13
ユウマは陽毬と喋りながら歩いている間中、浮かれ気分を表に出してしまわないよう、必死だった。自然と笑みがこぼれて、気分が舞い上がってくる。それ自体はなにも悪いことではないけど、つい変なことを言ってしまったりしないかだけが心配だった。そうやって自分を抑えようとしても、楽しい気持ちが込み上げてくるのは止めようがない。
学校から帰るとき、いつも陽毬は友達と一緒に下校している。明鹿橋通りまで住宅地を通り抜け、例の喫茶店でアルバイトをしている藤崎さんと商店街の入り口近くで別れ、他の友達と明鹿橋方面へ歩く。ユウマにその輪に加わる勇気はさすがになかった。だから、陽毬と一緒に帰るのは、ユウマにとっても初めてのことだ。
帰り道も、いつもとはちょっとだけ違う。通学路からは少し離れたところに二人の行き先はあった。登校時にユウマがその小さなパン屋の話をしたところ、陽毬が「ちょっと行ってみたいかも」と言った。ユウマがドキドキしながら、できるだけさりげなく「帰りに寄ってみる?」と聞いたら、陽毬は笑顔で頷いた。
〈これってデート……っていっていいのかな〉
隣で楽しそうに微笑んでいる陽毬を見ると、ユウマの胸はますます高鳴るようだった。
しかしその高揚感はすぐ失望に変わった。『臨時休業』、店の扉にそう張り紙がしてあった。
「……今日はお休みなんだね」
陽毬がちょっと困ったように微笑んだ。
〈真子さん……なんで今日に限ってお休みなんですか……!〉
ユウマは地面に手をついて叫びたい気分だったが、必死に自分を保った。
「ご、ごめん。折角来たのに」
「ううん、気にしないで。……ちょっとお昼を少な目にしたせいで、お腹が空いちゃうってだけだから」
「ああああ……ご、ごめん」
「あはは、冗談だよ。ごめんね、そんなに本気で謝らないで」
「でも、お腹が空いてるのは本当?」
「うん。……ちょっとだけ」
陽毬は照れたように笑った。
ユウマは悩んだ。お腹が空いたと言っているんだから、どこか別のお店に誘ってもいいのかな。いいのかもしれない。どうしよう。どんな店なら陽毬が喜ぶだろうか。ユウマもそんなに外食をする方ではないので、すぐにはいい案が浮かばなかった。
一つ思いついたのは仮粧町通り商店街にある洋食喫茶『セルパン』だ。鶴巻夫妻と八五郎の一件以来、一度は行ってみようと思っていた。そういう意味ではいい機会だが……陽毬の友達が働いていることを考えると、ちょっと勇気がいる。
ユウマが何か言おうとしているのを察してか、陽毬はじっと待っていた。早く何かいい案を思いつかないといけないと焦るのに、その笑顔を見ると、ユウマはますます思考が空回りしてしまう。
そうこうしていると、狭い車道に車が通りがかった。ユウマが慌てて端に寄ると、陽毬と肩を並べる距離になる。髪が近い。ドキドキしながら車が通り過ぎるのを待とうとしていると、車はユウマの真隣で止まった。
そのパンプキンイエローの車体の中で、運転手は助手席の方に体を伸ばすと、ウインドウを下した。古い車種なので電動ではない。レバーを手で回すのに合わせて、ドアガラスがカコカコとゆっくり下りていく。
「ごめーん、もしかしてお店に来てくれたの?」
車の中から、真子が呼び掛けた。
「ちょっと待っててよ。すぐ開けるから」
「今日は、お休みなんじゃないんですか?」
「そうだったけど、やっぱり気が変わったの。折角お友達も連れてきてくれたんだし。ちょっと車、入れてくるね」
真子はそのまま車を進めると、すぐにバックランプを点灯させた。小さな車体が細い車道をするすると後ろ向きに戻ってきて、店の隣の狭い空間にパズルのように入ってしまう。
「お店、開けてくれるって」
ユウマはわかりきったことを陽毬に伝えた。
「よかった」と陽毬は微笑んだ。「今のが店長さん? なんだか、私たちのためだけに開けてくれるみたいで、ちょっと申し訳ないような」
