05
目が覚めたと気づくより前に嫌な感じがした。朝起きて、時計が静かにしているときというのは、早く目が覚めたか、アラームをかけ忘れたかしかない。光の加減と、目蓋の軽さが、思考が働き出すのに先んじてすでに予感というかたちで答えを与えてくれていた。寝坊した。
ユウマは慌てて布団から起き出すと、ハンガーに掛かった制服を見てちょっと悩んで、やはり洗面所へと向かった。こんな悠長なことをしている場合ではないと思いつつ、しかし寝起きのまま出るのも無謀に思えて、出来る限りの速さで顔を洗って歯を磨いて頭髪を検めて寝癖はついていないことにホッとする。
居間を通りがかるときにはすでに制服に着替え、通学用の鞄を手にしていた。
「起きてたの? 朝ごはんは?」
「ごめん、遅刻するから今日は……」
「遅刻って。まだこんな時間じゃない」
母親の言う通り、登校時刻にはまだたっぷりと余裕があった。確かにユウマが普段家を出るのより少し遅いとはいえ、慌てるような時間ではない。しかし学校に遅刻するのなんかよりよっぽど重大な事情がある。
ユウマは母の疑問には答えず、急ぎ足で玄関へと向かった。家を出ると、ためらいなく駆け足になる。まだギリギリ間に合うかも。無理だろうとは思いつつも、一縷の望みに期待をかけて、ユウマは息を弾ませた。
ユウマの通う楠ヶ谷高等学校は家から徒歩で行ける距離にあった。別に近くだからという理由で選んだわけではない。何ならもうちょっと遠ければ自転車通学ができて楽でさえある。進学した当初は中途半端な距離の学校に通うことになったのを恨めしくとまでは言わないにしてもなんでもっと受験勉強をがんばっておかなかったのかと自分を呪った。しかし最近ではむしろ幸運だったとさえ思っている。
いつもなら目的の場所より少し手前で足を緩めるところだが、今日はそうしなかった。できれば角を曲がる前に、何度かゆっくりと呼吸をして、走ってきたことが顔に出てしまわない程度には息を整えておきたかった。しかし今はそうも言っていられない。
時計を見る。いつもより五分も遅れていた。
元々ユウマは朝が早いというわけではない。中学生のころもそれ以前も、遅刻ギリギリというほどではなくても登校するのは遅い方だったし、それは高校に進学してからも同じだった。それが毎朝早起きをして同じ時間に登校するようになった。
今日より五分前、いつもの時間にこの角を曲がると、その時間にはたまたま桜町陽鞠が登校してくる。たまたま通学路で出くわして、同じ高校に通う以上どうせ向かう先は同じだからと、学校まで一緒に歩くことになる。その偶然を毎朝起こすために、ユウマは毎晩翌日の準備を済ませた上で早めに布団に入るようにしてさえいた。そうやって早起きして、少し先に着くようにしておいて、間違いなく偶然鉢合わせするよう、角の前で時間を潰してから出てゆく。
「黒江くんって、時間に正確なんだね」
陽鞠はときおりそう感心したが、下心あってのこと故にユウマは後ろめたく笑うしかない。ちなみに陽鞠はいつも『kuma+kuma』という朝の地域情報番組を見終わってから家を出ているらしく、それで毎日同じ時間にこの場所を通るのだそうだった。ユウマもその番組を見てみたが、地域の情報をお届けするという建前はほったらかしにして、熊の着ぐるみと人間の女の子がひたすらお喋りしていた。
その番組が今日だけは〈五分くらい繰り下げて放送されてたりしないかな……〉とユウマは願った。もしくは陽鞠も〈たまたま今日だけ寝坊してたりとか……〉。
起こりそうもない万が一に賭けて、間に合わないのがわかっているのに急いで来てしまうくらい、既にユウマは冷静さを欠いていた。そう都合のいい偶然があるはずもなく、角の先に出ても、通りを歩いてくる陽鞠の姿はない。それでも〈いや寝坊したかもしれないとすれば……〉そんな見込みのない前提の上に〈もしかするともっと遅れて来るということもあり得るかも……〉と、あり得そうもないことをもっともらしく考えて、遅刻ギリギリまでここで待とうかなどとさえ思いはじめているあたり、恋というものが人を愚かにするという言い古された言葉にはかくも真実味がある。
「黒江くん」
そんな迷妄に捉われた背中に、声が投げ掛けられた。ユウマが振り向くと、通り沿いにあるクリーニング店の狭い駐車スペース脇にある自動販売機の前で、制服姿の女の子が飲み物を手に立っていた。
「おはよう。今日はちょっと遅かったんだね」
にっこりと微笑むのに合わせて、長い髪がたおやかに揺れる。
思いがけない光景にユウマは当惑しつつも、自然と自分の顔が綻ぶのを感じた。なんとか平静を装おうと頬の筋肉を緊張させる。
