表紙 » 仮粧町通り商店街 異形種共同組合 ブッダマニアと消えない痕跡

03

ユウマが帰るころには夕陽が辺りを染めていた。茜色の商店街に人通りは多い。近くに大型のアーケードを備えた繁華街があり、そこから流れてくる人たちでこの時間は休日も平日も賑わう。夕方まで遊んで帰ろうとしている人、これからどこかで夕食をとろうとしている人。行くも帰るも擦れちがう人たちの流れに混じって、ユウマも通りを歩いた。

仮粧町通りを裏手に折れると、細い路地に家々が密集している。この辺りはどこも一方通行を自家用車がスレスレにやってくると歩行者が脇に避けて通すくらいで、家屋の多くがコンクリート製のビルに建て替わったといっても、廃藩置県前の城下町の名残をその道幅に留めていた。店というほどの店はなく、小規模なオフィスか民家が多いあたりではあるし、繁華街へ向かう近道というわけでもないので、表通りの賑わいが嘘のように人気はない。狭い道を進んでいくと、通りの喧騒は少しずつ遠のく。

路地の分かたれた一端は、明鹿橋めいろくばし通りという片側二車線ずつ往復四車線の車道に繋がっている。西へ向かうと明鹿橋という元は年に架けられた橋に至り、かつて城の堀を兼ねていたという二級河川を渡している。明鹿橋通りに出るだけなら仮粧町通り商店街を歩いても同じことだが、人通りの少ない裏道を抜けるほうが歩きやすかった。

左右を民家の塀に挟まれた裏路地の出口から表通りへと出ると、支流が大きな河に合流するように、視界が開ける。互い違いの交差点になっている場所で、こちらの路地から見ると、道路の向こう側にも筋違いに細い路地が延びている。どちらも小路なので信号はないし、横断歩道もない。行き交う車は当然として、歩道を歩く人たちもどことなく足早に見えた。

ユウマはそこで足を止めていた。普段なら通りに沿って明鹿橋の方へ歩くのだが、今はその視線の先は、車道を挟み、反対側の歩道へと向けられていた。

奇妙な光景だった。

歩道は白い柵状のガードレールで車道から隔てられている。ただ小路があるのでガードレールもその部分は向こう側でも途切れている。その白い鉄柵の切れ間に、車道に向かってたたずんでいる、女性の姿があった。少しうなだれているからか、顔は見えない。身形みなりや背格好から女性と思った。

途方に暮れている、というのとは少し違う。下を向いた彼女の前を車両が何台も通り去っていく。女性は自動車のことなど見てもいないし、目の前の路側帯を自転車が走り抜けても、驚いたり、後ずさったりする様子もない。ただ、両手をだらんと下ろしたまま、その場に立ち続けているだけだった。

車道を渡りたいのであれば、きょろきょろと左右を確かめたりするはずだ。しかしそんな素振りをまったく見せず、信号も横断歩道もない道路脇でただ立ち尽くしているというのは、見る人を不安にさせる光景だった。思い過ごしかもしれないけど──拭い去れない嫌な感覚が、ユウマをその場に刺し留めていた。

──そのまま一歩を踏み出すのではないか。

「ユウマ、見るの、ダメだ」

不意に後ろから声をかけられた。

ユウマが歩いてきた裏通りの壁際、電柱に挟まれたその隙間に、ぐねぐねとゴムボールを押し潰したように大男がはまり込んでいた。男は電柱と塀の間から顔をぐにっと押し出すと、もう一度「見るの、ダメだ」と言った。

「狭間さん」ユウマはちょっと驚いたように男の名を呼んだ。

「ユウマ、あれは、見るの、ダメだ」

狭間はあくまでこだわった。ユウマに向けられた顔は、目が左右で別々の方を向いていて、そのどちらも瞳孔はユウマとは違う方を見ていたが、ユウマには真剣に訴えかけているのがわかった。

