いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ
ep.2 割引券
失敗だった、とタツヤは思った。
第一にこんな真夏の炎天下に外で待ち合わせたのが間違いだった。第二に時間通りに来たことが間違いだった。相手は時間通りに来るようなやつじゃない。第三に、そもそも待ち合わせなんかしなきゃよかったんだ。
「もうどっかコンビニでも入ってようぜ」
タツヤが見上げて言うと、カズシは涼しい顔で言った。
「まぁもうちょっと待ってようよ。あいつ携帯見ないし」
汗はかいているので涼しいはずはない。むしろ背の高い分、浴びている日差しの量はカズシの方が多いはずじゃないのか。もしかして標高が高いと涼しいのか? どうでもいいことが気に障るほど暑かった。
結局ヤスオがやってきたのは約束から三十分ちょっと遅れてからだった。悪びれもせず「やっほー」などと言いながら現れたヤスオに、タツヤの飛び蹴りが入った。
「ゴラァ、ヤス、テメェ、時計の見方、幼稚園で習わなかったのか?」
「と、時計の見方くらい知っとるわ」とヤスオは苦悶しながら言った。
「じゃあなんで時間通り来ねぇんだよ」
「?」とヤスオは顔に疑問符を浮かべた。「時間通りだろ?」
「まぁまぁ、来ただけいいじゃん」
更に荒れようとするタツヤをカズシが馬を落ち着かせるようにしてなだめた。
「誘ったやつが来なかったらやばいだろ」
タツヤが呆れたように言うのをよそに、ヤスオは「あれ、カズくんも来てたんか」とにこやかに言った。
「オレも志望校一緒だからね。同じ目標の仲間同士、協力し合おう」
「同志って言うか敵だけどな」
合格者の枠は限られているので、志望校が同じなら、それを奪い合うことになる。そういう意味では敵だ。同じ目標を持つ者同士は敵になる。受験生は悲しい。ただ、一人しか受からないわけじゃないので、協力が成り立たないわけではない。
三人が集まったのは受験勉強をするためだった。「どうせ家におっても勉強なんてできんわ」というのがヤスオの言い分だったが、それにはタツヤも同感だった。人の目があった方がまだ勉強する素振りくらいはできる。
とはいえ今までろくに勉強してこなかった二人に、どこに集まるかのあてはなかった。ヤスオがたまたま飲食店の割引券があるからということで、そこに行こうということになった。飲み食いもできるし空調も効いてるはず。
「で、そのファミレス、どこにあんの?」
タツヤが聞くと、ヤスオは心外そうに反論した。
「ファミレスじゃねーよ。ファミレスってのは、こう、あれだろ。なんかドリンクバーとかあってピンポーンって鳴らすチェーン店」
「うちの近所、チェーンじゃないファミレスあるぞ」
「そんなんあるんか。ていうかじゃあ、ファミレスって、何……?」
「ファミリーが来るレストラン」
「じゃあファミレスかも」
「あーあの店ね」とヤスオが出した割引券を見てカズシが言った。「あぁいうのはカフェレストランっていうんじゃない?」
「カフェなの? レストランなの?」ヤスオは余計混乱したようだった。
「どんな店なん?」
「いや、オレも入ったことはないから。オシャレな感じの店」
「店員が可愛い」とヤスオが言ったがタツヤは無視した。
「そんな店、居座っていいんかね」
「たまに勉強してるっぽい人いるから、いいんじゃない?」
店は並木通り沿いにあるらしかった。駅前は開放的なせいで日差しも照らし放題だったが、並木通りは樹がたくさん植えられていてまだマシだった。ただ直射日光は避けられても、風がないせいで、蒸し暑さがまとわりつくようだった。
少し歩くと、わりとすぐに、店についた。大きなガラス張りの窓から店内が見えるが、あまり混んではいないようだった。入り口の看板に店名らしき文字が書かれてあったが、筆記体なので読めそうで読めなかった。
店に入ると憑き物が落ちたように涼しかった。蒸し暑さは入店禁止。外で待っていなさい。三人が入り口で待っていると、店員が少し慌しげにやってきて、笑顔をつくろうとして失敗したようなぎこちない表情で「いらっしゃいませ」と言った。
「ヒロじゃん」とタツヤは驚いて言った。「お前こんなところで何してんの」
ヒロキは一瞬戸惑ったようだったが「バイトですよ」と笑顔をつくるのをやめて、いつもの顔つきで言った。