「おはよう」ユウマは自動販売機の方へ早足で歩み寄った。「ちょっと寝坊しちゃって……」
「そうなんだ。珍しい」
「桜町さんこそ」
どうして? と思う気持ちを抑えつつ、ユウマは陽鞠の手にした280mlサイズのペットボトルを見た。陽鞠は学校に行く途中、飲み物を買ったりすることは普段ない。
「あ、これ?」と陽鞠は、果実の写真にシンプルな顔が描き足されてあるラベルを、ちょっと掲げてみせた。
「待ってる間、なんか飲みたくなっちゃって」
ユウマは一瞬、言葉を失った。心臓が鼓動を早め、全身に熱を帯びた痺れのようなものを送り広げてくる。聞き間違いじゃないだろうか。思ってもみなかった陽鞠の言葉に、ユウマは目が回るようだった。
「ま、待ってたって……?」言わなくてもいいことをつい言ってしまう。
陽鞠はさも当然のように笑って答えた。
「だっていつもは黒江くんが待っててくれてるから」
ユウマは思考が停止したかのように固まってしまった。
……毎朝ちょっと早めに来ているくせにさも偶然出くわした振りをしていることが陽鞠に知られてしまっていたのは予想外で、顔を覆って走り去りたい衝動に駆られる。できれば存在ごと消えてなくなりたい。しかしそんな即死級の恥ずかしさと同時に、真逆の感情が起こって、ユウマの情緒を無茶苦茶にしてしまっていた。
もちろんユウマだって毎朝一緒に登校している友達が遅れて来たら待つ。でもそれは一緒に登校するという暗黙の了解が二人の間に形成されているからであって、偶然一緒になる顔見知りをその日はたまたま見かけなかったからといって待ったりはしない。そうすると、陽鞠はいつもユウマと一緒に学校に行こうと思ってくれていたというわけで、その事実はユウマの平常心を叩き割るには十分な威力があった。
歩きながら話すのは、いつもとりとめのないことばかり。陽鞠は喋り好きで、ユウマはそれを聞いているのが好きだった。人の話を聞くのは元々好きな方だが、その相手が陽鞠であれば楽しくないということなどあり得ない。
「──それでね、藤崎さんバイトの途中で寝ちゃったんだって。びっくりだよね。そう、商店街の喫茶店。バイト先のおかみさん、親切だけど仕事にはすっごく厳しい人だっていつも言ってたから、『すごく怒られたんじゃない?』って聞いたんだけど、『全然』って。むしろどこか具合が悪いんじゃないかって心配してくれたんだって。私、前に友達と『藤崎さんの働いてるところ見学しよ~』ってなって、みんなでお店に行ったんだけど、ちょっと怖そうな人だなって……うん、おかみさん。でも本当は優しい人だったんだね。そうそうそれで、藤崎さん、寝てる間、変な夢を見たらしくって、それが──」
花が咲くように話す陽鞠の言葉を聞きながら歩くユウマの足取りは軽やかだった。
今日は半ば諦めていたのに、こうして陽鞠と一緒に学校に行けることになった。それに──ユウマは横で楽しそうに喋っている陽鞠の顔をちらと見た──ちょっとだけ前より距離が縮まったと思っても、きっと思い上がりではないと思う。
こうなってくるとすべてがよい兆しのように感じられた。天気もいいし、風も穏やか。今日はすごくいい日になりそうだ。
その人物に気づいたのは、陽鞠の方が先だった。
「あれ? あの子」
陽鞠がそう言ったのにつられて前の方に意識を向けると、少し先の十字路から出てきたらしいロングスカートの女の子が目についた。くせっ毛のショートボブにバンダナを巻いてとナチュラル系のショップ店員みたいな格好をしているが、目つきはやけに鋭い。歩き方も横柄だ。
向こうもこちらが気づいたことに気づいたらしく、気さくな感じに手を挙げた。
「よう、いいところで会ったな」
にこにこ顔で声をかけてきたエンジュとは対象的に、ユウマの表情は固まっていた。いいところで会ったもなにもない。何の理由もなしにエンジュが朝の散歩なんてするタイプではないことは知っているし、なにより笑顔がいけなかった。エンジュがにこにこしているのは大抵、何か厄介ごとを持ち込もうとしているときだ。
なんとか素通りできないものか考えるも、いい方法は思いつかない。
「おはようございます」
ユウマが返事をしないのを見かねてか、二人の顔を交互に見ていた陽鞠がエンジュに声をかけた。背が低いエンジュに目線を合わせようと少し屈んで、まるで小学生に話しかけているみたいな格好だった。
「たしか葛折さん……だったよね。黒江くんの親戚の」
「おう。そういうあんたは桜町っつったっけ。悪いけど、こいつ借りてっていい?」
「え。借りる……?」
