01
憩いのひととき。お客さんたちは食事をしにくるだけじゃなくて、思い思いの時を過ごしにやってくる。これから遊びにいく仲間との待ち合わせかもしれないし、商店街で買い物をすませた客が喉を潤しにやってくるかもしれない。懐かしい友人との久しぶりの食事を楽しみにくるのかもしれない。そのささやかな時間を過ごす憩いの場所がこのお店なんだよと、『セルパン』で働くアルバイトはみな、おかみさんに言われていた。
昔ながらの洋食喫茶で、木造りのテーブルも椅子も物は古いが丁寧に磨かれてある。そこにぽつぽつと年嵩のいったお客さんが入り、コーヒーや紅茶を飲んだり、店長自慢のナポリタンを食べたりしながら、歓談している。そんな穏やかな光景がこの店のいつもの姿だった。
いつもならそうだった。
飛んできたコーヒーカップの流れ弾に、店員の女の子は慌てて頭を下げた。背後の壁でけたたましくカップが割れる。丸まった背中に破片が降り落ちる。
おそるおそる身を隠していたカウンターから頭を半分だけ出して覗き見ると、依然として男は店長と掴み合っていた。
「け、警察、よびましょうよぉ」
店員の女の子が泣きそうな声を隣に向けた。
不機嫌そうな顔のおかみさんは、しかし動く気配がなかった。事の成り行きを見守るようにカウンターに肘をついたままでいる。
「警察はダメ。面倒事はお断りだよ」
「店長、殺されちゃいますよ!」
「あのくらいで殺されるような情けない男なら死んでせいせいするよ」
おかみさんはにべもないが、店長は胸倉を締め上げられて、今にも息の根を止められそうだった。天井を仰いで、目をぎょろつかせ、苦悶の声を上げている。それでも相手を押し返そうとしているが、男との体格差は大きい。じたばたもがいても、なかなか振り解けないでいた。
店内に客はいない。営業外の時間帯だから当然だが、そうでなくても今のこの店にはとてもいられないだろう。整然と並んでいたテーブルや椅子は、開店前のお店にやってきた男が店長と掴み合いをはじめたせいで、乱雑に押しのけられている。
店員の女の子の不安は増すばかりだった。男が何者かもわからないが、なぜいつも控えめな店長が声を荒げて不審者と揉み合っているのかも、どうしておかみさんがそれを止めようとしないのかもわからない。普段から店長に対して口さがないおかみさんではあるが、それも愛情の裏返しかと微笑ましく思っていた。本当に死んでしまっても構わないと思っているのだろうか。段々そう思えてハラハラしてしまう。
そんな気持ちを察してか、おかみさんは店員の女の子をチラと横目に見た。
「心配することないよ。組合の人を呼んであるから」
「組合?」
組合ってなに。商店街の振興組合の人? たまに見かける老人の皺面が浮かんだ。いやまさかそんな人が来てどうにかなるようには思えない。
疑問を遮るように、一際大きな声がした。
咄嗟に店長たちの方を向いて、店員の女の子は我が目を疑った。
男はむくむくと体を大きくさせ、店長より少し高いくらいだったはずの背丈は、やがて頭が天井につくくらいになってしまった。その分だけ腕も脚も胴も太く膨らみ、けっして可愛いとはいいがたかった顔も、芋のはみ出たふかし団子のようなボコボコしたものに変貌していった。
悲鳴を上げたのは、その巨大な両手で掴み上げられた店長だけでなく、店員の女の子も一緒だった。
「ば、ば、化け物ー!」
店員の女の子は思わずおかみさんにしがみついた。服に皺がつくほどぎゅっと握って、相変わらず静観しているおかみさんに訴えかける。
「や、やっぱり警察よびましょう! いや警察じゃなくて自衛隊……? ねぇおかみさんー!」
「はぁまったく」
おかみさんは呆れた様子で呟いた。そのまま店員の女の子の方を見ずに続ける。
「大丈夫だから落ち着きな」