「そんなの見りゃわかるって」とタツヤは笑った。
「いつごろからやってんの? 意外すぎる」
「なんでそんなに嬉しそうなんですか」
「いやいや別に。深い意味はないけど」
「三名様でよろしいですか」
「よろしいです」
「お煙草はお吸いになりますか」
「吸ったらやばいだろ」
「席にご案内します」
「よきにはからえ」
ヒロキは三人を窓際に連れて行くと、空いてる席に座るよう言った。
「ねぇ、ここって勉強とかして大丈夫?」とカズシが聞くと、ヒロキは一瞬考えるようにして「大丈夫だと思います」と答えた。
それから冷や水やお絞りを運んできて「注文がお決まりになりましたらお呼びください」と言い残して去っていった。
タツヤはさっきからヤスオが静かなので「お前が言ってた可愛い店員ってあれ?」と聞いてみた。水を飲もうとしていたヤスオはむせた。
「トドメをさすな、トドメを。落ち着きかけとったのに」咳き込みながらヤスオは言った。「知り合いが店員やってるとなんか笑けてくるのってなんなんだろな」
「いや別に笑えはせんだろ……でもなんか面白いのは間違いない」
「もしかして例の、サル部の後輩?」とカズシが聞いた。
「そそ。マネやってる後輩」
ヤスオはまだ現在形で言った。
「いいなぁ」
「ハンドは女子マネおるやろ」
「あれはマネじゃなくて鬼コーチ」
「そっちの方が羨ましいわ。練習メニューとかも考えてくれんだろ。こっちは古河先生おらんくなってから大変だったからなぁ」
「なぁ、とりあえず何頼むか決めようぜ」
タツヤはメニューを開くとヒロキを呼んだ。ヤスオの持って来た割引券を見せて「これ使える?」と聞くと、ヒロキは見慣れないものを見たような様子で券を見つめていたが、「大丈夫です。使えます」と言った。
「じゃあオレ、オレンジジュース」
「ジンジャエール」
「炭酸水ってある?」カズシがメニューにないものを頼んだ。
「ヨーロッパ人かよ」
「最近、甘いもの控えてて」
「女子かよ」
「あの」とヒロキが口を挟んだ。「多分、大丈夫だと思います」
「じゃ、それで」とカズシが言うと、ヒロキは律儀に注文を繰り返して席を離れた。
しばらくすると飲み物を持たずにヒロキが戻ってきた。
「なに? やっぱり炭酸だめだった?」
「そっちは大丈夫なんですけど、この券、お食事の方のみだそうで……」
「えっ、そうなん」とヤスオが券を受け取って眺めたが、どうもそうらしかった。
「そんなことだろうと思った」
「オレ昼飯食ってないから丁度いいや。なんか頼もう」
「何か安いのない?」
「サイドメニューが安めですね」
言われるままにサイドメニューのページを開くと、フライドポテトが安かったのでタツヤはそれにした。カズシはスパゲティ・ポモドーロを頼んだ。
ヒロキはまた注文を繰り返してから去っていった。それからすぐに飲み物を持って来たが、トレイの上のグラスが今にもバランスを崩しそうで、見てるほうが心配になる不安定さだった。他人が自転車に乗ってフラフラしているのを見る感じに近い。無事、飲み物がテーブルに並ぶと、全員でホッとした。
「あれ、絶対、最近だわ」一仕事終えたヒロキを見送りながらヤスオが言った。「バイトはじめたばっかって感じがする」
「初々しいね」とカズシが同意した。
「あの感じじゃ、もう、コップ割りまくりだろうな」
「あのヒロがそんなベタなことするか?」タツヤは同調しなかった。
「聞いてみるか」
「賭けようぜ。ジュース代」
「すみませーん」と言ってヤスオが呼ぶと、ヒロキがすぐにやってきた。
「ヒロ、バイトしはじめてから、もうコップ割った?」
「あの、僕、仕事中なんですけど」
ヒロキは迷惑そうに言った。
「悪い悪い。で、どう? もうやった?」
「今のところ、まだです」
「よっしゃ」と横でタツヤが喜ぶと「賭けてたんですか」とヒロキが嫌そうに眉をひそめた。
「それだけならもういいですか。用もないのに呼ばないでください」
「オッケー、オッケー。邪魔して悪かったな」
ヒロキが去っていくと「ほらな」とタツヤが言った。
「おっかしいなぁ」とヤスオは不満そうだった。
「自分と同じ基準で考えてちゃいかんよ。あのヒロがグラス割って慌ててるところなんて想像できるか?」