「ごめんちょっと」ユウマは一言断って、エンジュの手を取った。何を言われたのか飲み込めず不思議そうにしている陽鞠を背に、少し離れた郵便ポストの影にエンジュを引っぱり込む。
「なにしに来たんだよ」
ユウマは抑え気味の声で聞いた。
「なにしに来たはねーだろ。少しは愛想ってもんがねえのか」
「プライベートは邪魔しない約束だろ」
「別に邪魔するつもりはねえよ。ただちょっと仕事を手伝ってもらいに来ただけだって」
「今日は平日なんだよ」
「知ってるよ」
「僕はこれから学校に行かなきゃならない。何故なら僕は高校生だから」
「中学生には見えねーから安心しろ」
「放課後でいいならいくらでも手伝うから」
「あの話、覚えてるよな」エンジュは脈絡もなく言った。「化け物殺して喉仏を抉ってるイカれたブッダ偏執狂がいるっていう」
ユウマは……少し間があってから頷いた。急な話題の変化に戸惑ったのでもなければ、その話を覚えていなかったのでもない。そう聞いたエンジュの表情からは、さっきまでのからかう調子が消えていた。
「あいつを見つける。それにはお前の悪だくみがいっぱい詰まった頭が必要だ」
「……人聞きの悪いことを言わないでよ。でも昨日、紅葉さんに首を突っ込むなって」
「んなもん無視に決まってんだろ」
「いや、エンジュもやる気なさそうだったから」
「あぁでも言わきゃ面倒くせえからな、あの女。仲間が何人も殺られてんだぞ、放っとけるわけねえだろ。それにその辺の事情はお前だって一緒だろ。化け物だけじゃなくて、お前らの仲間だって殺られてんだ」
そう言うエンジュの目の奥には深い怒りが滲んでいたが、ユウマは何と答えることもできなかった。
エンジュの言う“ブッダマニア”に殺された化け物たちがエンジュとどれだけ親しかったのかユウマは知らない。しかしきっと日頃からつるんでいた連中ではないだろう。もしかすると顔見知りというほどですらなかったかもしれない。彼らの連帯感はそれこそ人それぞれといったところのようだが、やはり身を変じて生きる者同士、仲間意識はあるらしく、ことエンジュにしてみれば“身内も同然”ということかもしれない。
先日の路上殺人で犠牲になった女性──ユウマはその人のことを何も知らない。同じ国、同じ県、同じ市、ほとんど同じ地域に暮らしていて、顔も知らなければ、名前も彼女が生きているうちは知らなかった。そして不幸にも彼女がその命を奪われてしまったことがニュースになったとき、意識の端で申し訳程度の痛ましさを感じたかもしれなくても、“仲間が殺られた”とは思わなかった。
彼女と僕は仲間なんだろうか──ユウマは考えた。広い意味ではそう言えなくもないのかもしれないが、お互いの人生に繋がりがない以上、仲間意識のようなものが存在していないのは当然に思えた。
だけど……本当にそうなのか。ちょっとした所縁に繋がりを見出して時に身内同然にお節介をやこうとするエンジュほどではないにしても、機会があれば表出する仲間意識というものはきっと誰にでもある。何年か前に大きな災害があって、電気や水道が止まったり、大勢が避難所で夜を明かすことを余儀なくされたとき、普段はさしたる繋がりのない人たち同士の助け合いや親切というものがあった。身近な人以外の他者を外部化してしまえる暮らしの中で繋がりを失いつつあっても、誰かに気持ちを寄せる心の働きを消し切ることはできないでいる。
「被害者が人間だってのは」
エンジュは穏やかに言った。
「何か手掛りになると思うんだよ。化け物殺しと違って証拠も多いだろうしな。だけど、殺された人間のことは何も知らねえし、どうしたもんか悩んでんだ。あんまり詳しくねえけど、日が経つほど難しくなんだろ? そういうの調べるのって」
そう言われても、エンジュが殺された女性のことを知らないように、ユウマもこの事件のことをほとんど知らなかった。知ったところで、正直、何をどうすればいいか見当もつかない。
「……わかった、手伝うよ」
それでもそう答えたのは、最近よく一緒にいるせいか、エンジュに交わって赤く染まってきているということなのかもしれない。
ユウマの返事を聞いて、エンジュはすまなさそうに笑った。
「悪いな、好きな女と一緒のところ邪魔してよ」
「いや気にしてたのは学校のことだから! サボるのは後ろめたいなぁって思ってたんだよ!」
「そうムキになんなよ。学校くらいどうだっていいじゃねーか。もっと生きる力ってもんをよ、身に付けないとな」
「人間社会はいろいろ大変なんだよ……」
陽鞠のところへ戻っていくユウマのうなだれた背中に、エンジュがからからと笑いかけた。