組に向かった弘樹は、教室の入り口で少しためらいを感じた。よそのクラスに入る抵抗感はどこから生まれるのだろう。自分を内側と認めているわけではない集団に入り込む居心地の悪さではあるだろうけど、明確な敵意や排斥の気持ちを向けられているというわけではない。そういうことを気にしたこともないかのような茂に続いて弘樹が教室に入っていくと、三組の女子たちの視線がそれぞれのタイミングで立ち代りに向けられる。え? 入ってきちゃうの? 大丈夫? ほんの一瞬ずつの好奇の目。三組はほとんどが女子のはずだったが、教室には居づらいのか、ほとんどではなく、ちょうど四組と反対だった。三組の空気は植物的な香りがした。
教室の入り口から遠く離れ奥へと、窓際の席までやってきて、茂は立ち止まった。席の主は机に肘をついて窓の外を眺めていた。校庭では運動部が道具を運んだりと練習の準備をしていた。
「連れてきたんだけど」
茂がそう言うと、窓の外を見ていた女子は反射的に声のした方に顔を向けた。その一瞬だけは、無表情の鋭い目に口を結んでいたが、机の前に立った茂と弘樹に向き合うときにはもう、目を少し大きく開き、口元をほころばせていた。ぱっと明りが灯ったようだった。
「早かったね」
「こいつ、同じクラスの小林。これがさっき言ってた水森な」
「小林くん? ありがと、ごめんね、わざわざきてくれて」
ミナモリさん、ミナモリさん、弘樹は頭の中で繰り返した。人の名前を一回で覚えるのはあまり得意ではなかったが、聞き直す気まずさはもっと得意でなかった。
ようやく弘樹が水森さんを真っ直ぐ見ると、椅子に座っている水森さんは下から見上げて、上目遣いに弘樹を見ていた。ちょっと難しそうに眉をひそめて。その目と目があった。弘樹は気持ちとしては後ずさりしたが実際にはちょっとだけ視線を泳がせた。その先では水森さんの首元で結ばれた細いリボン紐が軽く揺れた。
「小林くんって……なんのバイトか聞いてる? こいつなんにも説明してないんじゃない?」
水森さんは「本人は説明したつもりかもしれないけど」と付け足して笑った。
「人聞き悪い。オレがそんなテキトーなことすると思う?」
「一応、飲食店ってことは聞いたけど」
「広崎駅あたりの並木通りってわかる? 『Hanna' Shallot』ってお店なんだけど」
「うーん……あんまりその辺行かないから」
弘樹は少し不安になった。名前がちょっとお洒落そう過ぎだった。そんなところでずぶの素人がいきなり働いても大丈夫なのかな。
「その感じだと、やっぱりどんなお店かも聞いてない?」
水森さんは茂を横目に見て、ほら言った通りといった風に、困ったようでいてどこか自慢げに笑った。茂は「話した話した」と言うが弘樹は自分の記憶力が不安になる。
「どんな店なの?」
「うーん。カフェみたいな感じだけど、お昼や夕はしっかりした食事も出すようなお店かな。来るのは若い人も多いけど、仕事中っぽい人とか、親子連れとかも結構いたり」
弘樹は想像してみようとしたけど、外食店にそう詳しいわけでもないし、いまいちうまく思い浮かべられなかった。
弘樹があまりピンときてないのを察したのか、水森さんは考えるように言してった。
「ね、折角だし、今から行ってみない? 口で説明するより、見たほうが早いよ」
「その……お店に?」
「うん。お客さんとして」
「おごり?」と聞いたのは弘樹ではなく茂だ。
「それは無理だけど、従業員割引はきく」
「まじかぁ」
十分な昼飯にも事欠く茂はため息をついた。
「貸して」
「その前にこの前の千円、返してよ」
「悪い。オレは無理だ……」
「大丈夫、お冷は出るから」
「行くのはいいけど」弘樹は一応言っておかねばと口を挟んだ。「まだどうするかちょっと悩んでて」
「そうなんだ。そうだよね。どんなお店か知らずに決められるはずないもんね」
水森さんは弘樹には笑みで応えた。
「だったらなおさら、実際に見てみたほうがいいよ」
「オレは知ってるからなぁ。どんな店か」
「山口くんが小林くん誘ったんでしょ。ついてこないと」
「そうか。しゃあない、じゃあお冷飲みにいくかぁ」
水森さんが弘樹を見て「いいよね?」と聞いた。いいよ、と答えるのも何か違う気がして、弘樹が「オッケー」と返したのは、考えてのことではなく反射的なものだったが、後からちょっと、オッケーってのもどうなんだ、と自分ながら思わないでもなかった。
4
それぞれ通学の仕方が違うので三人は最寄の広崎駅で待ち合わせた。駅の構内から出てすぐの駐輪場に向かう道を防いでいるポールの前で合流すると、並木通りに向かった。半日分の熱を含んだ道路と上空からの日差しに挟まれて、歩き出す前から汗がにじんでいた。風がなく熱が居座っているようだった。
オレは知ってると言うだけあって茂が先に立って歩いていった。上背のある分足が長く大股でなかなか歩くのが早い。後をついていく弘樹は少し早歩きになるが、それは水森さんも同じだった。水森さんは歩くのが得意な様子で同じ速さでも弘樹よりよほどゆったり歩いているように見えた。肩を越すくらいの髪もそよぐほどにしか揺れない。上体のバランスがいいのかな、と弘樹はつい考えた。
「こっちだっけ」と曲がり角で茂が聞く。
「もう一本先」と水森さんが答えると「そうだっけ」と言いつつ茂はまた先を歩いていく。
並木通りに植わった樹木は両脇の歩道だけでなく真ん中の車道も覆うほどに枝葉を伸ばしていた。夏の日差しを遮ってアスファルトに緑色の影を落としている。信号機よりもずっと背の高いこの木々の名を弘樹は知らなかったが、地面に落ちた葉は、滴のように太い付け根に膨らみを帯び先端に向けて細く抜けていて、輪郭はギザギザしていた。
「これってなんの木だろうね」
水森さんが弘樹と同じく道端に落ちた葉を見て呟いた。