「さっきはちょっとそれを楽しみにしとった」
「ヤな先輩だな」とカズシが言った。
「まぁ気持ちはわかる。それより勉強しようぜ」
「勉強っつってもなぁ」とヤスオは気乗りしない様子で言った。「何すればいいかわからんよ」
「シバセンがお土産いっぱいくれたろ」と言いつつ、タツヤは担任から貰ったプリントを取り出した。夏休み前に渡された山のような課題から、部分的に持ってきていた。
「これやっとけばなんとかなるんじゃね」
「勉強教えてくれって言ったとき柴先生泣くくらい喜んでたね」と言いながら、カズシも同じくプリントを取り出した。
「バカがやる気だすと嬉しいんだろ」
タツヤは他人事のように笑った。カズシも笑ったが、ヤスオは笑っていなかった。
「どうした?」とタツヤが聞くと、ヤスオは悲しそうな目で、「オレ、それ持ってきとらん」と言った。
「別にいいんじゃね。他にやりたいのがあるんなら、それやれば。なんか本でも買ったの?」
「買っとらん」
「じゃあ何持って来たん」
「何も」
「うわバカだ」
「そういや手ぶらだったね」
「なにしに来たんだよお前。じゃあ、オレのこれ半分やるから、今度お前の分から返せよ」
「カズくんシャーペン貸して」
「はいはい。シャー芯も三本おまけしたげる」
課題のプリントに向かいはじめてからしばらくすると、食い物が運ばれてきた。持って来たのはヒロキではなく、別の女の店員だった。同い年くらいではきはきとした感じの明るそうな女の子だ。「お待たせいたしました」と満面の笑みで言った。
「スパゲティ・ポモドーロのお客様?」と言い終わるより先にカズシはプリントを脇にどけた。トマトソースになにやら色々入ったスパゲティがカズシの前に置かれる。
「お前トマト飛ばすなよ」とタツヤが言うと「へっへっへ」とカズシは不穏な笑い方をした。
「フライドポテトは真ん中に置きますか?」
他に誰も前を空けようとしなかったからか、女の子がそう聞いた。タツヤが「じゃそれで」と言うと、テーブルの中央にフライドポテトが置かれた。皆でつまんでもちょうどいいくらいの量はあった。
「どうぞごゆっくり」とお辞儀をして、女の子が去っていこうとしたときに、「あ、ねぇ」とタツヤが声をかけた。女の子はまた笑顔になって、タツヤの言葉を待った。
「あの男の店員さん、いつごろから働いてるの?」
思いがけない質問だったのか、女の子はちょっと驚いたように目を大きくした。すぐまた笑顔に戻って「この夏休みからです」と教えてくれた。それから少し心配そうに「彼が何か……」と言った。
「あ、いや全然。そういうわけじゃないから。ありがと」
女の子が去っていくと、タツヤはヤスオに「お前が言ってたのってあの子?」と聞いた。
「違うけど、今の子も可愛かった」
「あの子、うちの学校だよ」とカズシが言った。「校内で見た覚えがある」
「ネクタイ何色だった?」
タツヤたちの学校は学年ごとにネクタイの色が違った。
「そこまでは……でも同学年ではなかったと思う。一年か二年か」
「それはけしからんな」
「何がよ」
「何でもない。勉強しようぜ。勉強勉強」
スパゲティをくるくる巻いて食べるカズシを視界に入れないようにしつつ、タツヤはプリントに向かった。集中が大事だ。しかし集中したくらいでは急に頭は良くならない。一問解いたらポテトを一本食うかと思っていたのに、全然わからない。全く解ける気配がしないので、できてなくても一本食べたら次の問題に行くことにした。
「さっきからポテト食ってばかりじゃない?」とカズシに突っ込まれた。「右手が動いてない」
「考えてはいるんだけど、さっぱりわからんのよ。教科書持ってくるべきだった」
「持ってきてるよ」
「貸して。数学の」
教科書のご利益はあらたかで、教科書に載っているのとほぼそのままの問題がいくつか解けた。解けたというより写したと言った方が正しい。しかしそれ以上はやはり解ける気がしなかった。教科書を読むだけでスラスラ解けるようになるくらいだったら、教師の仕事はなくなるだろうな、と思いながらタツヤはまたポテトを口に運んだ。
この分じゃどうせヤスオも手も足も出ないだろう、ストローの袋でも折り曲げて遊んでるに違いない、と思ってタツヤが横を見ると、ヤスオは普通に問題を解いていっていた。