「あれは幽霊だってことですか?」

「そう。あれは、ユウマ、見るの、ダメだ」

言われてみれば──ユウマは思った。あらためて考えるとおかしなところがあった。あんな不自然な様子で女性が車道脇にたたずんでいるのに、道行く人たちは誰も彼女を意に介していなかった。目の前を走り抜けていった自転車も車体をかわすような素振りすらなかった。それに、顔も──今思うと、うつむきがちだから見えないというより、見ても認識できないという感じに近かったかもしれない。

「わかりました。しばらくこうしてます」

ユウマは狭間の言う通りにすることにした。表通りに背を向けたまま。その様子を見て、狭間は満足げににたぁと笑った。

「いつもすみません」

ユウマが上目遣いに軽く頭を下げると、狭間はにたぁと笑った顔のまま、目玉をぐるぐると動かした。

「いいよ。エンジュ、ともだち。ユウマ、ともだち」

エンジュは狭間の友達だから、そのエンジュと仲のいいユウマも友達だ、ということだろうか。ユウマもちょっと照れくさそうにはにかんだ。

ユウマが狭間と知り合ったのはもちろんエンジュを通してだった。エンジュはどちらかというと、人間社会に溶け込んでいる化生の者たちより、その辺でひっそり暮らしている物の怪たちと仲がいいらしい。そのうち一部の物好きはユウマに親切にしてくれることもあった。狭間のように霊感が強い者は、今のように、ユウマが幽霊を見てしまうのを止めてくれたりする。

ユウマが幽霊を見てしまうのは多分生まれつきのことだった。そしてそれがユウマがエンジュの仕事を手伝うことになった理由でもあった。

人は見るものすべてが見えているわけではない。いつも通る道にある壁代わりの垣根に小さな花が咲いていることに気づかなかったり、部屋の衣替えで冬向けのカーペットが夏向けの竹のものに替わっているのに気づかなかったり、「なにか変わったと思わない?」と言われてうろたえたり。古い歌に《若かる我は見つつ観ざりき》と云うが、《沈みて匂う夏霞》が見えるには老成の詩人の眼さえ必要になる。

それは人間の欠点ではない。パターン認識技術が発達する以前の人工知能にとって外界の認識が複雑に過ぎてすべてを逐次処理しようにも処理しきれなかったのと同様に、あらゆるものを見ようとすると人間の認識能力の容量キャパシティなど容易く超えてしまう。見え過ぎてもいけないのだ。人間の認識能力という限られた資源リソースで、生存するのに必要なものを優先的に認識していくというのは、たとえそれが不完全さをはらんでいても、長い自然淘汰の歴史の中で生物が培ってきた優れた能力であった。

そしてその優れた能力は、何を見るかだけでなく、何を見ないかという点においても発揮される。世の中には見てはいけないものがある。

見てはいけないもの──人を祟る霊の多くに、自分を認識した者に憑りつくという習性がある。つまり幽霊が見えてしまう人間はそれだけ祟り殺される危険リスクにさらされているということに他ならない。幽霊が見えないように進化することは、人類にとって、末の代まで血を繋ぐのに有利な適応だった。その結果として、大半の人は、程度の違いこそあれ、「幽霊が見えない」という優れた能力を備えている。

しかし生物にはときに、退化というかたちで進化したはずの器官が、潜在的には残っているということがある。たとえば、犬や猫のように哺乳類はいくつもの乳房を持つが、人間も二対より多くの副乳を持って生まれることがある。またそれは、母はなんともないのに祖父や孫は色の見え方が異なる色覚特性の隔世遺伝のように、特定の因子を保有していても、ある世代では潜在したままなのに、ある世代では発現するということもある。

一旦は退化しきったように思えた能力が潜性遺伝をし、ある固体にだけ再び顕出する。その度合いの大きさはとにかくとして、現象そのものは不思議なことではない。

ユウマは幽霊が見えてしまう。それも幽霊を幽霊と判別することもできないほど自然に見てしまう。それは人類が有史以前から育んできた危機回避能力を持っていないことを意味していた。もちろんあらゆる霊が祟るわけではない。むしろ害のない霊も多い。しかし幼い頃からユウマは、本人はそれとは知らず、危険な目に遭うことも少なくなかった。