「うん」
ユウマはそう頷いてから、案外真子は親切心だけで店を開けてくれるわけではないのだろうなと思い当たった。この前真子が力説した、食い気味の好奇心が頭をよぎった。
「ねーごめん、ちょっといいー?」
真子の声がして、ユウマは駐車場の方へ向かった。
丸いライトの小さな車の隣に、ドアを開けて真子が立っていた。今時の車の流線形をしたフォルムと比べると全体の印象は角ばっているが、その角が丸みを帯びているため可愛らしい。パイクカーと呼ばれる、発売された80年代当時でもレトロと評されたデザインで、真子はこの、エアコンをかけるとエンジンが息をつく中古のマニュアル車を、大事に乗っているようだった。
「ちょっと荷物があるんだけど、手伝ってもらっていい? あたし一人じゃ重くって」
真子に拝むような仕草で頼まれ、ユウマは車内を覗いた。後部座席にはダンボールが置かれてあり、古本らしき物が詰め込まれてあった。
「またえらく買い込みましたね……」
「そーなの」真子は困ったように言った。「知り合いの古本屋さんが店をたたむって聞いたから、慌てて引き取りに行ってて」
「それで『臨時休業』だったんですね」
真子は骨董や古書が趣味で、店内にもいくつかはインテリアとして置かれているが、それ以外にも山のようにコレクションがあるらしかった。
「こういうものは一期一会だから」そう真子は力説していた。「巡り合ったときに手に入れておくしかないの。だからしょうがないの」
真子の車は2ドアで、後部座席に出入りするにも運転席を前にずらすしかなく、その隙間から重いダンボールを運び出さないといけないので、余計に大変だった。
明かりのない店内は静かで薄暗かった。真子が照明を点けると普段と同じ明るさに戻るが、それでもいつもと違う寂しさが残っている。きっとパンが並べてあるはずの棚が空っぽになっているからだろう。
「ごめんねー、今日はパン焼いてないから日持ちするものしか出せないけど。クロワッサンとか好き?」
真子は二人のために、昨日焼いたクロワッサンと、紅茶を出してくれた。
「すみません、お休みのところ……」
陽毬が遠慮がちに言うと、真子はあっけらかんと笑った。
「いーのいーの、どうせパン焼く時間以外はいつも暇なんだから。それに、折角のデートなのにお店が閉まってたらがっかりでしょ」
「で、デート、ですか……?」
陽毬はちょっと頬を赤らめた。
「あれ、違った?」
テーブル席に真子も腰掛けてきた。本腰を入れて話をしようという姿勢だ。
「二人は付き合ってるんじゃないの?」
「え、えーっと……」
陽毬は微笑みながらも、返事に困っているようだった。
それも当然だろう。二人は、少なくとも今はまだ、真子のいうような関係ではない。それなのに陽毬がはっきりとした答えを言わないのは、きっと自分を気づかってのことじゃないかとユウマは思った。あまりにきっぱり「そういう関係じゃない」なんて言い方をしたら、それはそれでユウマが傷つくかもしれない。そう考えて、陽毬は答えあぐねてるのではないだろうか。
「だから違うんですって。桜町さんとは友達で……」
あまり陽毬を困らせるのも心苦しい。ユウマは断腸の思いで口を挟んだ。
本当は「付き合ってるんです」と言えるものなら言いたい。だけどそれは嘘になるし、困っている陽毬を助けるには、ユウマが事実を口にするしかなかった。
「そっかー。じゃあこれからって感じなんだ」
真子もしつこかった。
「でもいいの? 黒江くん、そんな簡単に『友達です』なんて言っちゃって。もし彼女が友達以上って思ってたら、傷つくよー」
「えっ」
真子の一言に、ユウマはうろたえた。そんな逆の発想はまるでなかった。確かに、陽毬はユウマのことが好きで、だけどユウマがどう思っているかわからないから答えあぐねていた、という可能性だってないとはいえない。