「イチョウやモミジじゃないのは確かだと思う」
「それは間違いないね」
「クヌギ?」
「そうなの?」
「いや、思いついたのをただ言ってみただけ……」
「どっちも知らないから、まぐれで当てようもないね」
もしクヌギだったら、きっと夏にはカブトムシやクワガタムシが出没するはずで、そういうことは水森さんも見聞きした覚えがないそうなので、やはりクヌギではないようだった。
「小林くんってバイトはじめて?」
ちょうど向かいからきた自転車を避けるのに弘樹は少し歩みを遅めて半歩水森さんの方に寄った。水森さんもスカートに軽く手を添え四分の一歩ほど建物の方に身をずらした。自転車はレンガ敷き風の歩道にガタガタと車体を揺らされながら二人の横を通り過ぎて行った。
「うん、はじめて」
「それじゃあちょっとドキドキだね」
「水森さんも最初のときは緊張した? 家の手伝いならそうでもないのかな」
「ん? 家のじゃないよ。親戚ではあるけど」
「そうなんだ。じゃあ小さいころからずっと手伝っててとかじゃないんだ」
「全然。去年からかな。最初はやっぱりドキドキしてたかも」
「お皿割ったり?」
「初日に割った。コップだけどね」
「怒られた?」
「爆笑された。怒られるよりよっぽど傷つく」
水森さんは器用にも笑いながら腹を立てた。
「そういうベタなことは絶対にしないって思ってたのにやっちゃった。小林くんも気をつけて。初日からコップを割らないように」
「そう言われるとやっちゃいそうな気がする……」
実のところ弘樹はあまりドキドキはしていなかった。まだ決めたわけではないし、どちらかというと実感がない。実際に店を目にするまではそういう気持ちだった。
店は並木通り沿いにあった。歩道とを隔てるレンガ造りの植え込みには小さく硬そうな葉の密集した背の低い木が植えてあって、その向こうには壁面いっぱいに広がるガラス張りの大きな窓が道路側に向かって開けていた。窓際の席に座った客たちが何か話をしながら飲み物を飲んでいるのが見える。浅い三角の屋根をした平屋の建物で、入り口に「Hanna' Shallot」と筆記体の文字看板が掲げてあった。
「待って待って」と水森さんが小走りに駆けて、店の前を素通りしていった茂を呼び止めに行った。これだけうろ覚えなのに自信満々で歩いていけるのはすごい。水森さんの茶色いローファーがカッコッと音を立ててすぐ茂に追いつく。シャツを背中から引っ張られた茂はちょっとこけそうになって文句を言おうとしたが、店の場所を指差されると渋々戻ってきた。
5
店内に入ると、空調の効いた涼やかな空気に乗ってかすかに、料理の匂いや食器の音、客たちの喋る声が流れてきた。トマトソースの香りをカチャカチャと刻むナイフが皿に触れる音。広々とした客席では、何組かの客が食事をしたり会話を楽しんだりしているようだった。仕事の打ち合わせらしいスーツの社会人や、勉強をしている学生らしき姿もある。レストランというよりはカフェのようにも見えるが、卓上に並んだ料理からはカフェよりもしっかりした食事のできる店のようでもあった。
テーブルの横ではウェイトレスが手にしたピッチャーから水をグラスに注いでいた。軽く頭を下げて席から離れると、やがてウェイトレスは、店の入り口の方にやってきた。
「いらっしゃいませ」
目を細めて笑んだウェイトレスが華やいだ声で言った。
「どうしたの? 今日はシフト入ってないでしょ」
「うん。今日はお客さん」
水森さんが親しげに答えた。
「三人。窓際の席、いいですよね?」
「お好きな席へどうぞ。学校の友達?」
「ちょっと違うけど、少ししたらわかります」
水森さんは慣れた様子で店内を進んでいった。窓際には一組先客がいたが、そこから何席か離れたテーブルに案内された。卓上に置かれたメニューの光沢のある紙面が、窓から差す日の光を反射していた。水森さんが座った向かいに茂が腰を下ろし、弘樹もその隣に掛けた。
「あの人って、ここで働いてる人?」
席につくなり茂が聞いた。水森さんは、驚いたような困ったような目をして、少し笑いながら答えた。
「あたりまえでしょ。じゃなかったら、なんなの」
茂は「そうかぁ」とだけつぶやいた。
水森さんが広げたメニューを一緒に見ていると、さっきのウェイトレスが片手に丸いトレイを胸より少し低い位置に持ってやってきた。おしぼり、水の入ったグラス、食器類の入ったケースがテーブルに並べられていく。グラスを置くとき、前かがみになったウェイトレスの前髪が揺れ、髪の簾ごしに目が合った。ウェイトレスは微笑した。
「ご注文がお決まりになりましたら──」
「あ、お願いします。私、レモンティ、アイスで」
ウェイトレスは手元を見もせずに、エプロンのポケットから手のひら大の機器を取り出すと、「アイスレモンティですね」と復唱しながら、注文を受けた。
続いて、残る二人の注文を聞こうとウェイトレスが顔を茂と弘樹の方に向けたので、弘樹が注文を口にしようとすると、「オレ、ブレンドコーヒー」、と茂が言った。二人は思わず茂の顔を見た。茂は落ち着き払った様子で「ホットで」と付け加えた。
三人の注文を丁寧にもう一度繰り返すと、ウェイトレスは「少々お待ちください」と軽くお辞儀をしてテーブルを離れた。制服のフリルが控えめに揺れながら去っていった。
「水でいいんじゃなかったの」
水森さんが言うと、茂はウェイトレスの背中を追いかけていた視線を戻した。
「これから自分が働くかもしれない店の味を知っておくのも悪くないと思って」
水を飲もうとしていた弘樹は咳き込んだ。どんな冗談かと思って茂の顔を見ると真顔だった。
「山口くんて、コーヒーなんて飲んだっけ」
「いつもコーヒーだよ」
「……そうだったけ」
「いつまでも昔のままのオレだと思ってもらっちゃ困るよ」
