表紙 » 仮粧町通り商店街 異形種共同組合 ブッダマニアと消えない痕跡

10

エンジュは眉間に立皺を寄せ、露骨に口の端を歪ませた。

組合の事務所に戻ると、紅葉が待っていた。いけ好かないお目付け役の来訪に不快感をあらわにするのはいつものことだが、エンジュが嫌そうな顔にどこか怯えた様子を滲ませているのは他に理由があった。

「な、なんだよそいつ」

「犬」紅葉は端的に答えた。

窓際に立った紅葉の手にはリードが握られていて、その先には首輪をつけられた犬がお座りをしていた。じっとエンジュとユウマを見ている。

「んなこたぁわかってる! どうして犬なんかがいるんだよ!」

「可愛いでしょう? ここで飼うことにしたの」

「はぁ? ふざけんな」

「ふざけてなんかいないわ。ここってあまりに殺風景でしょう。ペットの一匹でもいれば少しは癒しの要素になるじゃない」

「こ、ここは仕事場だぞ! そんなもん必要ねーだろ!」

エンジュは牙を剥いて目を怒らせていた。グッと握った拳はわなわなと震えている。今にも紅葉に殴りかかりそうな勢いだが、足は前に踏み出されない。ユウマはちょっと不思議に思った。エンジュがここまで怒ったら、口より先に手が出てもおかしくないのに。

……エンジュ、もしかして犬が苦手なの?」

「に、苦手なわけねーだろ! 嫌いなだけだ!」

物は言いようだった。

それにしても──ユウマは内心意外だった。怖いもの知らずに思えるエンジュに、こんな怯えるほど苦手なものがあったなんて。

「槐の怖いもの」紅葉が呟いた。「犬、猿、雉、桃。煎り大豆」

……あぁ、そういう」

「嘘を吹き込むな! こいつ信じちゃうだろ!」

「違うの? だったらいいじゃない、犬の世話くらい。これも仕事のうちよ」

「どこがだよ。犬の面倒見んのがオレの仕事なわけねえだろ」

「あら、そんなことないわよ。野良犬が徘徊すると迷惑だって、組合員からも苦情が来るんだから」

「そんなのは保健所に任せとけ!」

「まぁ残酷。血も涙もないことを言うのね」紅葉は蔑むような笑みで言った。「でも、そういうわけにはいかないのよ。だってこの子、大事な目撃者かもしれないんだから」

「目撃者?」

「この子の元の飼い主は、物倉美晴なのよ」

それを聞いたエンジュの目が、真剣なものに変わった。紅葉が続けて言う。

「彼女が殺されたとき、一緒にいたかもしれないでしょう」

小枝こやでに読ませたのか?」

「えぇ。でも流石に犬の心はよくわからないみたい。なので、トクさんが見つかるまでここで預かることにしたの」

「トクさん?」ユウマが口を挟んだ。ここで犬を飼うとなったら、ユウマにとっても無関係ではない。

「人面犬」とエンジュが手短に答えた。

「放浪癖があるから、どこにいったか探すのにいつも苦労するのよ。それまでの間、この子はここに置いておくから」

「断る」エンジュは頑なだった。「そんなに大事なら、お前が面倒見ればいいだろ」

「もう決まったことなのよ。ちゃんと組合の理事には話を通してあるから。文句があるのなら、上の方に言いなさい」


エンジュは犬と睨み合っていた。恐る恐る近づこうとするが、数歩離れたところから、どうしてももう一歩踏み出せないでいる。

「エニス、お座り」

ユウマが命じると、犬はきちんと後ろ足を畳んで座った。首輪に彫られてあるように、この犬はエニスという名前らしい。

「ほら、ちゃんとしつけられてて、いい子だよ」

「ほ、本当か? 急に飛び掛かってきたりしないか?」

エンジュがおっかなびっくり頭に触れると、エニスはバタバタと尻尾を払うように動かした。

「うわっ、こいつ威嚇してきやがった」

エンジュは咄嗟に身を引いた。

「威嚇じゃなくて、喜んでるんだよ。エンジュと遊びたがってるみたいだよ」

「オレは犬なんかと遊びたくない」

「そんなこと言わずに……ほら、これ」

紅葉が買ってきたらしい犬用おもちゃをエンジュに持たせる。

「これを目の前でブラブラさせて、投げてあげたり、噛ませてあげたりするといいよ」

「本当に大丈夫か? そんな挑発するような真似して、襲ってきたりしないか?」

「大丈夫だと思うけど」

エンジュがおもちゃを手に近づくと、『よし』と言う間もなく、エニスが飛び掛かった。

「わぁ、やめろ、離れろーっ、このバカ犬」

顔を舐められたエンジュは、慌てて身を翻した。距離を取ろうとするが、エニスも尻尾を振ってついていく。エンジュが背を向けて逃げだすと、遊んでくれてると勘違いしたのか、エニスも大はしゃぎでエンジュを追い回しはじめた。

