12
エンジュはビルの屋上に座っていた。フェンスの外側、人一人が立てるほどの手すり壁の端に腰を掛け、脚を宙に浮かせている。
「ったく、余計なことしやがって」
その隣には、黒いローファーに黒いタイツをはいた制服姿の少女が立っていた。上空の風に煽られて長い黒髪が乱れるのを片手で押さえている。
「随分な言いようね。私が助けてあげなければ、大変なことになっていたじゃない」
「バカいってんじゃねえ。あの程度のやつら、余裕で全員ぶちのめせたわ」
「そうじゃなくて」紅葉は目で下の方を示した。「あのままあそこにいたら、ああやってお巡りさんのご厄介になっていたのよ」
二人がいる屋上の遥か下方、さっきまでエンジュが大立ち回りを演じていた裏路地は、人だかりとそれを制御しようとする警官たちで雑然としていた。一部では血の気の多い連中と押し問答になっているようだ。
「そうしたらどれだけ面倒なことになっていたか、わからないわけではないでしょう。魄樹さまだって大激怒よ。そうならずに済んだのだから、感謝して?」
「その警察を呼んだのもどうせお前だろーが」
「一市民として当然のことをしたまでよ。こんな街中で大騒ぎして。私が何もしなくたって、警察くらい呼ばれるわよ」
エンジュは反論しなかった。確かにあの騒ぎでは、遅かれ早かれ警官が駆け付けたのは間違いないだろう。それが少し早まっただけで、紅葉に文句をつける筋合いではない。
それに──エンジュは最後に見た光景を思い起こしていた。紅葉に連れ去られる直前に目にしたコートの男、大暮四門の怪しい動き。何をしようとしていたかはわからないが、何らかの危険な力をエンジュに及ぼそうとしていたのは間違いない。
「大体、面倒事は起こすなって言ったのに。どうして勝手な真似をするのかしら」
「オレのせいじゃねーよ」エンジュは口をとがらせた。「あっちが先に手を出してきたんだ」
「手を出した!? 肩に手を置いただけじゃない!」
「それでも十分、暴行罪になるらしいぞ。ユウマが言ってた」
「そもそも下手にちょっかいを出すなって言ってるの。変に恨みを買ったりしたら、また話がややこしくなるんだから」
「そんときゃ、オレが狙われるだけの話だろ。それなら好都合じゃねーか」
エンジュは当たり前のような顔をして笑った。
「狙われるのがオレだったら返り討ちにしてやれば済むからな。七面倒な犯人探しなんかしなくても、あっちから出向いてきてくれれば簡単だろ」
「あなたね……そうなったら自分が殺されるかもとは思わないの? 自信過剰もほどほどにしないと、そのうち痛い目を見るわよ」
「それはお前の心配することじゃねーだろ」
「あなたのことはどうでもいいけれど、魄樹さまが悲しむでしょう。それに黒江くんも」
「なんでそこでユウマが出てくんだよ」
「あら、前から言っているでしょう。私は黒江くんのことが好きだって。好きな人が辛い思いをするところを見たくないのは、当然じゃなくって?」
「好きなやつの話をしてるときの顔じゃねーだろ絶対」
「それに、あなた一人が襲われるのならどうぞご勝手にと言って済ませられるけど、組織同士の争いになったらどうするの。仲間をやられた腹いせに、徒党を組んで仕返ししに来るかもしれないでしょう」
「それなら心配ねーよ」
エンジュはつまらなさそうに言った。
「お前だって、見てたんならわかるだろ。あいつらは組織なんて立派なもんじゃねぇよ。損得勘定で相乗りしてるだけで、あのコートの男が睨みを利かせなきゃ、自分からババ引くような真似はしたがらない連中さ。貰えるもんは貰いたがるが、自分から何かを差し出すのは嫌がる、そんなやつらが集まったって、大したことはできやしねーよ」
「あなただけじゃなくって、近しい人が狙われることだって考えられるのよ」
「相変わらず嫌なことばっか思いつくな。考えすぎだっつうの。そんなに心配なら、そうならないように見張ってやれ。得意だろ、そういうの。好きな男のためなら、そのくらいしてやったっていいじゃねえか」
「私だって他にやることはいっぱいあるの。そうやって人の仕事を増やしていることを、少しは反省してもらえないものかしらね……」
紅葉は溜息をついて、エンジュから顔を背けた。
このビルはアーケードの裏手では抜けて背が高い。古い城下町であった繁華街周辺は長らく景観保護の高さ規制が緩和されてこなかったために高層のビル自体があまりなく、眼下には巨大なアーケードの天井部や、密集する建物が作り出す込み入った裏路地が広がり、目を向ければ仮粧町通り商店街までも視界に入る。
この街を歩く誰かに、化け物殺しの犯人がいる。それを見つけ出すのは、少なくとも紅葉には、エンジュが言うほど簡単ではないように思えた。