茂は自信ありげにそう言ったが、この前、弘樹とラーメンを食べに行ったときは、メニューも確かめずにコーラを頼んでいた。コーラはどこにでもあるし一番うまい。そう力説していた。さすがにそれを蒸し返すのはよした。
「小林くんは、コーヒーっていうより、紅茶って感じだよね」
「そうかな」
「うん。アフタヌーンティーっていう感じがする」
どういう感じかはいまいち想像がつかなかった。
しばらくするとウェイトレスが飲み物を運んできた。弘樹と水森さんの前にアイスティが置かれる。水森さんのグラスにはスライスされたレモンが刺してあった。アイスティに浮かんだ氷にレモンの皮の黄色がかすかに映りこんでいる。茂の前にもほのかに湯気を立てたホットコーヒーが差し出された。紙袋に入ったストロー、銀色のスプーン、砂糖、シロップなどがテーブルに並べられ、「ごゆっくりどうぞ」とウェイトレスは席を離れた。その背を茂は目で追っていた。
「決めた。オレここでバイトする」
誰に言うともなく茂が言った。水森さんは苦笑した。
「コーヒーの味はどうなったの」
「通いやすいし、雰囲気もいいし、言うことないよな。店の人も優しそうだし」
茂は同意を求めたが、弘樹は曖昧に微笑んで、代わりに水森さんに質問した。
「接客の人って一人なの?」
「今みたいなお客さんの少ない時間帯は一人のことが多いかな。ディナーやランチタイムは、二人か三人くらい。曜日にもよるけど」
窓際の席からは店内がよく見渡せた。綺麗に配置されたテーブルの数に対して客はまばらで、まだあまり傾いていない午後の日が差し込む窓際に並んだテーブルのうち、弘樹たちが座っているのを除くと、一席しか埋まっていない。通路脇の二人がけの席に座った二人組と、壁際の四人席の会社員。その他の席は空いていた。この席がすべて埋まるほどにぎわう時間には、店員も二人三人と増えるのだろう。
「でも最初から一人ってことはないから。慣れるまでは、誰か先輩と一緒のシフトになると思う」
「ってことは、さっきの人と二人でってことも?」
茂が声を弾ませて言った。
「残念だけど、夏休みの間は入れないって言ってた。大学のゼミの合宿とかなんだかんだで忙しいんだって」
茂は「やっぱいいや……」と言って萎れた。
水森さんはいたずらっぽく笑った。
「あ、でも、七月中くらいは大丈夫って言ってたかも」
「それならチャンスあるよな」
「チャンスってなに。ないない、そんなの。ノーチャンス」
「いや、オレはわずかでもチャンスがあるなら諦めない」
「ノーの意味、わかってないんだ」
弘樹は指をうまく使って片手で紙の包みからストローを取り出すと、アイスティを飲んだ。唇と前の歯に支えられたプラスチックの管を茶色い冷たさがのぼってきて、口の中に渋みが広がる。酸味を残して紅茶が喉を通り過ぎていくと、ダージリンの香りがした。
アイスティを飲みながら、茂がなにか言って水森さんが困ったように笑い返すのを、弘樹は眺めていた。幼馴染というだけあって、手馴れたやりとりに見えた。中学生のころも、小学生のころも、何度もこういうやり取りをしたのだろう。
「小林くんは、他に聞きたいことない?」
茂の相手が面倒になったのか、水森さんは弘樹に聞いた。
「うーん……仕事ってどんなことするの?」
「色々あるけど、ほとんどはここで見てればわかるよ。お客様をご案内したり、注文を取ったり、料理を運んだり、お皿を下げたり、テーブルを綺麗にしたり、レジを打ったり」
「最初は皿洗いとかじゃないんだ」
「皿洗いはキッチンの仕事。他にちょっとした掃除とか、消耗品の補充とか……あと男の人は力があるから、バックヤードの仕事で呼ばれることもあるかも」
「倉庫整理ってこと?」
「整理は納入されたときにちゃんとするからないと思うけど、重いものを出したり、手の届かないところのものを取ってもらったりとか」
「それは弘樹を呼んでもムダっぽいな」
「そうなの?」
「まぁ、あまり背は高くないしね」
「腕力もないしな」
弘樹はことさら否定はしなかった。
「……残念だけど力仕事は茂に譲るよ」
「任せとけ。力仕事は得意だからな」
「力仕事なんてそんなにないんだけどね」
弘樹はそれを聞いてひそかに安心した。
「腕力より気がつくかの方が大事かな。注文したさそうなお客様がいたらオーダー受けにいったり、ちょっと汚れてるところがあったら綺麗にしたり。細かい親切心」
「それなら得意だな」
「ウソでしょ」
弘樹も思わず突っ込みそうになったが水森さんの方が早かった。
「いや、オレじゃなくて。弘樹はそういうの得意だろ」
「別に得意ではないけど」
「あぁ、小林くんなら、たしかに得意そう」
「かといってオレもけして苦手ではない」
「信じていいの?」
茂を指差して、水森さんが弘樹に聞いた。
「僕より水森さんの方が詳しいんじゃないかな」
「知らない間に何かあったのかなって」
「待てよ。水森。知ってるだろ。小学生のころオレがなんて呼ばれてたか」
「なんだっけ」
「気は優しくて力持ち」
「それって劇の役じゃん……こいつね、小学一年か二年くらいのとき、クラスの劇で先生が主役やりたい人って聞いたら、ハイッて手を挙げたんだけど、台本とかまったく無視で、出てくる人出てくる人襲い掛かって、お前が鬼かって感じで、仕方がないからクラスのみんなで、気は優しくて力持ち、気は優しくて力持ち、って言い聞かせ続けてたの」
「そうだったのか」
「そうだったのかじゃないでしょ」
弘樹にはその光景が目に浮かぶような気がした。
「それじゃ本番も大変だったんじゃない」
「え、それはまぁ……それなりにがんばってたよね?」
「そうだったか?」
「そうでした」
「オレの記憶じゃたしか」
「余計なこと言うな」
「いいじゃん。弘樹も気になるだろ?」
「え。うん、まぁ」
