09
店を出ると、雨が降り出しそうな天気だった。いつの間にか灰色の雲が空一面を覆い、ぽつぽつと大きな雨粒がいつ落ちてきてもおかしくなさそうに見える。朝は爽やかに町を照らしていた日差しも遮られ、日中なのにどことなく薄暗い。
「これは、急いで帰った方がいいかもね」
ユウマは上を見ながら言った。
「組合の事務所って、置き傘あったっけ」
「あるぞ。ボロいのでよければな」
そう答えたエンジュは、手に紙袋を持っていた。白地にスマイルマークと『マコちゃんパン』と書かれたロゴが印字されたもので、持ち帰り用のパンが入っていた。例のマコちゃんパンを買ったわけではなく、何を買ってもこの紙袋になるので、本来の店名を忘れそうになる。以前、手を引かれた子供が、店を指して『マコちゃんパン!』と言っていたのを見かけたので、ユウマだけがというわけではないらしい。
「じゃあ一旦そっちに寄って借りていこうかな。降られないうちに、早く戻らないと」
そう言ってユウマはできるだけすぐにその場を離れようとしていたが、それは雨のせいだけではなかった。
なるべく、顔どころか視線も向けてしまわないようにしていた。それでもやはり視野の片隅に映るその存在を意識せずにはいられなかった。
〈こっちを見てる……〉
それはじいっとユウマの方を向いていた。黒い髪は無造作に乱れ、両手をだらんと下したまま、うな垂れるように背を丸めている。
だがユウマは、そんなことにはまったく気づいていないような振りをし続ける。
〈僕は何も見てない……僕は何も見えてない……〉
慌てて逃げ出すのもよくない。ごく自然に、なにも見えていないかのように、ベーカリー&カフェ『ポリアンナ』に背を向けて、ユウマは早足で歩きだした。
「おい、なにもそこまで急ぐこたねーだろ」
エンジュが不満そうな声を上げながら遅れてついてくる。
「ご、ごめんごめん。そうだ、荷物、持とうか?」
「はぁ? いいよ。荷物ってほどのものじゃねーだろ」
エンジュに話しかける素振りで何気なく後方を視界に入れると、ついてきていた。ズルズルと、足を引きずるようにして、それはユウマたちの後を追ってくる。
間違いなく幽霊だった。普通の人間ならそんな妙な行動を取ったりしないし、なにより以前、見た覚えがあった。狭間があのとき道路越しに見てしまうのを止めてくれた女性の霊だ。
思わず走りだしたくなる。しかしそんな露骨な反応を見せれば、幽霊に“見えている”ことを認識されてしまうかもしれない。
狭間と違って霊感の鈍いエンジュがのんびり歩こうとするのに引きずられて、歩みはゆっくりとしたものになる。もどかしい。歩いていても、見えない後ろが気になって仕方なかった。どれくらい離れているのか。もしかするとすぐ真後ろ、手を伸ばせば届くほどに近づいているのではないか。そう思うと、気が気ではなかった。
明鹿橋通りまで辿り着き、商店街側に渡ったところで、ようやく一息ついた。横断歩道のある箇所から戻る途中、今来た路地が視野に入る。
幽霊はこの前と同じく、車道の前で方途を失ったように佇んでいたが、やがて元来た道を引き返していった。