でも、そんなことあり得るだろうか。もしそうだったら、それって両想いってことになってしまう。
「黒江くんは……えーっと」
「桜町です」
「桜町さんのこと、友達としか思ってないんだ?」
「そ、そそ、そんなこと……!」
「ってことは、黒江くんは、桜町さんのこと好きなんだ?」
「あわわ……」
ユウマは完全にパニックになっていた。『いいえ』と答えれば陽毬を傷つけてしまうかもしれないし、『はい』と言えば告白したも同然だ。なんと答えても大変なことになるし、なにも答えなくても大変なことになる。
「あの、私たち、まだ本当にそういう関係じゃないんです」
ユウマのうろたえっぷりがあまりに気の毒だったのか、陽毬が助け舟を出してくれた。
しかし真子は耳ざとかった。
「まだ?」
真子が強調したことで、自分の言ってしまったことがわかったのだろう。陽毬はまた頬を赤くした。
「そっかー。まだ二人はお友達なんだ。じゃあ、まぁ、今日はそういうことにしておこっか」
「そういうこともなにも、それが事実なんです……」
そう穏やかに指摘しながらも、ユウマの心中は平静とは程遠かった。〝まだ〟ってことは〝そのうち〟がある、そう思っていいのだろうか。
「それにしても、黒江くんも隅に置けないねー。あたしビックリしちゃった、こんな綺麗な子を連れてくるなんて」
「そ、そんな。綺麗だなんて、全然」
陽毬はビックリしたように胸の前で両手を振った。
「よく言われない?」
「い、言われたことないです……」
「えー、意外。髪も綺麗だし、笑顔も素敵だし……モテるでしょ?」
「そんな、モテたことなんて、一度も」
「桜町さん、香水とかつけてる?」
「つけてないです」
「そうなんだ? なんか桜町さんが椅子に座ったとき、いい香りがするなぁって思ったから。ね、桜町さんっていい匂いがするでしょ?」
真子に話を振られて、ユウマは困った。でしょって言われても。
「僕にはわからないですけど……っていうか、言ってることが段々オッサンじみてきてますよ」
「年を重ねると、オッサンもオバサンも違いがなくなってくるの」
そういうものなのだろうか。ユウマはあまり信じられなかった。若い頃のことは知らないが真子は昔からこんな感じだったんじゃないかという気がするし、陽毬は年を重ねたとしても今みたいに楚々としたままな気がする。
そんなことを思いながら、ユウマは籐編みのトレイに並べられた小ぶりなクロワッサンを口にした。「おいしい」
「あっ、私も」と目下の話題から逃れるように、陽毬もクロワッサンを手に取った。
「本当、すごく美味しい」
「ありがとう。焼きたてだと、もっと美味しいんだけどねぇ」
真子はそう言うが、ユウマにはこれでも十分に美味しく思えた。とても昨日の売れ残りだとは思えない。食べたときのサクサクした触感も、プレーンなクロワッサンのパン生地の味も、口の中で感じよくほどけていく。
真子の話によると「クロワッサンは焼いてから二日くらいは美味しく食べられる」らしい。ただどうしても「風味は落ちちゃう」のだそうだ。それもユウマには全然わからない。パン職人をしているだけあって、真子は嗅覚が鋭いのかもしれない。パン屋に限らず、料理人やソムリエなど食べ物を扱う仕事には鼻の利く人が多い。
それから真子は、パン屋の一日がどう始まるかとか、パンを焼く工夫とかを、話してくれた。
「『恋愛小説家』って映画、知ってる? あのエンディングで、パン屋が出てくるでしょ。あんな風に、まだ外が明るくなる前から毎朝パンを焼いてるの」
陽毬はその映画を見たことがあったらしく、とても楽しそうに真子の話を聞いていた。ユウマはとにかく、陽毬が楽しそうにしているのが嬉しかった。こうしていつも人生の明るい側面を眺めて過ごせたら幸せなのに。そんな風に思いながら、ユウマは楽しくお喋りをする陽毬を隣で見ていた。