「本番じゃ鬼にやられちゃったんだよ。いつもみたいにふざけて、近くのやつ相手に暴れてたら、鬼がどしどしでてきて金棒ですこーんって」
「それじゃ鬼の方がヒーローだ」
弘樹は小さく笑いながら言った。
「爆笑からの拍手喝采だったな、くそッ」
「油断してたんだね。普段はみんな優しかったから」
「来るってわかってたら、負けなかったんだけどなァ」
「でも本番でそれをやるのは勇気あるね、鬼の役の人も」
「本当だよ。怒らせると怖いんだ」
茂がしみじみと言った。
ふと弘樹が水森さんに目をやると、眉を寄せて茂を見ていた。
「そ、そういえば僕、クラスで劇はやらなかったなぁ」
「お、露骨な話題変更」
わかってるなら言わないでおいてよ、と弘樹は思った。
「そういや弘樹、他の県なんだっけ」
「小五まではね」
「小林くんって県外の人なんだ?」
「うん。いや、ちょっとややこしくて。生まれはこっちなんだけど、生まれてすぐ引っ越して。また帰ってきたらしい」
「らしいって」茂が珍しく言葉尻を捕らえる。
「物心つく前の話だから」
「ふーん。結構違うもん?」
「どうかな。そう変わらないと思うけど……」
弘樹はあらためて考えてみたが、思いついたのは、給食の牛乳がガラス瓶ではなく紙パックなくらいだった。言葉も違うといえば違うけど、学校での生活や行事にさしたる違いを生むようなものではなかった。転校する度に『サウンド・オブ・ミュージック』を観る授業があって、小学校だけで三回も観ることになった。何年生で観るのかが違うのだろうか。『君をのせて』は合唱で二回歌った。修学旅行を何度も行くことはさすがになかった。
「そういえば二人は幼馴染なんだっけ」
「そう言えなくもないけど」
「そんないいもんじゃないよ」
息は合っていそうだった。
「幼馴染がいるのはちょっと羨ましいかな。何度も引っ越してると、仲良くなってもすぐ別々だから」
「あのな、そういうのはな、姉貴のいないやつの言うお姉ちゃん欲しいなぁと同じだよ」
「私、ゆかりさんみたいなお姉さんなら欲しいけどなぁ」
「お姉さんがいたんだ」
「ステキな人だよ。キレイでカッコよくて頭もよくて優しい」
「ズボラで傍若無人で頭は自分の私利私欲のためにしか使わない理不尽大王だぞ……」
「そうなんだ。今度ゆかりさんに確かめてみなきゃ」
「そんなことをしたら酷い目に合うぞ」
誰が、というのは聞くまでもなさそうだった。
茂は不満そうに目の前のカップを手に取った。コーヒーを口に含むと、突然にらめっこを始めたような顔をして、カップを受け皿に戻す。ガチャリと音を立てて中のコーヒーがこぼれそうになる。口からはこぼれていない。茂はテーブルに置いてあった砂糖をコーヒーに入れ、ミルクをコーヒーに入れ、シロップをまだ揺れるコーヒーへと注いだ。そのシロップは水森さんの紅茶についてきたものだった。
空調の効いた店内をほのかに巡る空気に乗って香草とにんにくの炒めた香りがするのに気づいて、弘樹が店内を見渡すと、ウェイトレスが丸いトレイに料理を乗せて運んでいた。ウェイトレスの上体はほとんど揺れず、料理は胸の高さに引かれたガイドを辿るように進んでいく。ウェイトレスが会社員の席までやってきて、声をかけたとき、電話の着信音らしきものが鳴った。会社員は卓上に広げた資料のようなものを脇に寄せ、ウェイトレスは皿をテーブルに並べた。電話の音は、店のレジの方から聞こえるようだった。立ち去ろうとするウェイトレスを会社員が呼び止めると、ウェイトレスは笑顔で注文を取る機器をエプロンから取り出した。
呼び出し音の鳴り続けるレジの方を見ていると、店の奥から、ウェイトレスの制服とは違う、ブラウスとスカート姿の女性が出てきた。ゆるやかに波うつ長い髪を手でかきあげ出した耳に、受話器を当てた。
「どう? コーヒーの味は」
水森さんの問いに、茂は渋い顔をして答えた。
「なかなかおいしい」
「好きになれそう?」
「もとから好きだから」と茂はまだしばらくはがんばっていたが「それ使わないならもらっていい?」と弘樹の方に身を傾けて、使わずにおいてあった未開封のシロップに手を伸ばした。弘樹は椅子の背もたれに体を押し付けて身を引いたが、茂の左腕がぶつかった。茂はシロップを取り損ねた。シロップは机から落ち、床に跳ね、転がった。
拾い上げたのは、さっき電話を受けていた女性だった。
「落とされましたよ」
シロップの容器を差し出した。弘樹に手渡して、めがねの奥で微笑んだ。紺の襟と袖の白いブラウスは皺一つないようで、かがんだり手を差し出した後も、きちんとひとりでに元に戻るかのようだった。
「いらっしゃい。めずらしい、お客さんとして来るなんて」
水森さんが「マネージャの葉月さん」と教えると、葉月さんはあらためて「邪魔してごめんなさい。くつろいでいってくださいね」と二人に笑んだ。
葉月さんが水森さんを見ると、長い髪がわずかに揺れた。
「水森さん、今日このあと時間あります? 今晩のシフトに入ってほしいんだけど……」
「いいですよ。どうかしたんですか」
「早瀬さんがどうしても来られないらしくって」
「早瀬さんって?」と茂が口を挟んだ。弘樹は思わず茂を見た。
「バイトの人、ここの」水森さんが手短に答えた。
「あ、なるほどね」と言って、茂は最後のシロップをコーヒーに入れた。もうコーヒーには見えない。
「何時からですか」
「六時なんだけど、お願いできる?」
「わかりました」と言いつつ水森さんは時計を見て「……二人ともゆっくりしてく? 暇つぶしに」
「なんでオマエの暇つぶしに」
「僕はいいけど」
弘樹は小さく笑った。六時まではまだ一時間半ほどあった。
「折角だし、見学してこうよ。水森さんの働いてるとこ」
