表紙 » 仮粧町通り商店街 異形種共同組合 ブッダマニアと消えない痕跡

14

ユウマと陽毬が店を出る頃には、辺りは茜色に染まっていた。狭い車道の向かいに建つ民家の塀にしたコケも、夕陽に照らされ滲み壁面に溶け込んでいる。電柱の影が長い。

「また、焼きたてのを食べに来て」

帰り際に真子がそう言った。ユウマが会計を済ませようとすると、真子は「残り物を出しただけだから」と代金を受け取ろうとしなかった。申し訳なさげにする二人に、真子は「今度はちゃんと売り物を用意しておくから」と笑った。ユウマと陽毬は、また来ることを約束して、真子の好意をありがたく受け取った。

「クロワッサン、すごく美味しかったね」

帰り道を歩きながら、陽毬はそう微笑んだ。

ユウマはその笑顔をじっと見続けることはできず、思わず顔を俯かせた。伺うように目線だけを隣に向けると、いつもの朝の涼やかな光で照らされた透明な笑顔とはまた違う、日が暮れ切ってしまう前のわずかな残照に微笑む陽毬は夕映えして、まるで夕焼けで頬を赤く染めているようだった。

店から少し歩いたところに公園があった。遊具などもほとんどなく、地肌がむき出しの閑散とした広場で、敷地端の草地にベンチと申し訳程度の小さな鉄棒が設置されてある。小さな子供たちが遊んでいたが、もう帰ろうとしているところらしい。

ちょうどその前に差し掛かったあたりで、陽毬はふと歩みを緩めた。

「あのね……さっきの話のことなんだけど……

それに合わせてユウマも足を止める。

「さっきの話?」

ユウマは何とはなしに聞き返したが、陽毬はなかなかその先を言わなかった。どこかまだ迷っているように、もじもじとしていた。その様子を見て、ユウマもなんだかドキドキしてきた。陽毬の頬が赤いのは、夕陽のせいだけじゃない気がする。

「その……お友達とか、どうとか……

陽毬がやっとそう口にしたとき、ユウマは固まってしまった。

陽毬は恥ずかしそうに顔を俯かせていた。だから彼女には、今ユウマがどんな顔をしているのか、見えていなかっただろう。もしその表情に気づいていたら、とても今のような空気は保てなかったに違いない。

ユウマが固まったのは、陽毬が持ち出した話題のためではなかった。その小さな肩と柔らかな髪の向こうに見えるもの。二人が今歩いてきた通りに佇む、白い服の女。

「あのとき……」と陽毬が話を続けた。「『友達としか思ってないんだ?』って聞かれて、『そんなことない』って言ってたよね……あれって……どういう意味だったのかなぁって……

陽毬に何を言われたのか、ユウマは理解するのが一瞬遅れた。聞こえた音を頭の中で反芻して、ようやくその意味がわかった途端、たちまち顔が熱くなった。

あのやりとりの後、ユウマは真子に『ってことは、黒江くんは、桜町さんのこと好きなんだ?』と聞かれて、うろたえるばかりで否定も肯定もできなかった。陽毬がそれを『どういう意味だったのかなぁって……』などと言うのは、これはもう、陽毬のことが好きかどうかを尋ねられているのに等しい。好意もなにもない人間が、そんなことを聞くはずがない。

ユウマは息苦しさを覚えた。胸の内圧が高まり過ぎて破裂しそうだった。鼓動がやけに強く大きく感じる。突然こんな状況が訪れるなんて予想もしていなかった。一言「好きだ」と言えば、それで両想いになれる。

だけど本当にそうなのか? 本当に陽毬は告白してもらいたがっているのか? ユウマには不安もあった。そんな幸福が突然訪れていいものだろうか。自分の考えにどこか都合のいい推論があるのではないか──

ユウマも頭ではわかっている。十中八九、大丈夫なはずだ。それでもたった一か二が大きな不安に膨れ上がって、ユウマの心臓をますます酷使させる。

これだけでもパニックを起こしてもおかしくない状況なのに、更にもう一つの不安がユウマに迫っていた。

黒い乱れ髪をだらんと垂らして、こちらに顔を向けていた彼女は、ひたひたと、ゆっくり二人に近づいてきていた。ユウマはその姿に見覚えがあった。あのときの幽霊だ。

慌てて逃げ出すわけにはいかない。“見えている”と幽霊に認識されるとまずい。かといってこの状況で、前にエンジュと一緒だったときのように、足早にこの場を去ろうとするわけにもいかない。