店員の女の子は、もしかしてと思った。おかみさんは、恐怖のあまり、正常な判断ができなくなってしまってるんじゃないか。恐ろしすぎることが起きたとき、人は不安をやわらげようと「大したことじゃない」と思いたがってしまう、と聞いたことがある。災害が起きているのに、大丈夫だと思い続けて、逃げ損ねてしまったり。
店員の女の子は、涙をこらえて声を上げた。おかみさんの肩をゆさぶる。
「なにが大丈夫なんですかあれ見てください! あんなの普通じゃないですよぉ!」
「だから大丈夫だって」
「大丈夫じゃないですよ! 化け物ですよ化け物!」
「化け物が怖いかい?」
「当たり前じゃないですか! 殺されちゃいますよ! 早く警察を……」
「警察はダメだよ。だって」
おかみさんが顔を向けた。ぐりんとむき出しの目は瞳孔が蛇のように細長く、頬まで大きく裂けた口からは、チロチロと二叉に割れた舌が長く伸びた。ニタリと笑う。
「あたしもその“化け物”だからね」
店員の女の子は卒倒した。
「まったく。だらしがないねぇ」
お岸はいつもの“おかみさん”の顔で呟いて、抱きかかえた店員の女の子を、カウンターの裏を背にそっと座らせた。ショックで気を失っただけで、穏やかに息をしている。
目を覚ましてから、誤魔化せるだろうか。何とか言いくるめるしかない。今のところはひとまず騒がれないようにするしかなかった。
お岸はあらためて亭主の方を見た。大男と化した八五郎に床に押えつけられながらも、何か言い返している。八五郎の方も喚いているので、互いに何を言っているかもわからない。
お岸は辺りに転んでいた椅子を立たせて、そこへ腰掛けた。脚を組む。
鶴牧岸の亭主、仲蔵は気が小さいクセに見栄っ張りだった。古い時代の性分そのままに、揉め事が起きたら男である自分が身を呈してでも女房を守るべきだと思っている。人間の夫婦に身をやつして人の世で一緒に暮らそうと誘われたときも、お前に苦労はさせないよ、などと気障なことを言われたが、そういう言葉は天地開闢より守られた例がない。取った名前がお互いたまたま同じ噺にちなんでいたせいで、気が合うかもと錯覚してしまった。
お岸もなにも安穏と静観しているわけではなかった。大事な自分の店で暴れられては内心腹立たしかったし、大男を引っ叩いて店の外に叩き出してやりたい。そうしないのは、ひとえに亭主の顔を立てているに過ぎなかった。お岸もまた古い気性の女だったが、なにぶん古い人間なので仕方ない。二人が一緒になったころ、娯楽の花形はまだ寄席であった。
〈それにしても、組合の者はまだ来ないのかね〉
大男に組み伏されている亭主を睨むお岸の口の中には血があふれていた。口内で唇の裏側が噛み千切られそうになっている。
〈あれじゃ本当にそのうち殺されちまうよ〉
そうなったら──そうなる前に殺す。お岸は、蛇女の本性を剥き出しに、腹をくくっていた。
いくら“化け物”同士でも殺しはご法度だが仕様がない。そんなことになれば、今のまま人間の振りをして暮らすことはできなくなる。愛着のある店も手放すことになる。しかしそれは躊躇いにはならなかった。元来、蛇女の執着心ははなはだしい。自分のものとみなした所有物を失うことは決して許さない苛烈な気性が、今は一点、殺意に向いていた。
相も変わらず罵り合っていた仲蔵と八五郎の二人だったが、そのうちの一言にカチンときたのか、八五郎は顔を激しく歪めると、右腕を大きく引いた。相手を組み伏しているので、天井に高く肘を上げることになる。その手は岩のような握りこぶしを作っている。
〈あのバカ〉お岸は目を剥いた。〈加減ってモノを知らないのかい〉
容赦なく殴りつけられれば、か細い仲蔵が死ぬのは明らかだった。
殺す。椅子を蹴って立ち上がったお岸は、頬まで裂けた口から歯を剥き出しにし、刃の刺し跡のような細長い瞳孔を害意に染めあげた。