そう口にしてみると、店の制服に身を包んだ水森さんがふと弘樹の頭をよぎった。さっきテーブルに案内してくれた店員と同じ、控えめなフリルとリボンのついたウェイトレスの服装に、みんなを歓迎するような笑顔で、料理を乗せたトレイを手にし、てきぱきと店内を動き回る姿。
「いいね、それ。そうするか」
「やっぱりいますぐ帰っていいよ」
現実の水森さんにつられて、想像の水森さんも嫌そうな顔をした。金棒まで出てきた。弘樹はバカなことを考えている自分に気づいてなんとなく居心地悪くアイスティーのグラスに手を伸ばした。
「けどさ、ほら、どういう仕事か参考までに見とかないとな」
「それならもう十分見てるでしょ、さっきから」
「もしかして文化祭で喫茶店でもするの?」
ひらめいた風に葉月さんが言った。
「それいいっすね。プロがいたら……あぁでも、水森、クラス、別だしな」
「プロじゃないんだけど。バイトなんですけど」と水森さんは茂を牽制しておいてから葉月さんに向かって「二人とももしかするとここで働くかもしれないんです」
「そうだったの」
めがね越しの葉月さんの目が意外そうに広がった。
「まだ迷ってるそうで、ひとまずお店を見てみようかって」
「見てみて、どうでした?」
「最高ッすね。こんなステキな店でオレも働いてみたいっす」
弘樹は少しむせそうになったのをごまかした。水森さんは思うところありそうな口元だけの笑みで静観していた。
葉月さんは嬉しそうに礼を言うと「それだったら」と茂と弘樹に交互に目をやった。
「折角ですし、今日、面接だけでもしていきませんか?」
「面接があるんすか」
「はい」
葉月さんはにっこりと茂に答えた。
「店としても一緒に働くかもしれない人のことは知っておきたいですし、働きはじめる前に店の人間に聞いておきたいこともあるでしょう」
葉月さんの説明に茂は「たしかに」とあいずちをうった。
「今日すませておけば、また日を改めて来てもらわなくてすみますし」
「あ、そうか。また来るのは面倒っすね」
「面倒って」
水森さんは何か言いたげだったがやっぱり止めたようだった。
「どうします?」
「そうっすね……」と少し考えるのかと思いきや茂は「じゃあ、お願いします」と簡単に答えた。
弘樹はちょっと困ったなと思った。なにがと言われると難しいが、少し気が重かった。こういう風に話が進むとは思っていなかったということもあるし、「どうしてここで働いてみようと思ったんですか」とか聞かれても答えようがないというようなこともあるけど、そういうこととは別のためらいでもあった。
答えかねていると、葉月さんが見ているのに気づいた。目が合ってしまうと、葉月さんは微笑んだ。
「話をしてみて、実際に働くかどうかは、あとで決めていいんですよ。二人は、水森さんと同学年?」
水森さんがうなずく。
「なら志望校によっては、勉強と両立できそうかということもあるだろうし……」
「え。まだ二年の夏っすよ」
「来年の冬、涙目になってるのが目に浮かぶ」
混ぜっ返そうとする茂を水森さんが茶化した。
難関大を目指すような人なら二年の夏でももう本格的に対策を始めているということもあるかもしれない。弘樹はもともと三年まで部活を続けるつもりだった。まだ志望校どころか受験勉強のことも深く考えていなかった。茂はもちろん、多分、水森さんも。学校でもそういう雰囲気になるのはまだ先のことのように思われた。
葉月さんもそれはわかっているだろうと弘樹は思った。
「あの、面接、お願いします」
弘樹が告げると、葉月さんは喜ばしげにうなずいた。
準備をしてくるからと、葉月さんはテーブルを離れていった。残された三人は、なんとなく言葉なく、それぞれ座りなおしてみたり、コーヒーだったものに口をつけようとしてやめたりした。
いつの間にか店内には新たな客が入っていた。二人がけの席に壮年の女性とおばあさんが向かい合って座っていた。仲が良さそうになにかを喋っているようだが、母娘には見えない感じがする。
不意に「よかったの?」と水森さんが聞いた。弘樹は笑みをつくった。
「うん。僕も興味はあったし」
「ホント? 嫌がってるのを無理やり連れてきちゃったんじゃないかって、心配してたんだ」
「オレは嫌がってるのを無理やり連れてこられたんだった気がする」
「でも、来てよかったでしょ」
悪びれもせず言う水森さんに、茂は同意したいけどしたくないといった悩ましげな様子で首をかしげた。弘樹は困ったように笑った。
6
葉月さんに案内されて、弘樹は面接が行われる部屋へと向かった。客席から店の奥に入り、調理場からできた料理を受け取るウェイトレスを横目に、こじんまりとした部屋に通された。事務用の机や棚が置かれてあり、なにかの資料なのかたくさんの紙類がきちんと整頓されてある。
「あの」と弘樹は気になって葉月さんに声をかけた。「そういえば履歴書とか何も持ってきてないんですが」
突然のことなので持ってくるもなにもないが、そういうものが要るのではないかと弘樹は思った。
「大丈夫ですよ」葉月さんは笑顔を浮かべた。
「働いてもらうことになったら、いろいろと手続きのために持ってきてもらうものがあるから、そのときに一緒にお願いします」
そういうものなのか。やはり必要なことは必要なようだが後でもいいのか。弘樹はわかったようなわからないような感じがした。
「そこに座っていてください。オーナーを呼んできますから」
そう言い残して、葉月さんは奥の扉から出て行った。
弘樹は椅子に腰掛けて、面接って葉月さんがするんじゃないんだ……と思った。弘樹が先に面接に挑むことになったのは、たまたま通路側に座っていたからだった。奥の席に座っておけばよかったな、とも思った。後でも先でも結局は変わらないけど。