陽毬は少し俯いて、伏せ気味な視線を横に逃がしていたが、その顔は真っ赤に震えていた。すごく可愛らしい。そんな場合ではないのに、思わずそう思ってしまうほど可憐だった。

かけがえのないこの一瞬は、今を逃したら粉々になる。後であらためて告白したとしても、二人の関係はどこかギクシャクしたものになってしまう。そんな予感を抱かせるには十分な状況シチュエーションだった。

ユウマは覚悟を決めた。幽霊が見えていない振りをするのなら、いっそのこと目の前の陽毬にちゃんと向き合うのが一番かもしれない。そうしていれば、幽霊も二人の脇を通り過ぎてどこかへ行ってくれるかもしれない……

「さ、桜町さん」

「はっ、はい」

名前を呼ばれて、陽毬は顔を上げた。陽毬も期待と不安の入り混じったような表情をしているが、ユウマにはそんなことに気づく余裕もなかった。

幽霊は二人のすぐ近くまでやって来ると、陽毬の肩越し首を突き出すようにして、ユウマを見つめた。

〈み、見えてない……僕はなにも見えてない……

ユウマは必死に陽毬だけを見る。

目と目をじっと合わされて、陽毬は陽毬で、湯に当たったように真っ赤になっていた。頭から蒸気を吹くくらいしてもおかしくない様子で、きっと今から告白されるんだと緊張しているようだった。

そんな二人の顔を、幽霊は間近で、交互に見た。

〈うわぁ……見てる……。めっちゃ見てる……

こんなに頬と頬とが触れそうなくらい近づいても、息遣いや体温のようなものをまったく感じないのは、やはりこの女性が死した存在であることを示していた。ユウマは思わず息を飲む。それが幽霊に慄いたからではなく、愛の告白を前にした少年が不安の端辺へと追い込まれたせいであると取ってもらえることを祈りながら。

陽毬は相変わらず、待っていた。いつユウマが言葉を発してくれるのかという様子で、長く引き伸ばされる緊張の一時に、ちょっと泣き出しそうにも見える。思わず抱きしめたくなるほど可愛い。それがユウマを勇気づけた。

言うしかない。幽霊の視線を間近で感じながら、ユウマはついに、あの言葉を口にした。

「す好きです」

しかしその言葉に対する陽毬の反応は、喜びでもなければ涙でもなかった。「嬉しい」と言うわけでもなければ「……私も」と言うのでもなかった。陽毬は愕然としたように目を見開き、まるで吐き気を堪えるように真っ青の顔を不快感で曇らせた。

ユウマはその様子を目の当たりにして、血の気が引く思いがした。告白をして、まさかこんな反応を目にすることになるとは、少しも予想していなかった。

陽毬は体を震わせた。寒そうに両手を肩に回し、ガタガタと震えた。肩だけではなく、首がガクガクと揺れ、そのままその場にくずおれそうになる。

ユウマは咄嗟に手を出して陽毬の体を支えた。ほとんどの体重が両腕にかかる。慌てて腰を入れて、なんとか持ちこたえる。

「さ、桜町さん!」

ユウマの腕の中で、陽毬は仰向けに体を仰け反らせていた。首が座っておらず、揺れると頭がおもちゃのように動くので、ユウマは陽毬の後ろ頭に肩を添えるようにして固定した。

陽毬は白目を剥いて、口をぽっかりと開けている。顎が小刻みに震えて、なにか喋るように小さく口が動くが、言葉らしい言葉は出てこない。

ア゙……ア゙……ア゙……

「さ、桜町さん! 桜町さん……!」

ユウマは繰り返し陽毬の名前を呼んだ。しかし、口角に泡を浮かせたその空洞から発されるのは、緩んだ声帯からこぼれるようなブツブツとした音ばかりだ。

ユウマはどうすればいいのかわからなかった。こんなことは初めてだ。いくら幽霊が見えるからといって、その幽霊が人に憑りつくところに居合わせるなんて、生まれてこの方、一度も経験したことがなかった。

ユウマは見ていた。ユウマが陽毬に告白した直後、幽霊は、陽毬に抱きつくように手を伸ばした。そのこの世ならざる手は陽毬に触れるとそのまま突き刺さり、しかし貫通して反対側から出てくるようなことはなく、そのままズブズブと中に入り込むように、幽霊は陽毬に沈み込んでいった。

