表紙 » 仮粧町通り商店街 異形種共同組合 ブッダマニアと消えない痕跡

02

組合の事務所は仮粧町通り商店街にあった。

仮粧町商店街ビルという、商店街の振興組合が所有している建物があり、その二階と三階が事務所になっている。二階には振興組合の事務員をしている祖師谷さんという、いつも置物みたいに寝ているように見える、おじいさんかおばあさんかもわからないお年寄りがいて、商店街に関する仕事をしている。ときどき商店街の会長がいるのも、会長と話をしに商店街の人が来るのも二階で、三階へ上がってくるのは特別な事情がある人に限られる。

事務所が商店街振興組合所有のビルにあることからわかるように、商店街の会長は異形種共同組合の理事でもあった。

商店街のある仮粧町けわいまちは昔は職人町で、化粧板・化粧金具・化粧瓦などをつくる職人が多く住んでいたことから仮粧町と呼ばれるようになった、と一般には説明されている。しかしさらに時代を遡れば化生坂けしょうざかと呼ばれていた地で、化生の字を嫌って仮粧坂けしょうざかと変え、後に栄えて仮粧町けわいまちとなった。名前の方が先なのである。

化生けしょうとは化けて生きるもののこと。つまり人間の振りをして生きる、人ならざるもののことを意味する。

エンジュがこの事務所に駐在することになっているのも、そういう事情が背景にあってのことだった。揉め事仲裁の現場担当者である当番員が、組合員である化生の者が多く集まっている近くにいると、相談する方にしてもされる方にしても都合がよい。

しかしエンジュはあまりこの事務所を気に入っていなかった。無理矢理やらされている仕事で気が向かないというのもあるし、部屋で一人やることもなくぼーっとしているのも性に合わない。ユウマと一緒のときは仕方なくここで暇を潰していたりもするが、見回りと称して不在にしていることも多かった。


エンジュと二人で商店街ビルに戻ってきたユウマは、うなだれて階段を昇った。

「酷い目にあった……

思わずそう溜め息をついてしまうのも無理はなかった。

洋食喫茶『セルパン』での鶴牧夫妻と八五郎との揉め事は無事に解決した。それはよかった。急に呼び出されるような事態は珍しかったが、双方納得してくれたし、特段恐ろしい目に合うということもなかった。最近の仕事の中ではかなりうまくいった方だといえる。

しかしその後がよくなかった。エンジュが八五郎とやりあった──というよりも一方的に投げ飛ばしまくって、そのせいで店の中がボロボロになってしまった──ということで、結局、その損害は組合で弁償することになった。その上、店の片付けやら何やらまで手伝わされた。怪力乱神を体現したようなエンジュがいるのでそう時間はかからなかったが、苦手な肉体労働でユウマはすっかり疲れ切ってしまった。

一方のエンジュは疲れを知らない様子で笑っていた。

「あのくらいで音を上げるなよ。相変わらずひ弱だな」

「エンジュの基準だと全人類がひ弱になってしまうよね」

「そうでもないぞ。オレから見てもこいつすげー体力バカだなって思う人間もときどきいる」

「そんな化け物と比べないでくれるかな……

三階まで昇ると、エンジュは事務所の入り口に掛かった『外出中』の札を『在室』に変えた。それからドアノブを手にする。

「まぁそうぶつくさ言うなよ。丸く収まったんだからよかったじゃねぇか」

そう言いながら事務所に入ろうとすると、それまでわりと機嫌よさそうにしていたエンジュの表情が、とたんに不機嫌なものに変わった。露骨にチッと舌打ちする。

「一体どこが丸く収まったのかしら」

事務所内から、酷薄な調子のする声が出迎えた。

ユウマがエンジュの肩越しに見ると、中で待っていたのは、黒いセーラー服の女子高生だった。この近くにある山白菊学園という、明治期からの伝統ある女子校の制服で、それに身を包んだ女性は、前髪の揃った長い黒髪に、恐ろしく整った顔立ちをしている。しかしその見目は麗しいと形容するだけでは十分とはいえず、微笑みにさえ慄然としてしまうところがあるほどの容貌だった。