弘樹は所在なく部屋を見渡した。背中側の入り口と葉月さんの出て行った奥側の扉の間に机が置かれていて、向かいの椅子のすぐ後ろ、壁際には閉じたままのダンボールが小積んであった。その脇の、奥側の扉の横の壁には、小さな厚紙に紙を貼って紐を通したような、なにかの表らしきものが掛けられてある。事務机には両側に三脚ずつ椅子が備えてあり、弘樹はその一番手前に座っていた。机の上には三角形のカレンダーが立ててあった。
飲食店に食事にくることはあっても、奥まで入って見ることはない。こういう店の内側を目にするのは初めてだった。何の部屋なのか弘樹は不思議に思った。どちらかというと雑多なこの部屋で葉月さんが事務作業をする姿を思い浮かべるのは難しい。
背中の方からは、かすかに客席のにぎわいが聞こえてきていた。
扉の開く音がした。部屋の奥側から、暗い色合いのスーツ姿の男が入ってきた。弘樹があわてて立ち上がると、男は「オーナーの前原です。よろしく」と言いながら右手を差し出した。弘樹も咄嗟に名前を告げながら右手を出した。弘樹のより一回り以上大きな手だった。弘樹の方が体温が低いのか温い感触が移ってくる。そういえば、と弘樹は思った。部活の練習や試合とかで以外、握手するなんて初めてかもしれない。同じ年頃の手の平よりも肉厚で、去年まで顧問だった古河先生もこんな手をしていたのを思い出した。先生の手はしかしもっと硬かった。
オーナーは自分の座る椅子を引きながら「どうぞ掛けて」と言った。一緒に戻ってきた葉月さんも、オーナーの隣に座った。弘樹は元の椅子に再び腰を下ろした。
葉月さんは和やかな表情をしていたが、オーナーはとくにそういう顔ではなかった。
オーナーはやや前かがみに、机に両腕を乗せて質問を始めた。
「アルバイト志望ということだけど、明里の友達なんだって?」
微妙に違ったが、弘樹はあいまいにうなずいた。アカリっていうんだ、と思った。そういえば親戚の店だって言っていた。この人がその親戚か。
「アルバイトは初めて?」
「はい」
「そりゃいい。どうしてアルバイトをしてみようと?」
弘樹は一瞬それなりの答えを選んだほうがいいだろうかと思ったが、そのままを言った。
「友達に誘われて」
「うん」
「それでです」
オーナーは今度はあいずちをうたず、少し間を置いてから口を開いた。
「友達に誘われたからってなんでもするわけじゃないだろ。誘われて、どうしてやってみようかなって気になった?」
弘樹は困った。やってみようかなという気にまだなっていないということもあるが、そこを置いておいても、どうしてかははっきりしていなかった。
「別に、遊ぶ金が欲しいとか、そういうことでも構わないんだが」
「いえ、そういうわけでは……」
「飲食店とか接客とかに興味があったり?」
昨日までは考えたこともなかったが、興味ないと言うのは失礼過ぎるかと思い、まったくの嘘というわけではないしと、弘樹はあいまいにうなずいた。
「募集してるのはフロアで接客をするスタッフなんだが、そこは間違いない?」
「はい……」
「どうも少し緊張してるようだ」
オーナーは前かがみになっていた体を起こしてまっすぐに座りなおした。
「ちょっと笑顔が足りないんじゃないか?」オーナーはそう言うと葉月さんを横目に見て「マネージャ、何かおもしろいこと言ってくれ」
「パワハラは止めてください」
葉月さんは表情を変えずに言った。
「ただおもしろいことを言ってくれと頼むことのなにがパワハラなんだ」
「じゃあオーナーが言ってください。おもしろいこと。はい、3、2、1……」
「笑顔のことは忘れよう」
オーナーは居住まいを正した。
笑っていいのか弘樹は困った。
「家はどの辺?」
弘樹が自宅の住所の町名を告げると、オーナーは地名を聞いただけで「結構近いな」と言った。
「働くことになったら、週どれくらい出たい?」
「え、っと。まだよく考えてませんでした」
「部活とかはやってる?」
「いえ、今は……」
オーナーは一瞬黙って少し眉を動かしたが、何事もなかったように言葉を継いだ。
「じゃあ時間は結構ありそうだ」
いえ、と言うわけにもいかず、弘樹は「はい」と答えた。実際時間は結構あった。
「なんだか私ばかり喋っている気がするな」
オーナーはそう言うと、再び葉月さんに目をやった。
「葉月マネージャからも聞くことはないか?」
「そうですね、そのネクタイはどうされたんですか。普段つけない色ですね」
「私に聞いてどうする」
「冗談です」
「絵美にもらったんだ」
そう言ってオーナーは深いエンジのネクタイを締めなおした。よく見ると銀の刺繍で小さく動物の絵柄が入っているようだった。
弘樹はさすがに茂のように「絵美って?」とは聞かなかった。聞かなかったがオーナーは「絵美というのは私の姪だ」と説明した。
「もし働いてもらうことになったら」と葉月さんはネクタイの話題から離れた。
「店としてはできるだけ長く続けてほしいと思っています。仕事に慣れるのにも少し時間がかかりますから」
「長くというのは……?」弘樹はおそるおそる聞いた。
「できるだけ長いほうが助かりますが、短くても半年から一年ほどは続けてほしいと思っています」
今から半年だと来年にまでまたがる。
「ですから、よく考えて決めてくださいね」
「……はい」と弘樹は答えたものの、戸惑っていた。最初に茂と話していたときの感じでは、夏休みの間のアルバイトだと思っていた。
「小林君」とオーナーが弘樹の名を呼んだ。
「何か私に今聞いておきたいことはあるかな?」
オーナーはそう言って腕を組んだ。
弘樹は何も聞かないのも失礼かと思い少し考えたが、何も思いつかず「いえ、大丈夫です」とだけ答えた。
「そうか。それなら、あとは事務的な話だけだから、葉月マネージャから聞いておいてください」
オーナーは葉月さんに「じゃ、あとよろしく」と言って、席を立った。
「まだ帰らないでくださいね。もう一人いますから」