「お前そんなんよく解けるな」
「解くって。これ世界史のだぞ」とヤスオは不思議そうに言った。「こんなん覚えるだけやん」
「簡単に覚えられたら誰も苦労せんわ」
「オレ覚えるのは得意だからなー。考えんでいいし」
「簡単に覚えるコツとかないの」
「覚えようとせんこと」
「聞いたオレが愚かだった。カズは何やってんの?」
カズシはもうスパゲティを食べ終わっていた。
「オレは、英語。覚えるだけ。簡単」
「日本語が怪しくなってないか」
「そんなことないよ」
「数学教えてくんない?」
「いいけど、オレ、この前の数学、タツヤより点数低かったよ」
「だめだ、誰も役に立たねぇ……」
タツヤはテーブルにうっ伏した。それから顔を横に向けてまたポテトを一本食べた。美味しいのが救いだった。塩分控えめで芋の味が濃い。
顔を横にしているとレジのあたりが見えた。その近くの壁際でヒロキがトレイを腰の前に両手に抱えて立っている。
「なぁ、ヒロって勉強できるかな?」
ヤスオはプリントから顔を上げると、少し考えて「できそうなイメージはあるな」と言った。
「あいつ何組って言ってたっけ」
「二組とかじゃなかったか」
「なら大丈夫だ。教えてもらおう」
「後輩に勉強教わるんかい」
「別にいいだろ。じゃあさ、東大行くような高一と、バカな受験生だったら、どっちが勉強できると思う?」
「聞いてみるか。東大行くかもしれん」
ヤスオが「すみませーん」と呼ぶと、すぐにヒロキはやってきた。
「お済みのお皿お下げしましょうか」
「あ、お願い。そうじゃなくて。ヒロ、東大行く?」
「行きませんよ。ていうか行けませんよ。なんなんです、突然」
「ダメだってさ」
ヤスオは残念そうに言った。
タツヤは別にヒロキが東大に行くかどうかを知りたいわけではなかった。
「ヒロって勉強、得意?」
「得意ではないですね」
「この前のテスト、順位どれくらいだった?」
「そういうのあんまり言いたくないんですけど」
「まぁいいじゃん。何位だった?」
「63位です」
「ふーん、そんなもんか」
思ったほどではなかったが、なかなかいい成績だった。特進クラスの連中が四十人くらいいるとして、それを除けばかなり上位だ。勉強はできるほうだろう。下から数えて同じくらいのタツヤよりは遥かにいい。先生役は十分に果たしてくれそうだ。
タツヤがそんなことを考えていると、「ちょっと待って」と何かに気づいたようにカズシが口を挟んだ。
「それって校内で?」
ヒロキが一瞬目を背けたのをタツヤは見逃さなかった。タツヤたちの通う学校では、年に二回、自分たちの学校だけでなく、同じ系列の兄弟校全てで行われる試験がある。全校で同じ問題を解くので、順位も全体でのものと校内のものと二つが出る。この前のテストはそれだった。
ヒロはしばらく答えなかったが、諦めたように「全体でです」と言った。
「じゃあ校内では?」タツヤが聞いた。
ヒロは言いたくなさそうに「7位ですね」と言った。
「はぁ!? お前それでよく勉強苦手とか言ったな」
「だって、あれ、マークシートじゃないですか。マークはなんとなくでも当たるじゃないですか。いつもはもっと悪いですよ」
「その鉛筆の仕掛け、教えてくれない?」
「転がしてません」
「お前、運動部で勉強できるやつをなんて言うか知ってるか?」
「なんて言うんですか」
「裏切り者だ」
「僕、仕事中なんで、もう行っていいですか」
「待って。本題を忘れてた。勉強教えて」
「イヤです。本当もう勘弁してください」
哀願するタツヤを放っておいてヒロキは仕事に戻っていった。仕事といっても今はあまり客はいないのだから、またトレイを抱えて壁際に突っ立ってるだけだろうに。
「逃げられた」
タツヤは残念そうに言った。
「まぁ、素直に諦めとけ。あんま邪魔しても悪いわ」
ヤスオが指した先を見ると、ヒロキは店員の女の子に何か話しかけられていた。女の子は後姿しか見えないが、少なくともヒロキはとても楽しそうという風ではない。むしろちょっと困っているというか申し訳なさそうにしてるように見える。
「あれは怒られとるやろ」
「悪いことしたな」
「オレたちも勉強しないと」
よくよく考えると、この店にきてから、ろくに勉強をしていなかった。受験生の一日は貴重だ。こんなことをしている場合ではない。タツヤはあらためて課題のプリントに向かった。