ユウマが懸命に名前を呼び続けても、陽毬はビクビクと全身を痙攣させて、陽毬の喉から出ているとはとても思えない、苦しそうな暗い声を上げ続けるばかりだった。

ユウマは焦りとともに、後悔に苛まれていた。やっぱりこの場を離れるべきだった。それで少しくらい陽毬に妙に思われても、別によかった。それか幽霊にユウマ自身が祟られることになったとしても構わなかった。陽毬をこんな目に遭わせてしまうくらいなら、すぐにでもあの幽霊から遠ざかるべきだった。

幽霊に憑りつかれたら、どうなってしまうのだろう。ユウマには何もわからなかったが、陽毬がどうにかなってしまうんじゃないかと思うと、胸が張り裂けそうだった。

ユウマの腕の中で、陽毬は繰り返し口をパクパクと動かしていたが、しばらくするとそれが止んだ。絞り出すような声はスゥスゥと寝息のように穏やかな呼吸に変わり、白目を剥いていた目は目蓋が閉じて、口の端に白く泡が残っている以外には、安らかな寝顔と変わりなくなる。

ユウマはハンカチを出して、陽毬の口の周りを拭ってあげた。すると陽毬は「ん……」と小さく声を出して、それからゆっくりと目を開いた。

「さ、桜町さん!」ユウマはつい叫びそうになり、慌てて声を落とした。「大丈夫? 僕のことわかる?」

……くろえくん」

陽毬はそうぼんやりと呟いてから、ハッとなにかに気づいたように目を丸くした。それから、さっきまでは生気を失ったように青白くなっていた顔に、一気に朱が戻る。

その様子を見て、ユウマもはたと気づいた。陽毬を抱きかかえてしまっている。それも、陽毬の頭が転がらないように肩と胸のあたりで支え、そちら側の手は陽毬の肩に、もう一方の手は陽毬の腰に回している。柔らかな陽毬の体はすっかりユウマに抱き据えられていて、その腕の中で陽毬は顔を真っ赤にしていた。

「ご、ごめんっ」ユウマは咄嗟に謝った。「こ、これは違うくて、その、倒れないようにって思って」

「う、うん……ありがとう……

「じ、自分で立てる?」

「うん……大丈夫と思う……

陽毬は特にふらつくこともなく自分の足で立った。そう言う意味では、陽毬の言う通り一見大丈夫そうに見えるが、ユウマは今もなお心配でならなかった。さっき陽毬に憑りついた幽霊が出ていったようには見えなかった。

「本当に大丈夫? どこか苦しかったり、気分が悪かったりしない?」

「ううん、平気……ごめんね、心配かけちゃって」

案外はっきりと陽毬は答えた。ユウマは少し不思議に思った。幽霊が見えない陽毬からすれば何の前触れもなく突然気を失ってしまったわけで、そんなことが起きればむしろ、陽毬本人の方が不安になるはずではないだろうか。その割には、どこか気落ちしているようではあるものの、やけに落ち着いているように見える。

陽毬はしばらく黙っていたが、まだ心配そうにしているユウマの様子を気にしてか、ぽつりと言った。

「昔から、時々あるの……

……さっきみたいなことが?」

「うん……

陽毬は悲痛な面持ちで顔を俯かせた。年頃の女の子が異性にあんな姿を見られてどう感じるか、それを考えれば無理もなかった。

「小さい頃から時々、急に気を失っちゃうことがあって……ごめんね、黙ってて……

「そ、そんな。謝ることないよ」

ユウマは慌てて手を振って否定した。同時に驚いてもいた。昔からある、というのは、単に気を失ってしまうことがあるという意味だろうか。それとも幽霊に憑りつかれることがよくあるという意味だろうか。

だけどユウマはその問いを口にできなかった。幽霊が見えているユウマからすれば当たり前の疑問ではあるが、幽霊が見えない人に幽霊が実在する前提での質問をするわけにもいかない。

もし幽霊に憑りつかれることがよくあるというのなら、それほど深刻な問題ではないのだろうか。様子を見る限り、今すぐに何かが起きそうな雰囲気ではない。かといって安心していいものかもわからない。

一つ言えることは、ユウマの渾身の一言は、ただの空気の振動となって宙に消えてしまったということだった。


…続く