葉月さんの声を背に、オーナーは部屋から出て行った。扉が閉まると、少し間をおいて、「お疲れさまでした」と葉月さんが言った。
弘樹にはなんだかあっという間のできごとだったように思えた。
「えっと……終わりですか?」
「面接は、そうです。あと少し、勤務の条件について、説明させてください」
弘樹はその面接にほとんど手応えらしきものを感じていなかったが、色々と説明があるということは、合格ということだろうか。
「驚いたでしょう」と葉月さんが笑顔で言った。「なんというか、勢いのある人だから」
弘樹は同調していいのか迷った。
「あの、合格ということでいいんでしょうか」
「もちろんです。小林くんさえ良ければ」
葉月さんは力強く肯定した。
「あんまりそういう感じには思えなかったんですが……」
弘樹には気がかりなことがあった。それはオーナーが、そして多分葉月さんも、弘樹を水森さんの友達だと思っていることだった。水森さんの友達だからという理由で本来とは違う結果になったのなら、申し訳ないような気がした。
「あぁ、オーナーのことなら心配しないで。ダメだと思ったことは率直に言う人だから……すぐ終わったのは、むしろ印象が好かったんでしょう」
弘樹はそう言われてもあまり納得感が湧かず「はぁ」と気の抜けたような返事をした。
7
それから弘樹は、時給や各種の手当や保険などの雇用条件、履歴書や給与振込み用の銀行口座など事務的に必要なものの説明を受け、客席に戻った。
茂と水森さんは何やら楽しげに話をしていた。弘樹が戻ってきたのに気づくと、「どうだった?」と茂が聞いてきた。
「想像してたのとは大分違った」
「マジか。圧迫面接ってやつ?」
「そんなことするわけないでしょ……」と水森さんが呆れたように言ったが、圧迫ではないけど圧倒はされたなと弘樹は思った。
「まぁ、行ってみればわかるよ。すぐ来てって」
「よっしゃ。いっちょ当たって砕けてきますか」
「砕けちゃだめでしょ」
茂が席を立つのと入れ替わりに弘樹は椅子にかけた。向かいのシートの真ん中に座っている水森さんとは、斜向かいになった。
さっきまでは茂と二人掛けだったのでよかったものの、一人で通路側に寄って座っていると、どこか変な感じがした。かといって、真ん中に座り直すのも何となく気が引けて、結局そのままでいた。
「想像してたのと大分違った?」
弘樹の方へと顔を向けて水森さんが言った。
「うん」と言いつつ、弘樹は言葉を選んだ。
「マネージャさんが面接するのかと思ってたから」
「あー。オーナー来てるんだ、今日」
「いないこともあるの?」
「いないことの方が多いかな。他にもお店やってるから、最近はそっちばっかり。ちょっと変わった人だったでしょ」
「うん」と言っていいか困って、弘樹は曖昧に笑った。
「勢いはすごいけど、いい人そう。緊張解そうとしてくれたり」
「え。あの人が? どんなことしたの」
どんなことと言われると難しいなと弘樹は思った。面白かったことは覚えてはいるけど、それをうまく説明できる気がしなかった。
「突然マネージャさんに面白いこと言ってって無茶振りして」
「うん」
「自分で言ってくださいってやり返されて、そうしたら何事もなかったように面接に戻った」
「マネージャ、強いからなぁ」
そう言って水森さんは笑った。
それで話が途切れると、しばらくは無言の時間が続いた。さっきまでは茂がいたから、何の心配もなかったが、二人きりだと話題を見つけるのが大変だった。
何か共通の話題はないかなと思うとむしろ思いつかない。なくはないけど──弘樹は今朝のことを思い出していた。朝早い教室で、二人は何を話していたんだろう──それをこの状況で話題にするのはさすがに躊躇われた。
「ねぇ、小林くんって、フットサル部なんだよね」
水森さんが思いついたように聞いてきた。弘樹は少し不思議に思った。どうして知っているんだろう。
「うん──正確には、だった、だけど」
「休部になっちゃったんだっけ」
水森さんの言うとおりだった。夏前の大会で三年生が引退し、それで部は休部になった。来年の春には廃部になる。
「もしかして中学まで、サッカー部じゃなかった?」
弘樹は更に不思議になった。確かにそうだった。弘樹が肯定するのを聞くと、水森さんは「やっぱり」と言って、喜ぶように笑顔になった。
「覚えてない? 練習試合で当たったでしょ」
水森さんが名前を挙げた学校とは確かに練習試合をした記憶があった。練習中、相手チームに怪我をする人がでて、弘樹の学校の生徒たちで応急手当をしてあげたりと、ちょっと珍しいことがあったので、思い出せた。
「よく覚えてるね」
「うん。男の子がなんて珍しいなって思ったから」
しかし弘樹はいくら思い返しても、水森さんらしき人が相手のチームにいたような記憶はなかった。そもそも相手チームにはマネージャもいなかったので、弘樹の学校の生徒たちで手助けしてあげたんだったはずのような。
「でもそっちに女子マネなんていたっけ」と弘樹が聞いてみると、水森さんは笑って答えた。
「いないいない。マネなんて贅沢なのはいなかった」
「水森さん選手だったの?」
弘樹は驚いた。
どう思い返しても、フィールドの中に女子がいたとは思えなかった。中学生までくらいなら男子に混じってプレイできる女子もいないではないが、相当上手でないと体格差が厳しくなってくるはずだ。弘樹は素直に「すごい」と言った。
「すごい偶然だよね。茂が連れてきたとき、びっくりした。もしかしてって」
そこまで言われると弘樹は、自分の方は気づきもしなかったのを、なんだか悪い気がした。
「あれ、そういえば、じゃあ、島田先輩とも同中なんじゃない?」と弘樹は部の先輩の名を挙げた。
「ヤスさん?」
「だよね。やっぱり」
「人間関係って意外と広いようで狭いよね」