しかし、わからないものをいくら考えてもわかる気が全然してこない。タツヤはひとまず数学は後回しにすることにした。他には物理のプリントを持ってきている。タツヤは数学の教科書をカズシに返し、代わりに物理の教科書を貸してもらった。
大差ないように思えるかもしれないが、タツヤは物理はそこそこ得意だった。解いたらポテトにルールを戻しても大丈夫なくらいだ。教科書を見れば公式が載っているので、それに当てはめれば解ける。一つだけ問題があって、試験に教科書は持ち込めない。ヤスオ風に言えば覚えるだけだが──。
「でもさぁ」と不意にヤスオが言った。「ヒロ、なんでバイトなんか始めたんかな」
タツヤは一瞬ヤスオの方を見たが、再びペンを動かしはじめた。今は勉強の時間だ。
「しかもウェイトレスなんて」
「変なもん想像させんな。ウェイターだろ」とタツヤは思わず突っ込んだ。ついつられてスカートをヒラヒラさせながら料理を運ぶヒロキを思い浮かべてしまった。バカなことを言ってないで、今は勉強しなければならない。
「気にならん?」
「別にバイトくらいしたっていいだろ」
「でもあいつ、接客は絶対ムリって言うとらんかった?」
「文化祭のときか。言ってたな」
タツヤがペンを置いて顔を上げた。
「文化祭? 何してたっけ」とカズシが聞いた。
「クレープ屋」
「そういえばやってたね」
「あれだけ嫌がってたんだから、心変わりする何かがあったんだろうな」
去年の文化祭、毎年恒例だが、部ではクレープ屋を出した。二三人ずつ店番をするのだが、ヒロキは、買出しでも荷物運びでも何でもするから接客だけは嫌だと、珍しくわがままを言った。体育会系にわがままは許されないが。それが一体どういう心境の変化だろう。
「金じゃないか」とヤスオが閃いたように言った。
「欲しいものがあるってこと? それはあるかもね」
「でもヒロが欲しがるものなんてあるか?」
タツヤは疑問ありげに言った。
あまりヒロキが物欲の強いタイプには思えなかった。部活帰りに買い食いもしなければ物持ちもいい。ボタンが取れたら自分で付けるタイプ。そういえば、スコアシートを付けるのに使っていた鉛筆みたいなボールペンは、中学のころに貰ったものだと言ってた。中学生のころから同じボールペンを使ってるやつが欲しがるものってなんだろう。
しかしヤスオは「そりゃいろいろあるだろ」と自信ありげに言った。
「例えば?」
「バイクとか」
「それはお前だろ」
「オレもバイトしようかな……」
「今はマズい。止めとけ。まぁでもヒロが物欲しさにバイトってのはやっぱり想像できんよ」
「じゃあ他に何があるよ」
「そりゃ例えば……」
タツヤが首をかしげると、目の前をちょうど店員の女の子が通りがかった。片手に持ったトレイに料理や飲み物をたくさん乗せて、軽やかに歩いていく。さっきヒロキが飲み物を持ってきたときと違って、トレイの上のものは全然揺れない。スカートだけがリズミカルに揺れている。
カズシによると一年か二年という話だった。つまり同級生ということもありえる。クラスメイトかもしれない。同じ職場に同じクラスの男女というのは捨ておけない話だった。
「……例えば、女とか」
タツヤが言うと、ヤスオは意趣返しのように「それはお前だろ」と言った。
「は? 何でオレ?」とタツヤは少し不快そうに言ったが、ヤスオは気にも留めない様子だった。
「キミはどうして今の部に入ったんだっけか」
「悪かった」タツヤは即降参した。「負けを認めるから、それ以上は言わんでよろしい」
「え。オレは知りたい」
「二つ上の先輩に……」
「言わんでええっちゅうに。でもあり得ない話じゃないだろ」
「あの子狙いでってこと?」カズシが目配せで店員の女の子を示した。
「オレ、あの子どっかで見た気がするんだよなぁ」とヤスオが呟いた。
「だから、同じ学校なんだって。学校で見たんだろ」
「そうじゃなくて、なんか別のとこで見たことあるような……」
「思い出したら教えてくれ」
「でもさ、ヒロがそんな積極的なことするかね」
「思い切ったんだろ」
「それこそイメージできん」