からん、と音がして、店のドアが開いた。洋食喫茶『セルパン』の入店口には真鍮製のベルが掛かっている。元は落ち着いた金色だったのが年を経て退色した骨董品で、ちょっと能天気な音を鳴らす。それと同時に店に入ってきたのは、小柄な少女だった。くせっ毛のショートボブにカチューシャを巻いて、小さなリボンのついたヒラヒラのワンピースという可愛らしい格好をしているが、不釣合いに目つきが悪い。
少女は店内を一瞥すると、大男の腰の辺りを掴んで引きずり倒した。八五郎の巨体が店内を転げる。壁にぶつかるまでの間に、あたりのテーブルや椅子は横倒しになり、備え付けの調味料の小瓶や、店のロゴが入った紙ナプキンや、ラミネートされたペラ一枚のメニュー表や、痛ましい殺人事件の進展を報じる今朝の新聞が宙を舞った。
その光景にお岸は唖然とした。それから、諦めたように椅子に座りなおした。眉間に指を当てる。余計厄介なやつが来てしまった。
「なにしやがる」
八五郎は身を起こして叫んだ。唇を剥き、鼻の穴を大きくして、ぎょろぎょろした目で少女を睨みつけるが、少女の方は顔色一つ変えない。
「組合の者だよ。揉め事は禁止。ルールを知らんわけじゃないだろ」
「人のケンカに首突っ込んでんじゃねぇ。ガキはすっこんでろ」
「は? そのガキに放り投げられて尻餅ついてんのは誰だよ」
少女は不愉快そうに瞳孔を絞る。
「バカが騒ぐと話がややこしくなる。大人しくしてろ」
「誰もテメェに話つけてもらおうなんざ思ってねぇ」
大男は憤懣やるかたない様相で少女に立ちはだかった。見下ろす巨躯は、屈めた背が天井に触れるほど大きい。その高さから拳を振り下ろした。先程お岸の亭主にも見舞おうとしていた岩拳だ。
少女はそれを左の手で受け止めた。拳の振りよりも早く足を開いて、中腰に大男の拳固を捉える。衝撃を受けて、店が小揺るぎするが、少女の立ち位置は僅かにも動じない。
そのまま大男の右拳と、少女の左手とが、拮抗したまま震える。いやそこに均衡はあっても、拮抗してはいなかった。八五郎が拳を引こうとしても、びくともしない。顔を歪めて、いくら力を込めても、拳に食い込むような少女の細指がそれを離してはくれなかった。
「穏便にって言われてるんだ」
目つきの悪い小柄な少女は、仕方なさそうに言いながらも、その口の端を好戦的に持ち上げた。白い鬼歯が覗く。
「けどそっちがその気なら、相手してやるぜ」
ユウマは息を切らせて走っていた。大した速さではないがユウマなりには精一杯だった。ただの人間が、エンジュの“化け物”みたいな足の速さについていくなんて、無理な話だ。せめて少しでも早く着けるよう、懸命に息を継ぐ。
連絡があったのは仮粧町通り商店街の洋食喫茶『セルパン』からだった。詳しいことはあらためて聞いてみないとなんともいえないが、お金に関するトラブルらしい。相手方が店で暴れているので早く来てほしいとのことで、エンジュは足の遅いユウマを置いて一人先に行ってしまった。穏便に済ませてればいいけど。ユウマは不安だった。
ようやく着いた店の前には、木彫りの看板が出ていた。蛇のような楽器のシルエットの下に、アルファベットで“SERPENT”と焼印されてあって、隣には『モーニングサービス/開店~午前11時』と貼り紙が出ている。少し古めかしい、上品な店で、客層も落ち着いた感じの人が多く、ユウマのような高校生くらいの年代にはちょっと入りづらい。通りがかりにそんな印象を抱いていた喫茶店だった。
店に入ろうと扉を開けると、からんころ、とベルが鳴った。
店内は荒れていた。机という机、椅子という椅子は、ひっくり返り、横倒しになり、足が折れているものもあった。テーブルに備え付けてあった物であろう、小瓶や紙ナプキンや銀器類が散乱していた。壁に掛かった棚が傾いて、そこに飾ってあったのか、花瓶や人形が粉々になって落ちている。