「あらあら、随分と仲がいいこと。これなら犬のことは槐に任せておけば大丈夫そうね」

紅葉がこの有様のどこを見て大丈夫と思ったのか、ユウマにはとんと見当がつかなかった。

見る限りエンジュの犬嫌いは相当なようだ。それでもエニスの世話をすることを不承不承にも受け入れたのは、紅葉の言った組合の理事に頭が上がらないせいらしい。

「ところで黒江くん」

エニスに追われて大騒ぎするエンジュを楽しげに眺めながら、紅葉が聞いた。

「聞き込みの成果はどうだったのかしら。物倉美晴のことは何かわかった?」

「知ってたんですか?」

ユウマはちょっと意表を突かれた様子で聞き返した。それから、紅葉がエンジュに『余計なことをするな』と言っていたのを思い出した。

「すみません」

「謝ることはないのよ。私も、そうしてくれることを期待していたんだから」

「そうなんですか? でもエンジュには……

「あの子に『手伝え』なんて言ったら、素直に手伝うはずがないでしょう」

紅葉はそう言って、曇り一つない笑顔を見せた。

エンジュの素直じゃなさもかなりのものだけど、紅葉も紅葉で相当だなとユウマは思った。


「ふぅん。大体似たり寄ったりの内容で、あまり新しい情報はなかったみたいね」

ユウマからあらましを聞いて、紅葉は悩ましげに眉根を寄せた。ユウマたちが近隣住人から聞いたような話は、紅葉も概ね把握していたらしい。

「強いて言えば、物倉美晴は『マコちゃんパン』を好んで買っていた」

「あんまり事件とは関係なさそうな情報ですけどね……

「あら、そんなことはわからないわよ。依然としてまるで全容が見えないのだもの。思いもよらない情報が事件に繋がっている可能性もあるのだし、どんな些細なことでもないがしろにするべきではないのではないかしら」

紅葉はそう言ってから、表情を緩めた。

「ありがとう、黒江くんたちのおかげで新しい情報が得られたわ」

「お役に立てたんならよかったですけど……

紅葉はそう言ってくれたが、食の好みが事件に繋がる情報だとはとても思えなかった。

「お礼に、私からもいくつか情報を提供するわ」

紅葉はそう言って、一葉の写真を差し出した。ユウマは受け取って、少し意外そうな顔をした。

「これは……物倉美晴さんですか?」

紅葉は頷いたが、そこにはユウマのイメージとは少し異なった容姿の女性が写っていた。

「似顔絵、やっぱり似てなかったんですね」

事件について調べ始めたとき、まだ美晴の身元が判明する以前の新聞に似顔絵が載っていたのを見た。そのときの印象と比べると、写真の美晴はもっと整った顔立ちをしていた。

「少し古い写真だから」と紅葉は言い添えた。

それから紅葉はいくつかの情報を教えてくれた。

美晴の身辺は警察でも洗っているが、ユウマたちが調べた通り近所付き合いはほとんどなかった。ストーカー被害の相談などもなく、何かしら実生活のトラブルに悩まされていた形跡は見当たらない。

ただ美晴の場合、仕事ばかりでなく、交友関係もネットの方が主立っていたようで、ネット上の愛称ハンドルしか知らない知人も多かったようだ。そこで警察では、目下ネットでのやり取りにトラブルがなかったかについても調べているらしい。

「どうしてそんなことを知ってるんですか?」

ユウマが驚き混じりに尋ねると、紅葉は事無げに言った。

「お友達に聞いたのよ。私たちだって絶対に事故を起こしたり事件に巻き込まれたりしないわけではないのだから、事情がわかってる人間が内部にいないと警察だって困っちゃうでしょう?」

紅葉は含むところのあるような笑みで続けた。

「だから被害者が一連の事件と同じ手口で殺害されていることも知ることができた。反対に、被害者の身元を割り出して教えてあげたのは私たち」

「それって警察と組合は協力関係にあるってことですか?」

ユウマは信じられないというように目を丸くした。今でこそエンジュと行動を共にして多少は慣れたとはいえ、しばらく前まではユウマ自身もエンジュや紅葉のような化生の者たちが人間社会で暮らしているなんて思いもしなかった。それが警察のような公的機関と協力関係にあるなんて、突拍子もなさすぎて理解が追いつかない。

「そこまで大げさな話じゃないわ。警察の中にはそういう人間もいる、ということよ」

ユウマの驚きを和らげるように、紅葉は疑問を打ち消した。確かに、組織的にではなく、一部にそういう関係にある警察官もいるという話なら、あり得なくもないような気がする。

「ただその“お友達”もこの事件の担当ではないそうだから、知れることは限られているのだけれど」

紅葉は困ったように嘆息した。

今回の事件はこれまでとは違って被害者が人間だった。それなら警察がその捜査力を駆使して犯人を見つけ出してくれるだろうという期待があったが、そう簡単にはいかなそうな状況だった。一方で、こちらで美晴のことを調べても、犯人はおろか、なぜ彼女が襲われたのかすら見えてきそうにない。

「黒江くんはどう思う?」

ユウマは軽く握った指を口の辺りに当てて考えた。

「人違いっていうことはないんでしょうか。南木かギルドでしたっけ、そのどちらかはわかりませんけど、組合に恨みを抱いて一連の犯行に及んでいたところ、物倉美晴さんを組合の誰かと誤認して死に至らしめた」