「出たな烏女」

エンジュが吐き捨てるように言った。

「あらご機嫌ななめね鬼畜少女」

「畜は余計だろうが!」

「まあ怖い。鬼の形相で睨まないでくれるかしら。あなたと違って育ちがいいから、殺伐としたのは苦手なの」

紅葉もみじさん、来てたんですか」ユウマは慌てて口を挟んだ。「お茶でも淹れますよ。緑茶でいいですか。昨日ちょうど堀越園さんのとこで新しい茶葉が出てて──

「お茶が出るなんて、黒江くんが来てくれたおかげで、すっかりここも文化的になったわね」

「ユウマ。茶なんか出さなくていいぞ」

「あら、どうして」

「茶は来客用だ。お前は客じゃねーだろ」

エンジュの言う通り、彼女は客ではなかった。客というのも変かもしれないが、揉め事を抱えて相談にきた組合員ではない。羽合あわせ紅葉もみじは異形種共同組合の常任の役員で、主に当番員との連絡や情報収集を担当している。いやな言い方をすればエンジュのお目付け役とも言えた。

「でも」紅葉は異見を唱えた。「そうとは限らないんじゃない? 相談に乗ってもらいに来たかもしれないでしょう」

「なんの相談だよ」

「可能性の話よ。別に相談に乗ってもらいに来たわけじゃないわ」

「ユウマ塩持ってこい。袋の、でっけーやつ」

「やだ、すぐ暴力に訴えようとする。野蛮」

くすくすと笑っていた紅葉の目が、すっと冷たくなった。

「そんなことだから、組合費を云十万と無駄にすることになるのよ。たった半日の労賃どうこうくらいの話で」

歯をむいて怒っていたエンジュは、ぴたりと真顔になった。

紅葉が言っているのが先ほどの『セルパン』でのことなのは明らかだった。どこから見ていたのだろう。ユウマにはまったくわからなかったが、どこかで監視していたのでなければ、ついさっきの出来事をこんな具体的に指摘できるはずはなかった。

紅葉が冷ややかな態度を示すのは当然と言える。組合の運営は組合員から集めた組合費で成り立っている。どこからか無尽にお金が湧いてくるわけではない。経費の内訳は組合員への説明義務があるし、無駄に浪費していいものではない。

だけど──ユウマはエンジュの横顔を見た。エンジュは何も無闇に暴れたわけでない。力自慢の大入道といえど、八五郎とエンジュとには大きな力の差があった。それも体格差を無視して足四の字固めをかけられるくらいに。なのに八五郎を投げ飛ばしたのだとしたら、それは間違いなくわざとだ。