水森さんは楽しそうに笑った。
それからしばらく中学時代の島田先輩の武勇伝を聞いてるうちに、茂が戻ってきた。茂はどこか気落ちしたような顔をしていた。
弘樹が一旦席を立とうとすると、茂は「いいよ、詰めて詰めて」と言って弘樹を押しやるようにしてシートに体を滑り込ませてきた。
「どうだった?」と聞きながら、弘樹は席の奥から茂の鞄を手渡した。
「いやぁ」と茂は浮かない顔だった。「あがっちゃってさぁ、何喋っていいかもう真っ白になっちゃって」
「うそ」と水森さんが驚いた。「緊張なんてするんだ」
弘樹も失礼だけど内心、同感だと思った。
「だってさぁ」と茂は後ろ頭を掻いた。「あんな大人の人が出てくるとは思ってなかったからさぁ。丁寧な言葉づかいしなくちゃなって思って」
「わかる。いつもと違う喋り方しようとすると、なんかこんがらがって、正しいのか正しくないのかわからなくなることある」
弘樹は、葉月さんも大人の人だと思うけど、と思ったけど言わずに、ストローで紅茶を吸い上げた。
「じゃあ不合格だったの?」
そう聞かれた茂は、顔に疑問符を浮かべた。それから首を傾けて少し考え「そういえば聞いてない」と言った。
「そんなはずないでしょ」
「戻ってくる前に何か言われなかった? 銀行口座持ってなかったら作ってきてとか」
「それは確か言われた気がする」
「じゃあ採用ってことだよ。おめでと」と水森さんが笑顔になって言った。
「って言っても、よっぽどじゃない限り不採用にはならないんだけどね」
「今までだめだった人っているの?」
「いないと思うけど……あ、年齢がってのはあったと思う。中学生」
「中学生でなんているんだ」
「一回あっただけだけど、珍しいと思う。そのときは、卒業したらまた来てってことになったらしいけど」
「でもそれじゃ緊張して損だったな。最初からわかってれば、もっと気楽にいったのに」
「ふっふっふ」と水森さんはわざとらしく言った。「そのくらいで緊張してたら、先が思いやられますなぁ」
茂は「どういうこと?」といぶかしんだが、弘樹はさっきの水森さんとの会話を思い出していた。初めてのアルバイトの日には水森さんもドキドキしたと言っていた。茂もだけど水森さんが緊張するところというのも、弘樹には想像するのが難しかった。
気づくと、店はいつの間にか賑わいを増していた。店に入ったときは数客しかいなかった店内も、次第に席が埋まりつつあった。客が二倍になると四倍は賑やかに感じる。同じ店内でも、別の店のような雰囲気がした。
「そろそろ、行くね」
そう言うと水森さんが鞄を取った。
「早くない? 六時だろ」と茂が時計を見て言った。確かに六時にはまだ少し時間があった。
「早めに着替えたりしておかないと、六時から働けないでしょ」と水森さんは言ったが、それにしても少し早過ぎるように思えた。弘樹がそう思っていると水森さんは「それに」と付け加えた。
「いつまでも付き合わせても悪いし」
「オレはいいよ。お前の働いてるとこ見学してくから」
「さっさと帰れば」
「そんなに制服姿見られたくないのか」
「そんなの、これから一緒に働くんだったらいくらでも見るでしょ……」
水森さんは呆れたように言った。
「僕もそろそろ帰ろうかな」と弘樹は言った。「お客さんも増えてきたし、混む前に出よう」
茂もそれを聞いて店内を見渡すと、「じゃあそうするか」と言った。
三人で席を立つと、水森さんが伝票を取ってレジに向かっていった。それを見てやってきたウェイトレスは「もう帰るの?」と声をかけてきた。
「私はシフト入るんでこのままいます」
「あれ、でも今日って……」とウェイトレスは言いかけて「あー、結ちゃんか」と苦笑した。
ウェイトレスはそのままレジに入り、水森さんから伝票を受け取ると、「今日はいいよ、お店のサービス」と言った。
水森さんも意外だったらしく「いいんですか?」と聞くと、ウェイトレスは笑顔で「いいのいいの」と言った。「マネージャには確認してあるから」
「ほんとですかぁ?」と怪しむ水森さんをよそに、ウェイトレスは弘樹と茂に微笑みかけた。
「二人ともバイトの面接だったんだねぇ。いつから働くの?」
弘樹と茂は二人で顔を見合わせた。少なくとも弘樹は、具体的にいつからという話は聞いていなかった。
「いつまでに返事してほしいとか聞かれなかった?」と水森さんが弘樹に聞いた。
「今週中くらいにはって」
「じゃあ早くても来週からかな。あらためて相談だと思うけど」
「まだ決めてないんだ?」とウェイトレスが面白そうに言った。それから何か察したように「大抵、面接の方があとなもんだけどねぇ」と、何か言いたさげな笑みで水森さんを見た。水森さんは困ったように微笑んだ。
「オレはもう決めてます。バッチリ働くんでビシバシ鍛えてください」
「やる気あるねー。じゃあシフト被った日は色々教えてあげないとね」
嬉しそうな茂をよそに、ウェイトレスは何やらレジの機械を操作していたが、やることは済んだのか「じゃあ、私は仕事があるから」と言ってレジを離れると、「また今度ね」と小さく手を振って客席へと戻っていった。茂はとても勤労意欲に満ちているようだった。
8
店の外は暑かった。暑さで空気が歪んで、出入り口のドアに掛かったベルが鳴る音も、真っ直ぐ進めず少し苦労しているような感じがした。
駅の近くで茂と別れて、弘樹は今日のことを考えた。いいお店だと素直に思った。通いやすく、雰囲気はいいし、店の人も親切そうだった。断る理由は別にない。ただ、弘樹はようやく自分の感じているのがどういう気持ちかわかってきた。新しいことを始めるにはまだちょっと早いような気がする。
今週中か、と弘樹は思った。それまでには決めないと、と思いながら歩道を歩いた。夏の日差しはまだ弱まらない。もう夕方なのに昼のような明るさだった。