その中央ではエンジュが、大男に、足四の字固めをかけていた。
……。
本来、足四の字固めというのは、自分の脚で相手の脚を4の形にロックする技だ。軸足に巻き込むようにして相手の右脛を左膝に乗せる。その伸びた左脚を股に抱えたまま、横向きの相手右足を自分の右脚で押さえ込むと、右脛にも左膝にも曲がらない方向へと力がかかる。友達にやったら骨だけでなく友情にヒビが入るくらい痛い。それを大男に対して小さなエンジュは全身を使ってかけていた。
大男は苦痛に悶えるしかなかった。脚に抑え込みをするような姿勢になっているエンジュを殴ろうと、上体を起こしかけるが、器用に蹴り返されてしまう。そういう余計なことをすると、エンジュが体を揺さぶって、より激しい痛みに襲われる。
「ギブ! ギブ!」と叫びながら大男は床を叩くが、エンジュは降参を許さない。
「放したらまた暴れるだろうが」
「暴れねぇって言ってんだろ!」
「その言い方が信用ならん」
「わかった! わかった! もう暴れません!」
痛い痛いと子供みたいに悲鳴を上げる大男に、エンジュは締めたり緩めたりを繰り返していた。それを呆気にとられたように見ている二人は、店主夫妻だろう。男の方は目を丸くして、女の方は頭痛がするように額に手を当てていた。その気持ちはユウマにもよくわかる。
「エンジュ!」声をかけると、大男の悲鳴が止んだ。
エンジュは技を解くと、寝そべったせいでついたチリを払うように、ヒラヒラの洋服を手で叩いた。その足下で、大男はぐったり横たわっている。
「やっと来たか。おせーよ」
「これでも一生懸命走って来たんだけど……何してたの?」
「こいつが暴れるからよ。お前が来るまで、大人しくさせとかなきゃだろ」
「それにしては……」ユウマはあらためて店内を見渡した。見るも無残としか言いようのない有様だった。
「抑え込むのに手間取ったんだよ。見た目どおりの馬鹿力だから」
顔には出さなかったが、ユウマは妙に思った。互いに技を受け合うプロレスならともかく、足四の字固めなんかよほど力に差がないとかからない。そんな相手にエンジュが手間取るとは考えづらかったが、ユウマは「なるほど」と返した。
それぞれの話を聞いたところ、経緯は電話で呼ばれたときに聞かされていたのと大筋では変わらなかった。
大入道の八五郎は、うまい酒が欲しかった。いつも仲間内で飲み回している自家製の濁り酒(日本の酒税法では密造にあたる)ではなく、人間の造った清酒を飲みたいと思った。勝手に盗ることは当節では許されないので(多分昔も許されてはいない)、金が要る。金を稼ぐには働かねばならない。そこで洋食喫茶『セルパン』を営む鶴牧夫妻に頼み込んで、雇ってもらうことになった。
接客などもちろんできるはずもないので、鶴牧夫妻は八五郎に倉庫整理のような力仕事を任せることにした。しかし不器用で物覚えが悪く移り気な八五郎は、その仕事もうまくはできなかった。整理するどころか散らかす有様だった。鶴牧夫妻は八五郎を馘首にした。賃金は払わなかった。それが揉め事の原因だった。
手際はともかくとして働いたことは働いたのだから労賃を払うべきだというのが八五郎の言い分だった。それに対して鶴牧夫妻(というよりお岸)は、そんな人がましいことはやることをやってから言え、まともな働きもないのに金だけは貰おうなんておこがましい、と突っぱねた。八五郎は激怒し、それに仲蔵が応じた。
「ふーん。そりゃ働かせるだけ働かせておいてお金はあげませんってのは腹立つよな」
「だろ? オレの言うのが道理ってもんだろ?」と八五郎は鼻息を荒くした。
「でも倉庫ムチャクチャにしておいて金寄越せってのも納得いかないよな」
「こっちが迷惑料払ってもらいたいくらいだよ」とお岸は険しい顔で言う。