ヤスオの言い分ももっともだった。もしヒロキに気になる女の子ができたとして、その子が飲食店でアルバイトをしていることを知って、同じ店で働きだしたのだとしたら、褒めてやりたい。胴上げしてもいい。そのくらい似つかわしくはなかった。正直タツヤにも想像できない。
「案外、流されてとかだったりして」とカズシが言った。「友達に誘われて断りきれず、とかありそうじゃない? 押しに弱そう」
「いや、さっきの見たろ。ノーと言える日本人だぞ、あいつ」
「相当付き合いいいなって思ったけど……イヤって言ってても頼み込めば最後にはオーケーしそう」
「それは、そうかもしれん。もっかい頼んでみるか」
「勉強は柴先生にでも聞きなよ」
「ティーチャー・シバは話しだすと長いからできれば避けたい」
「そんな理由で浪人するやつって他にいないよきっと」
「落ちるって決めつけるな」
しかしこのままだと来年の今頃タツヤが過ごしているのは浪人生活なのは間違いなかった。勉強しなければならない。それはわかっているが勉強できる気がしなかった。集中しようとしてもすぐ邪魔される。明らかに環境が悪い。
「でもよかったよ」とヤスオが言った。
「なにが」タツヤは不機嫌そうに聞いた。
「新しいこと始めたんならさ」
「あぁ、それね」
ヤスオの言いたいことがわかって、タツヤは表情を和らげた。
「確かに、ちょっと安心した」
「何のこと?」とカズシが聞いた。
タツヤはカズシを見た。そういえばカズシにはこの話はしてなかったんだっけか。
「いや、うちの部、なくなるじゃん。かわいそうなことしたなって」
カズシは少し不思議そうな顔をした。
「確かにかわいそうだけど、タツヤたちのせいじゃなくない?」
「そうか?」
「古河先生が出てって、見てくれる人がいなくなったからでしょ」
「そう。それで二年もマネが一人だけになるし、オレらが引退したら休部ってことで、今年は新人勧誘できなかったんだよね」
「去年、オレらがもっと新入生集めとったら、話も違ったかもしれんだろ」ヤスオが後を引き取って言った。
カズシはなにか言いたさそうな顔をしていたが、二人に気を使ってか、否定も肯定もしなかった。
確かに別にタツヤたちのせいじゃないと言えばそうだった。もっと言えば古河先生も好きで転任したわけでもないし、誰のせいでもない。だけど気にかかるものは気にかかる。そういうこともある。
「カズさ、試合に負けて泣いたことある?」タツヤは聞いてみた。「中学最後の試合とかでもいいけど」
「いや、ないと思う」
「オレはあるぞ」とヤスオが言った。
「ヤスくらい熱いやつはおいといて、オレもないんだよね」
「本気度の問題だろ」とヤスオが言った。
「オレも本気でやってたっつーの。冗談でゲロ吐くまでやれるか。死ぬわ。でもまぁ、そうなんだよな」タツヤは口調だけは笑っていた。「思い入れないやつが泣くはずないんだよな」
カズシは今度は何のこととは言わなかった。
「ま、でも」と明るい調子でヤスオが言った。「何かやることできたんなら、よかったわ。ちょくちょく励ましにきてやろうぜ」
「迷惑行為はやめろよ」
「誰がいつそんなことを」
「自覚がないのか。これはタチが悪いな」
「自覚があってやってるのもよっぽどだけどね」
夕方ごろになると、客も増えてきはじめた。結局ほとんど勉強もできてないし、混雑する前に店をでようということになった。
「会計どうする?」
「まとめてでいいだろ」
「あ、でも、オレだけがっつり食べたから」
「じゃー別にするか」
レジに立ったのは女の子だった。最後に一声かけていこうかとタツヤは店内を見渡したが、ヒロキは客の注文を取っていたので、やめた。自分の分の支払いを済ませて外に出ると、店の前でちゃんと蒸し暑さが待っていた。待ってなくていいんだが。
失敗だったな、とタツヤは思った。勉強がはかどるどころの話ではなかった。こんな調子で受験を迎えたら一体どうなってしまうのか。なるようになれ。そう思うしかない。
店前で待っているとやがてカズシが出てきて、最後にヤスオが出てきた。「帰るか」と言って歩きだそうとするタツヤをヤスオが呼び止めた。父の日のプレゼントを隠している子供みたいな笑みを浮かべていた。弟がよくそんな顔をしている。ヤスオは二人に近寄ると「これ、またもろうた」と言って手を差し出した。その手に握られているのはレシートとお釣りと、三枚の割引券だった。