「それは十分にあり得るわね。そうすると、問題は誰が組合に恨みを抱いているか……恨みを買うような覚えなんてないのだけれど」

紅葉がそう言うと、本当は色々と恨みを買ってるんじゃないかとユウマには思えた。

「そんなんギルドの連中に決まってんだろ」

少し離れたところからエンジュが口を挟んだ。

エンジュは窓際にある事務机に乗っていた。椅子ではない。机の天板に上にしゃがんでいる。

「あいつらオレらのこと目の上のタンコブみたいに嫌ってるからな。それに南木のやつらが人間と化け物を取り違えるなんてあるはずねえだろ」

「普通ならそうでしょうね。ただ普通ならこんなことをしでかしたりはしないでしょうけど。ちょっと槐、言っておくけど、変な気は起こさないでよ」

「変な気ってなんだよ」

「あなたがギルドに変なちょっかいを出して組織同士の抗争にでもなったりしたら目も当てられないんだから」

「わーってるって。ガキじゃねえんだから、そのくらいうまくやるよ」

「うまくやるってなに!? 私はなにもするなって言ってるの」

「はいはい、わかったわかった。それはいいからさぁ、こいつどうにかしてくれよ。ずっとオレの方見てんだよ」

エンジュが乗った事務机の足元では、エニスが待ち構えていた。降りてくるのを今か今かという顔でお座りして、尻尾を左右に振っている。

「随分気に入られたみたいね。よかったじゃない」

「よかったじゃねーよ! ずっとこのままでいろってのか!?

「そこにいれば面倒も起こしようがないでしょ。じゃ、私はそろそろ帰ることにするわ。夕方から夜にかけては雨が強まるらしいから。さ、黒江くんも行きましょ」

「あ、こら、ユウマは置いてけ」

「僕はもう少しいても構わないですけど」

「ダメよ黒江くん。甘やかしたりしちゃ、本人のためにもならないわ。ほら、槐とばかりじゃなくて、たまには私ともデートしましょう」

そう言って紅葉は、戸惑うユウマの背中を無理矢理に押して、エンジュが止めるのも聞かず、事務所から出ていった。


「ちくしょう……あの烏女ァ……

一人取り残されたエンジュは、事務机の上で歯ぎしりした。

しばらくすると、窓の外からは雨が建物を打つ音が聞こえてきた。すぐに雨足は強まり、水滴が窓をつらつらと流れはじめる。

エンジュは不貞腐れていた。もともと室内でじっとしているのは好きな性質たちではないし、一人でいるのもつまらない。雨の日は気鬱だ。今はそれに輪をかけて腹立たしい。それもこれもこの犬のせいだ。

紅葉の去り際の性格の悪い笑みを思い出して、エンジュは舌打ちをした。

足元のエニスは相変わらず、舌を出してヘッヘッヘと息をしながらエンジュを見上げている。

「もう知らん」

エンジュはやけっぱちに呟いて顔を背けた。この犬が飽きるまで、こうしているしかない。

机の上にさっき買って帰ったパン屋の袋があった。不満をぶつける様に白い紙袋を開けると、中身を一つ取り出す。小ぶりなカレーパンを齧る。思ったより辛い。

ガサガサと紙を音立てながらエンジュがストレスを食にぶつけていると、エニスがエンジュの向いている方に回り込んできた。再びお座りをし、エンジュの方に顔を上げる。

「なんだよ、やんねーぞ」

エンジュは肩をひねってパンを隠すようにした。

エニスはそれでも、お座りをしたまま、じいっとエンジュを見つめる。涙液で潤った黒目ばかりのつぶらな瞳を、そうやって向けられ続けると、なんだか後ろめたいような気になってくる。

「バカ、そんな顔したってダメだ。これはヒトサマの食い物だから、犬にはもったいねえよ」

そう言いつつ、エンジュは机に置いてあった本を手に取ってみた。紅葉が持ってきたペットの飼い方の本の中に『だいじょうぶ? 食べさせちゃダメ? 犬の食べ物辞典』という一冊があった。パラパラとめくってみると、パンを食べてさせていいかは物によるらしい。総菜パンや菓子パンは場合によっては危険だが、食パンやフランスパンなど、パン生地以外に何も入っていないシンプルな物なら大丈夫だそうだ。

エンジュは『マコちゃんパン』と書かれた袋から、輪切りのフランスパンを一切れ取り出すと、少しちぎって投げてみた。

エニスはそれを空中でパクっと食べた。

「おお~……

エンジュが感心して声を漏らすと、エニスはまた座ってエンジュの方を見た。

「うまいじゃねえか。じゃあ、これは取れるか?」

エンジュはパンをもう一塊ちぎって、今度は少し遠くに放った。エニスはすくっと立ち上がると、なめらかな動きでパンくずを追った。小さく跳んで、空中で見事に捕食すると、軽やかに応接テーブルに着地した。テーブルはひっくり返った。先程までいた来客が飲んでそのまま残っていたティーカップも、盛大に音を立ててあたりに飛び散った。


…続く