双方三人の話を聞いて、エンジュは腕を組んだ。どちらの言うことにも一理ある。そう言いたげに、眉間に皺を寄せていた。しかしどちらの言い分をも採ることはできない。そこが悩ましい。
こうした揉め事を仲裁するのがエンジュの仕事だった。
近年かつてより妖怪だの化け物だのが目撃されることは著しく減っている。有名な妖怪の逸話も江戸時代より前、近世以前のものが多い。文明開化の近代以降は幽霊じみた憑き物や都市伝説のようなものばかり増え、現代に到っては妖怪を見たという人すら見つけるのが難しい。
それにはいくつかの理由があるが、一つに妖怪たちが人間の振りをして暮らすようになったことが挙げられる。鶴牧夫妻のように店を構えて商売をする妖怪も珍しくはない。人間の暮らしが馴染まない妖怪も、人目に触れないところでひっそりと、酒と宴を楽しんで暮らすようになった。手短に言えば、人間の邪魔をしなくなった。
しかし彼らは人ならざるが故に、人には言えない問題を抱えることもある。普通であれば、今回のように雇用関係で不利益を蒙った場合、弁護士に相談するなり、労働基準監督署に駆け込むなり、民事裁判を起こすなりすることが考えられる。だがいつも寺の裏庭で妖怪仲間と酒を飲んで暮らしている八五郎は住所不定どころか人間の戸籍すら持っていない。鶴牧夫妻としても、暴れられたからといって警察に突き出すわけにもいかない。妖怪の存在が露見したり、回りまわって人の世を乱すことになれば、今の落ち着いた暮らしが失われることに繋がるからだ。かつてのような殺し合いはもう御免だった。
そこで、人間の異物を排除しようとする性向が強いことを知っている妖怪たちは、妖怪同士の揉め事は内輪で処理するよう取り決めた。そのためにつくられたのが異形種共同組合──通称『組合』だった。各地に同様の団体があり、人間社会での暮らしを円滑にするため、人ならざるもの全般が組合員になっている。
組合の主な取り組みは組合員の揉め事仲裁だが、一貫した活動の継続や他の組合との折衝のため、専従の役員と持ち回りの当番員とがいる。現場を駆けずり回るのは当番員の方で、エンジュが今しているのがまさにその仕事だ。
しかしエンジュはこの仕事に向いていなかった。天職というものがあればその反対だと言っていい。組合にもいろいろと取決があるが、できれば一つでも覚えたくないと思っている。ややこしいことを考えるのも嫌いだ。
「で、こういうときはどうなんの?」
案の定、エンジュはユウマに水を向けた。
別に呆れたりはしない。ユウマが一緒に来ているのはそのためだ。
「特段の取り決めがない場合は、人間の法律に準じることになっています。今回はそのケースに当てはまります」
ユウマは、エンジュにではなく、鶴牧夫妻と八五郎に向かって言った。三人とも怪訝そうにユウマを見る。それもそうだ。なにせ一人だけ人間が混じっている。何度経験しても慣れないし、相変わらず生きた心地がしないが、ユウマはおくびにも出さなかった。
「じゃあその、人間のルールとやらでは、どうなるんだい」
そう聞いたのがお岸だったので、ユウマは続きを口にしづらくなった。険のある眼差しが怖い。
「えぇまぁ……その、仕事をさせた以上は、お金を払う、ということになってます」
「やった!」と叫んだのは八五郎だった。
お岸は見るからに不本意そうに目を細め、仲蔵はなんともいえない顔をしている。
「おかしいね。前は仕事もできない役立たずなんて放り出したもんだったけどね」
前っていつだろう。ユウマは訝しんだ。まさか江戸時代の話じゃないよな。
「昔はそうだったかもしれません。今は労働者保護法というのがあって、雇う側の責任が大きくなったんです」
「当節じゃろくな働きがなくても金だけは貰えるってことかい。いい世の中になったもんだね」