そしてその理由は、ユウマには察しがついていた。

「店で暴れてる男がいるから来てほしいって言われて、駆けつけたほうがそれ以上に暴れるなんて、何を考えてるの」

「いやそれは」

咎めだてる紅葉に、ユウマが口を挟もうとすると、

「余計なこと言うなっ」

エンジュが腹にパンチを入れた。

ユウマは思わずもんどり打って倒れそうになる。

倒れなかったのは、崩れ落ちるユウマを紅葉が抱きとめたからだった。

「あ、あなた! 黒江くんになんてことするの!」

ユウマは紅葉の腕の中でぐったりくずおれていた。それもそのはず。パンチを腹に受けて、背中から1メートルくらい後ろまで衝撃が抜けた。

「あることないこと言おうとするからだよ」

……あなたもしかして、他にもなにかしでかしたんじゃないでしょうね」

「さーな。知りたきゃ調べろよ。それがテメェの仕事だろ。で、結局何しに来たんだ。わざわざ嫌味を言いに来たのか?」

「事実確認を嫌味と感じるのは、後ろめたいからじゃないかしら。用件ならちゃんとあるわよ。『セルパン』に支払う弁償金は、エンジュ、あなたへの給与から差し引きます」

「は!? ふざけんなよ」

「あたりまえでしょう。あれを組合費で払うなんて、他の組合員が納得すると思う?」

「そ、損害賠償金を給料から天引きするのは、違法……

紅葉に抱きかかえられたまま、ユウマが息も絶え絶えに声をこぼした。

「そうね。人間のルールでは。でもね黒江くん、知ってると思うけど、私たちの間では私たちの取り決めが優先されるのよ」

それを耳にしてユウマは力尽きた。

「私だってできればそんなことは避けたいのだけれど。あなたの任期が伸びれば伸びるほど、迷惑を蒙ることになるんだから……

「だったら知らないフリしてろよ」

「どっちにしても、監査のときに目を付けられるだろうから、今問題になるか、後で問題になるかの違いでしかないのよ。残念だけれど」

「笑顔で『残念だけれど』はねーだろ。ちょっとは残念そうな顔をしろ」

「辛いときこそ笑顔が大切なのよ」

「そういうのは自分が辛いときに言え」

「まあ酷い。まるで私が槐をいじめて悦んでるみたいに言うのね」

「その通りだろーが。ったく、何をどうしたらこんな歪んだ性格になるんだ」

「歪んだ鏡に映ると、真っ直ぐなものも歪んで見えるのね。辛いに決まっているじゃない。迷惑かけられるのは私の方なんだから。それより大丈夫かしら。黒江くん、さっきから息してないように見えるけれど」