『目を覆ってやろう』

そう言ったのは、エンジュが引き合わせてくれた老体だった。目明しという妖怪らしく、この地域の長老であり、エンジュの属する仮粧町異形種共同組合の組合長でもあるらしかった。

『そうすれば見たくないものを見ないで済む』

しわがれた声がゆっくりとユウマに届く。

確かに目を潰せば見てはいけないものを見てしまうこともなくなる。しかし、いくらなんでもそれは困る。そう思いつつ、恐ろしげな雰囲気にユウマが口を開きあぐねていると、エンジュが代弁してくれた。

『見たいものも見えなくなったら困るだろ』

『贅沢を言うやつめ』目明しはユウマに向かって言った。『見たいものだけが見えるようになりたいなど手前勝手にもほどがある』

『それが普通だろ。幽霊が見えないようにしてやるくらい、いいじゃねえか』

『人は好きなものだけを見て生きてはいない。嫌なもの、醜いもの、辛いものも見えてしまうように生まれてしまった。それには意味がある。その小僧が見てはいけないものを見てしまうというのなら、それにも意味がある』

『妖怪のくせにまるで神さまでも信じてるみたいな口ぶりじゃねえか』

『儂らには神の恩寵も仏の慈悲もない。あるのは自然の摂理だけだ』

『だったらいいだろ』

『与えられたものに背を向けて、それが善い結果を生むと思うか。むしろ逆であろう』

『殺されるよかましだろーが。こいつ、放っといたらそのうち死ぬぞ』

『人もあやかしもそのうち死ぬ』

『老い先短けぇジジイと一緒にすんな』

エンジュは、ユウマのために戦ってくれているのか、それとも日頃から仲が悪いのか、目明しとの言い合いを延々と続けた。結果として目明しはユウマを幽霊が見えないようにしてやってもいいと約束してくれた。ただそれには条件があり、それがエンジュの組合の仕事を手伝うということだった。

「ユウマ」

電柱の隙間に挟まったまま、狭間が声をかけてきた。

「もう平気」

ユウマが表通りを振り返ると、向かいの歩道には誰もいなかった。筋違いの路地を、黒髪の女性が歩いて行くのが見える。とぼとぼとした足取りは、迷子の子供のようでもあった。

「ありがとうございました。助かりました」

あらためてユウマが礼を言うと、狭間はにたぁと笑った。

「ユウマ、すぐ見る。ユウマ、心配。放っとけない」

「すみません。気をつけてるつもりではあるんですけど」

狭間はエンジュの友達の中でもとりわけユウマを気に掛けてくれることが多かった。彼らの大半はどちらかというとエンジュが人間なんかとつるんでることを奇怪に思っているらしく、ユウマのこともことさら相手にはしてくれない。それからすると狭間の親しみのよさは特別だった。

そもそも人間社会に溶け込まず暮らしている物の怪たちの多くは名前を持っていない。彼らの間では「あいつ」「こいつ」「おまえ」で十分通じるらしく、人間のように名前がなくても困らないのだそうだ。人間の振りをして暮らす化生の者たちはもちろん人間風に姓名を持っているが、そういった事情がなければ、名前は必ずしも要るものではない。

それでも『セルパン』で暴れていた八五郎のように仕事というかたちで間接的に人間社会と関わったり、狭間のように人と交わって面白半分で名前を欲しがったりと、様々な理由で名前を持つこともあった。狭間にせがまれて名前を付けてあげたのはユウマだった。

狭入道はざまにゅうどうだから狭間ってなぁ……もうちょいひねりとかないのかよ』

エンジュはそう腐したが、狭間は思いのほか喜んでくれた。他の仲間にもこれからはハザマサンと呼んでくれと言いふらしていたそうだ。〝さん〟まで名前だと思っているらしかった。


…続く