16
その夜は月が出ていた。今ではほとんどの通りに街灯が立ち並んでいるから、夜に月のあるなしを気にかける人はいない。日が沈んでなお明るさを増す街並みは、空から星座を奪った。裏手の手狭な小路さえ、古びた傘付きの丸電球で照らされている。だけどその夜は月が出ていた。黄色い大きな月だった。
狭間は人気のない少し広めの路地を千鳥足で歩いていた。足元がおぼつかないのは酒のせいだ。一人では飲まないが、誰かと一緒ならいくらでも飲んだ。飲みたくなると、どこかで夜な夜な繰り広げられている宴会に混ざる。少し離れた寺の裏で、友達の友達がいつも酒浸りになっているので、そこに行くことが多かった。そのまま飲み明かしてもよかったが、明日は──もう今日だが──朝から約束があった。大切な友達との約束だ。少し飲み過ぎたからといって、いつもの縄張りに帰らないわけにはいかなかった。
住宅地はひっそりと静寂に沈んで、明かりの漏れる家は一軒としてない。それなのに誰も通らない路地を街灯は虚しく照らしている。そこを見ている狭間は人間ではないのだから、誰も、と言ってしまって何もおかしくなかった。
街灯もいらない。舗装された道路もいらない。どれも人間のためのものだから、狭間にはあってもなくてもどうでもいいものだった。ただ人間のために作られたのに、その人間が居ない道脇で静かに光りを発し続けている街灯のことは、寂しいやつだと思った。
このまま真っ直ぐ進めば、やがて明鹿橋通りに出る。そこを渡った路地裏が狭間の縄張りだった。大きなあくびが出る。正直、そこまで帰るのは面倒臭い。その辺で寝てしまいたくなるのを堪えながら、狭間はとぼとぼと路地を歩いた。
すると道の向こうから誰かが歩いてきた。驚かさないよう、狭間は自然と路地の脇に避けた。そっと家壁に身を寄せると、それで人間からは見えなくなる。幽霊が見えないのと原理は同じだった。人の意識の外に身を置くことで姿を見られないようにする術を、狭間のような妖怪たちは皆身に付けていた。
狭間は壁際で人影が通り過ぎるのを待った。のんびりとした足取りは遅く、じれったかった。こんな時間に出歩いて、徘徊老人だろうか。だとしたら転んだりして怪我をする前に家に送ってあげたほうがいいかもしれない。そう思って見ていると、人影は老人ではなく、もっと若いことに気づいた。
しかし狭間が妙に思ったのはそのためではなかった。何か言葉にならない違和感があった。影は徐々に近づいてくる。歩き方はいたって普通だ。身なりもとりたてて変わったところはない。こんな夜に出歩くにしては表情が健全すぎるせいかと思ったが、それも違う。狭間は、悩むとき彼がいつもするように、眉根を寄せ唇をタコのように剥いて首を傾げた。
狭間は若者をじっと観察したが、それでも何が引っかかるのかよくわからなかった。しかし、その人物が狭間の目の前に差し掛かったとき、ふとその顔がこちらを向いた。そのとき狭間は違和感の正体に気づいた。
この人間は──人の形をしてはいるが、人ではない。
その瞬間、ナイフが喉に突き立てられた。
叫び声は出なかった。首の奥深くまで突き刺さった刀身が気道に蓋をしている。狭間がいくら口を大きく開いても、舌を突き出して動かしても、言葉の元となる音が出てこない。
「そんなのでうまく隠れたつもりだったのかな……? 色こそ見えね、香やは隠るる。そうやって化け物臭プンプンばら撒いてちゃ、頭隠して尻隠さずってところだね」
狭間は手を振りかぶろうとした。しかしそれより早く、若者は何かを狭間に貼り付けた。腕から力が抜ける。同じような物を何枚も貼られ、狭間は身動きが取れなくなった。
若者はもう一本ナイフを取り出す。刀身が背の方に向かって湾曲し柄は反対に反った和式ナイフだ。その切っ先が狭間の肉体に刺し込まれる。狭間は苦悶の声を上げるところだったが、声にはならなかった。一本目のナイフと気道の隙間から、ヒュウヒュウという風切り音だけが漏れてくる。
「痛みを感じるタイプ? 可哀そうに、運が悪かったね。でも前のやつよりはマシかも……痛みを感じるのに傷だけは治っていくやつなんてのがいてさ、本当に可哀そうだったよ。苦しすぎて気が狂いそうになってるのに、それでもなかなか死ねないんだ……。そんなやつ初めてだったから、こっちも好奇心を刺激されちゃってさ、つい色々いじくっちゃった。君はどうなのかな? どうせ死ぬんなら、あっさり死ねるほうがいいよね」
若者はナイフをグイグイと動かして狭間の肉を切り開く。まるで、獲物を解体するように。狭間は必死に息を漏らしながら首を振った。激痛とともに、自分の体が切り刻まれていく感覚。まったく体が動かないのに、それでも必死に逃れようとした。そんな狭間の足掻き藻掻きを嘲笑うように、若者はナイフをひるがえす。柔らかな身体の内側をグチャグチャに切り裂かれる。絶望的な痛みに全身が強張る。狭間は恐怖に身悶えた。涙が溢れていた。誰かに助けてほしかった。必死に友達の名前を呼ぼうとする。友達の名を呼べば、きっと地の果てからでも駆けつけて、狭間を助けてくれる、そんな根拠のない信頼があった。だけど狭間は激しく息を漏らすばかりで、彼女の名前を呼べなかった。だから頭の中で呼び続けた。涙を振り撒いて叫んだ。タスケテ──エンジュ、タスケテ──だけどその心の声は、狭間以外の誰にも届きはしなかった。
鈍い血のようなものが壁面にぶちまけられた。その染みは道の脇に立った金属製の管にも飛び散った。その光景を見ていた者は誰もいない。朝はまだ遠く、ただ足元を汚された街灯だけが一部始終を見下ろしていた。