「知らん。心配なら人工呼吸でもしてやれ」

「私が? いいのかしら?」

「嫌がれよ! なんでちょっと嬉しそうなんだよ!」

「あら。だって私、黒江くんのこと好きよ。助けてあげるのに、嫌がる理由なんてないじゃない。でも本当にいいのかしら」

「何がだよ」

「だって私が息を吹くと、吐息が旋風つむじかぜに変わるじゃない?」

「やめろ。ユウマを殺す気か。つうかだったらなんで嬉しそうにしたんだよ」

「槐がやれっていうから」

「答えになってねえ……

「あなたがしてあげたら? 人工呼吸」

「は? 嫌に決まってんだろ。誰がするか」

「ふうん、随分冷たいのね」

「大体、大して力こめずに打ったんだ。これくらいで死にやしねーよ」

「衝撃が1メートルくらい後ろにまで抜けていっていた気がするのだけれど」

「本気でやったら内臓が10メートル先まで飛んでる」

「本気かどうかが問題なんじゃなくて、黒江くんにとって致死的かどうかが問題なのよ」

「わかったわかった。じゃあ生きてるか確かめればいいんだろ」

「生きてるか、じゃなくて、生きていることを確かめたいの。それと命に別状がないことを」

「細かいことうるせーな。確かめるよ」

「どうするつもり?」

「まぁ息が止まってるっていうんなら、やっぱ人工呼吸してやるべきだろ。そのためにちょっとこれを借りる」

エンジュはユウマの懐から携帯電話を取り出した。

「それで?」

「電話をかける」

「ロック、掛かっているんじゃない?」

「知ってるだろ、暗証番号」

「もちろん。たしか同じ学校に通う生徒の誕生日」

「あぁ、なんの数字だよと思ったら、そういうことか」

「知っているのなら聞かないで。それで、どこにかける気?」

「その暗証番号の日に生まれた女」

「電話してどうするの。『お友達の黒江くろえ夕間ゆうまくんが倒れて息をしていないんです。人工呼吸しにすぐ来てください』とでもお願いするの?」

「おう」

「来るわけないじゃない」

「いや、来てくれると思うぞ。見るからに人が好さそうなやつだったから。お前もそう思うだろ?」

エンジュはそう言って、自分の手から携帯電話を奪い返したユウマに笑いかけた。

「来てくれるわけないだろ」ユウマはふくれっ面で答えた。「来てくれるわけないだろうけど、絶対呼ばないでよ」

「呼ばねーよ。お前が死んだフリとかしなきゃな」

「別に死んだフリしてたわけじゃないんだけど……

「よかった。黒江くん、無事だったのね」

「紅葉さん僕のこと殺そうとしてましたよね」

「誤解よ。槐に嵌められそうになっただけ。私が大切な黒江くんを傷つけるようなことなんてするはずないじゃない」

「倒れ込むところ支えてくれたのはありがとうございました」

「いいのよ。頭を打ちでもしたら大変だから」

もし「なにが大変なんですか」と聞いたら、「黒江くんの頭までまともに働かなくなったら私が困るじゃない」とでも返ってくるかもしれない、とユウマは思った。

「さて黒江くんも無事に生き返ったことだし、私は帰ることにするわ」

「おー、さっさと帰れ」

「つれないわね。社交辞令でも一応は引き止めるのが礼儀ではなくて?」

「お茶くらい飲んでいってください」

「ありがとう黒江くん。今度二人きりのときにご馳走になるわ」

紅葉は背中から黒い翼を広げて窓から飛び去ったりはせず、スカートから伸びる黒いタイツに黒いローファーの二本足で、事務所の扉に歩みを向けた。

「そういえば」紅葉は思いついたように振り返った。「知っているかしら。巷で噂の連続殺人事件」

連続? ユウマは疑問に思った。世間を騒がせているというほどではないが、最近起こった殺人事件といえば一つしか思い浮かばない。

「あの路上殺人のことですか?」

事件が起きたのは少し前のことだった。仮粧町通りからもそう遠くない住宅街の路上で女性が倒れているのが見つかった。被害者の身元は不明で、警察は殺人事件とみて捜査をしている、と初期の報道にはあった。

「ニュースになってましたね。被害者の身元が判明したとか」

しかし紅葉の表現とは大きく異なる点がある。

「他に被害者が出たっていう話はなかったと思いますけど」

ユウマが疑問に思ったのはその点だった。事件は、一応はテレビや新聞で手短に取り上げられてはいても、それほどの騒ぎにはなっていない。単発的な殺人死体遺棄事件というものは、ユウマを含め、大方の人々にとって他人事に過ぎないからだ。ただ連続殺人となると話は変わってくる。

「新たな被害はまだ出てはいないわ。幸いにもね」

「どういうことですか?」

「黒江くんは知らないでしょうけれど、この事件は、もっと前から起きているの」

ユウマは余計わけがわからない。

「あのクソッタレな事件と同一犯ってことか」

エンジュがぽつりと言った。その表情は、先ほど紅葉から“鬼の形相”と揶揄されたときのように牙を剥いてはいなかったが、目の奥には深い敵意を滲ませていた。

「この際、黒江くんにも話しておくけれど」紅葉はエンジュには答えず、ユウマに向かって話を続けた。「以前から、組合員が消される事件が続いているの。人間社会で暮らしているものも、その辺をふらついているようなのも、無差別に襲われている。狙われる対象も殺され方も様々で、被害者が人間ではないということ以外に何の関連性も見出せない……ただ共通していることが一つだけあって、どの被害者も、喉を抉られている」

「喉を……?」

「理解し難い行動だし、半信半疑だったけれど、今回の事件ではっきりしたわ。犯人は喉仏のあたりを抉って軸堆──つまり第二頚椎を持ち去っていたの。普通だったら一種の“記念品”のつもりなんでしょうけど……

「要するに」ユウマは今の話を頭の中でまとめた。「その事件と、今回の殺人事件は、異常な手口が一致していて、同じ犯人の仕業だと」

「そういうことよ」

「ただし今回だけは被害者がいつもと違う……

南木なぎの線は消えたな」とエンジュが言った。

事情を飲み込めずにいるユウマに、紅葉が話を接いでくれた。

「組合員を殺されて、私たちも手をこまねいていたわけではないわ。犯人を見つけようと色々と動いてはいるのよ。人間の殺人とは違って証拠みたいなものがあまり残らないから、そう捗々しくはないのだけれど……一応いくつか当たりはつけていて、南木家の一派とかギルドの連中には注意していたの。でも──

「南木のやつらが人間殺すわけねーからな」

二人の言う“南木”の一族については以前ユウマも少しだけ聞かされたことがあった。人ならざる者たちがまだ人間に多く害をなしていた時代、反対にそれを狩っていた人間たちの末裔──「人間社会に害を及ぼさない」という条件で今は休戦状態にはあるが、化生の者たちとの折り合いは非常に悪いという話だった。