「鶴牧さんのような真っ当な経営者にとってはいい迷惑だと思いますが、世の中には悪い人がいて、ちゃんと働いてもお金を払わないということがあるんです。なので、一律で立場の弱い雇われる方を守るようなルールになっていて」
「たまったもんじゃないよ。言われたことすらできるか怪しい飲んだくれの穀潰しを、どうしてもって頼むから、親切心で使ってやったんだ。そんな話だとわかってたら門前払いだよ。ちゃんと働けますって熨斗紙ついてるようなやつしか雇いたくないね。誰だってそうだろ。昨今の人手不足なのに就職難なんてバカげた世情も、こんなおかしなルールになってるせいなんじゃないのかい」
話のあまりの飛躍ぶりに、ユウマは「はぁ」と曖昧に応じるしかなかった。因果関係の不明なことに「そうだ」とも「そうじゃない」とも言うことはできない。
更にややこしいことに、このやりとりを聞いていた八五郎は、顔を真っ赤にしていた。そりゃ「役立たず」だの「飲んだくれの穀潰し」だの言われて、いい気がするわけがない。
「てめぇ」といきりたった八五郎が、次に「役立たずとはオレのことか」と続けようとしたのか、それとも「そうまで言われちゃ黙ってられねぇ」とでも言おうとしたのかはわからない。次の瞬間にはエンジュからデコピンを食らわされ、八五郎は涙目で頭を抱えるはめになった。
「ばかやろー、お前が怒れた立場か」
ちなみにエンジュのデコピンは西瓜が消し飛ぶ。
「でもよぅ」八五郎は額をさすりながら、口を尖らせてエンジュを見た。
「でもじゃないだろ。鶴牧さんとこの倉庫メチャクチャにしたのは事実なんだから、そこは反省しろよ。それでも給料は払ってくださるって言ってんだから」
目を丸くしたのは八五郎だけではなかった。
「……払ってくださるんですか?」
ユウマの問いに、お岸は「そりゃあねぇ」と嫌そうに応じた。
「何もケチで出し惜しんでるんじゃないんだ。払うのが筋だっていうんなら、きっちり払うよ」
「あ、ありがとうございます!」
「別にあんたに払うわけじゃないよ」
「ごもっともです」
お岸は店の入り口の方へ歩いて行くと、ちゃきんと音を立ててレジを開けた。中から紙幣を何枚か取り出すと、ペンで何やらしたためた茶色の封筒に、それを入れる。
「はい、ご苦労さん。大事に使うんだよ」
『給料』と大書された茶封筒を手渡され、八五郎は子供のように喜んだ。封筒を両手に持ってはにんまりと笑い、明かりに透かしてはまた笑う。
お岸もそれを見ては、仕方ないねとばかりに苦笑していた。
話のわかる人でよかった。ユウマはほっと息をついた。
今回のようにすんなりと話がまとまることばかりではない。取り決めがあるとはいっても、妖怪たちにしてみれば、喜んで守っているわけではないからだ。不承不承に従っているところに、自分に不利な裁定を告げられたら、怒りもするだろう。その怒りを直接的にぶつけられたり一悶着あることも珍しくはない。決まりだからといって素直に言うことを聞いてくれるのは、押し引きを心得た商売人の面目躍如といったところだろうか。お岸のように物分りのいい人ばかりだと助かるんだけど、とユウマはつくづく思う。
「あれだけ無邪気に喜ばれると、怒る気も失せちまうよ」
そう嘆息するお岸は、いかにも人の好さそうなおかみさんだった。きっと日頃はそうなのだろう。いつか客として来てみるのもいいかもしれない。ユウマはそう思った。
「じゃあ僕たちはこの辺で」
エンジュに目配せして、店の出口に向かった。無事に役目を終えた今、長居は無用だ。
「ちょっと待ちなよ。何か忘れてやしないかい」
背中にお岸が呼びかけた。
振り返ると、そこにいるのはさっきまでの人の好さそうなおかみさんではなかった。腕組みをした蛇女が険のある目で冷たく言う。
「この惨状は、誰がどうしてくれるんだい」
店の中は、荒れに荒れていた。