「じゃあその……何て言いましたっけ、もう一つの方があやしいってことですか」

「まぁそうなるな」

とエンジュは同意したが、

「私が言おうとしていたのはそのことなのよ」

紅葉は頷かなかった。

「槐、言っておくけれど、あなた、余計なことはせず大人しくしていなさいよ」

「は? 余計なことって何だよ」

「ギルドの連中のところに殴り込んだり、そういうことよ」

「しねーよ」とエンジュは目を怒らせて言い返すが、しそうだ……とユウマは思った。

「この件はこちらでも色々と手を回しているから、あなたに勝手なことをされると迷惑なの」

「だからしねーっつってんだろ」

「本当かしら。いずれ耳に入るだろうから伝えはしたけど……ただでさえ厄介事を余計ややこしくするのが得意なんだから」

「そんな面倒くさそうな話に関わってられるかよ。頼まれたってお断りだ」

「それならいいのだけれど」

そう言い残すと、紅葉は再び長い黒髪を扇のように振って背を向けた。事務所の入り口から出ていくと、顔を半分だけ戻して見せて、「差し入れ。冷蔵庫に入っているから」と言って、帰っていった。

コンクリート造りの階段をカツコツと降る音が次第に遠のいていく。

「やっと帰ったか」とエンジュが憎々しげに言って、どかっと応接用の椅子に腰を下ろした。小柄な体躯にはちょっと大きすぎて不釣合いだが、前からあったものなので仕方がない。

ユウマが事務所の調理スペースに設置されている冷蔵庫を開けると、中には取っ手のついた小ぶりな紙の箱が入れてあった。要冷蔵と印字されてある。賞味期限は当日限りだ。

「エンジュ、緑茶と紅茶、どっちにする?」

そう声をかけながら、ユウマは冷蔵庫から紙箱を取り出した。

エンジュはそれを横目にじろっと見た。ちょっとふくれっ面をしている。

「食い物なんかで簡単に買収されるな」

「でもケーキだよ。パスティチェリア花菓子野かかしのの」

その店は、仮粧町通りの商店街からは少し離れた住宅地に、一見民家風の家屋でぽつんと開いているケーキ屋で、ひそかにエンジュが気に入っていたのだが、地域情報誌で取り上げられて以来、お客さんが列を成してやってくるようになってしまった。そうなる前に何度かユウマもエンジュとその店のケーキを食べに行ったことがある。口に入れた瞬間はさらりとしていてあまり甘みを強くは感じないのだけれど、のんびり食べているとじんわりと心地よい甘さが広がってくるような、そんな品のある味だった。

「折角なのに。腐らせるともったいないよ」

「お前が全部食えばいいだろ」

「まぁ、そう言うなら……

仕方なくテーブルに紙箱を置くと、ユウマは再びキッチンに向かった。やかんに水を入れて火にかける。その間に昨日堀越園で買ってきた茶葉を開封する。

堀越園は仮粧町通り商店街にある葉茶屋で、店主はもちろん組合員だ。この店では茶園から仕入れた茶葉をそのまま売ってもいるが、店で合組ブレンドしたものも販売していて、おすすめされるままに新商品を買ってきてあった。

お茶の用意をしてユウマが戻ってくると、テーブルの上の紙箱を横目に見ていたエンジュが、ぷいと顔を背けた。

急須に湯呑にと並べて、ケーキの箱を開ける。箱は平べったく開ききるようになっていて、イチゴ、レモン、ショコラ、チーズ、ベリー、一口サイズの小さなケーキパスティチーノが色とりどりに並んでいた。

「美味しそうだね」

「そりゃよかったな」

「本当に食べないの?」

「しつけーな。いらねえっつってんだろ」

「でもこれは……さすがに一人で食べるには多すぎるよ」

「このくらい食えるだろ。根性ねーやつだな」

「半分食べない?」

「やだ」

「でも賞味期限は今日までだし……残りは捨てることになっちゃうな。案山子野かかしのさんが知ったら悲しむだろうなあ」

ユウマは、パスティチェリア花菓子野の店主の朴訥とした、どこかすまなさそうなはにかみを思い浮かべて、実際に申し訳ない気がしてきた。

「そんなの言わなきゃいいだろ」

「次お店に行ったとき、まともに案山子野さんの目を見れる自信がないよ」

…………

「『いやあ久しぶりだねえエンジュちゃん! 最近来てくれないから寂しかったよ。エンジュちゃんうちのケーキほんと美味しそうに食べてくれるから、作ってるこっちも嬉しくてしょうがないんだ。今日はどれにする?』」

「イヤなこと言うなよ! わかったって。食うよ。食えばいいんだろ」

エンジュは根負けした様子で、腕組みをして応接椅子の背もたれに身を預けた。

ユウマがもう一人分の皿とフォークを取ってくると、エンジュは口をきゅっと結び、真剣な目でテーブルの上に並んだケーキを見つめていた。

「半分ずつね。どれがいい?」

「えーっと、そうだな……ッてばかやろう、どれでもいいっての」

「じゃあ僕が好きなのをもらおうっと」

ユウマはエンジュが好きそうなのを避けつつケーキを自分の皿へと移していった。

久々に食べたパスティチェリア花菓子野のケーキは相変わらず美味しかった。一口サイズのケーキだが、ゆっくり味わったほうが楽しめるので、フォークの側面でさらに小さくカットして、少しずつ口にする。ちらとテーブルの向かいを覗き見ると、ケーキをほおばるエンジュもめずらしく外見相応の子供みたいな笑顔になっていた。

ユウマはほっとした。エンジュの虫の居所が悪いと被害を蒙るのはユウマなのでとてもありがたい。心の中で紅葉の差し入れに感謝した。

いやでも──ふと思いあたった。紅葉の持ってきたものなんて誰が食うかとエンジュがこだわるであろうことは予想がつくはずだろうに、あえてエンジュの大好きなものを冷蔵庫に入れておくのは、レベルの高い嫌がらせなのかもしれない……。さすがにそれは穿ちすぎか。人の好意を疑うのはよくないとユウマは頭を振った。

「悪かったな」

ケーキを食べ終わって、エンジュがぽつりと言った。台所で食器を洗って戻ってきたばかりのユウマは、意外そうに目をちょっと見張ったが、一言「うん」と返した。

何が、と聞く必要はなかった。ケーキのことではないし、ましてや腹パンのことでもない。しっちゃかめっちゃかにしてしまった『セルパン』の片付けをさせられたことでもない。

ユウマは事情があって、エンジュが組合の当番員を務めている間、その仕事を手伝うことになっていた。今回のようにエンジュが損害を出して、それを働いた給料であがなうということになると、その分を稼ぐだけお役目が長引くということになる。

「いいよ」

顔を背けているエンジュに、ユウマは笑顔を向けた。

「八五郎さんのためにやったんだろ」

ユウマが店に着いて、足四の字固めをかけるエンジュを止めて話を聞いたとき、おかしいと思った。それくらい力の差があって、あんなに店が荒れ放題になるはずはない。エンジュがわざと暴れでもしない限りは。

その理由をユウマはこう考えていた──エンジュが到着したとき、既に店内はそれなりに荒れていたのではないか。もし八五郎の言い分が通って給金は貰えるようになったとしても、それとは別に店の損害を弁償させられる。酒を飲む程度の金が欲しいだけの八五郎にそんなもの払えるはずがないし、おさまりもつかないだろう。そこで、エンジュが“やりすぎてしまった”ことにした。

「ばーか、そんなんじゃねーよ。想像で勝手なこと言うな。オレがそんな頭回ると思うか」

「三方一両損ならぬ一方十両損だったけど、まあ最終的には八五郎さんも鶴牧さんも笑ってたし、よかったんじゃないかな」

「だからちげーつってるだろ。あんまりしつこいと張っ倒すぞ」

エンジュは鬼歯を立てて怒ったが、本当に違ったら口より先に手が出ている。ユウマは、まったく天邪鬼あまのじゃくなんだからと思いはしたが、そう言うとあんな小物と一緒にするなと怒られるのがわかっているので、口にはしないでおいた。


…続く