24
そこは廃墟だった。元はクリーニング工場だったようで、天井には幾本ものパイプが走っており、広い空間には大きなプレス機や乾燥機が残されたままになっている。トタン外壁の古びた建物で、施錠されていない裏口のドアから勝手に入った真子は内側から南京錠を掛けた。
電気の通っていない廃工場内は日中でも暗い。窓から差し込む日差しがやけに明るく、暗がりに合わせて調整された目にはハレーションを起こして見える。
エンジュは縛られた状態で床に転がっていた。両手足をぐるぐる巻きにして拘束されているが、それに使われているのはガムテープなどではなく、例の咒符だった。手足以外にも体中に幾枚もの咒符を貼られ、さしものエンジュも身動きが取れなくなっていた。
そのすぐ傍らに真子は立った。普段パン屋で客を相手しているときと少しも変わらない親しみのある笑顔で、エンジュを見下ろす。
「キミ、前に黒江くんと一緒にお店に来た子だよね。キミには聞きたいことがあったんだ」
しかしエンジュは何も答えない。
「……あぁそっか。それじゃあ、話をしようがないか」
真子はエンジュの顔の前に屈むと、喉に刺し込んであったナイフを手荒に抜いた。激痛にエンジュは咳き込む。流れ出る血がその勢いで飛沫となって周囲の床を汚す。
そんなエンジュの苦しそうな素振りに真子は少しの同情も示さなかった。
「あのとき、物倉さんの親戚だって言ってたでしょ。あの人って、何者なの?」
エンジュはまだ咳き込んでいたが、ぺっと赤い粘り気のあるものを吐くと、真子を睨んだ。
「何者って、どういう意味だよ」
「どういう意味もなにも、そのままの意味だけど」
「知らねえよ」
「だってキミ、あの人の親戚なんでしょ?」
「あんなのを真に受けたのか。オレはあいつの親戚でもなんでもねえよ」
「そう」と笑顔で呟いて、真子は今抜いたばかりのナイフをエンジュの肩に突き立てた。
エンジュは思わず顔をしかめ、苦悶の声を漏らす。
「あたし、嘘つきって嫌いなんだ。親戚ってのは嘘なんだ? まぁそんな気はしてたよ。臭いの感じが違うしね。でもまったく知らない仲ってわけじゃないんでしょ」
「……あいにくだが、赤の他人だよ。会ったことも話したこともねぇ」
「だから嘘は嫌いだって言ってるでしょ」
真子は再びエンジュをナイフで刺した。それも一度ではない。刺さったナイフをすぐに抜いては、また同じように何度も何度も突き刺す。
「赤の他人のわけがないでしょ。だったらなんで親戚だとか言ってあの人のこと調べてたの。キミがあの人と同類だってのは、ちゃんとわかってるから。キミもあの人と同じで、人間のフリをしてる化け物なんでしょ。そんな化け物臭プンプン臭わせて、わからないとでも思ったの」
エンジュは悲鳴を上げた。鋼の刀身がザクザクと突き刺さるたび、焼けるような痛みが走る。裂けた服は真っ赤に浸みていき、その布地の切れ間から、グチャグチャに抉れた肉が無惨にも露出する。
「でも──消えないの。あの人は絶対化け物だったのに、なぜか消えないの。ねぇ、どうしてなの。おかしいでしょ。化け物なんだから、ちゃんと消えなきゃいけないはずでしょ」
真子はエンジュに語りかけながらも、ナイフを振るい続けた。肩だけでなく、腕や腹、脚と、気紛れに刃先を突き立てる。
エンジュは呻きを上げながら必死に首を振る。いかに痛みに強いエンジュといえども、逃れることも許されず執拗にナイフで抉られ続けるのは、耐えがたい苦しみだった。真子を睨む目の鋭さに翳りはない。それでも、痛みのあまり顔には玉のような汗が滲み、自然と目には涙が浮かんでいた。痛みを受けるたびに声が漏れ、喰いしばった歯がガチガチと震える。
「教えてよ。知ってるでしょ。あの人は何者だったの」
「し、知るかよ……何者もなにも、あいつはただの人間だろ」
「まだそんなこと言うんだ」
真子は腹立たしげに、突き刺したナイフをグリグリと捩った。
体の内側を滅茶苦茶にされていく。その深い苦痛に、エンジュは声を抑えることができない。少女の悲痛な叫び声が、空虚な工場内に反響した。
「まぁいいけど」エンジュの悲鳴を聞いて、真子は少し満足したように言った。「キミが教えてくれないなら、あの子で確かめるだけだから」
真子が目で示した先──少し離れた場所にある大きな乾燥機の足元には、気を失った陽毬が倒れ伏すような格好で横たわっていた。
「お……おい、待てよ。その嬢ちゃんは関係ねえだろ」
「関係ない? どうして?」
「テメェが殺したいのは〝化け物〟なんだろ。その嬢ちゃんはただの人間じゃねえか」
「そうやって誤魔化そうとしたってムダだって。あたしにはわかるの、あの子も化け物の臭いがするって、ちゃんと」
「テメェの鼻がイカレてんだよ。物倉美晴だって、ただの人間だったんだ」
「そんなわけないでしょ。あたしがどれだけ化け物を見つけて退治してきたと思ってるの。物倉美晴は化け物だった。それは間違いない。それにこの子も──この子は、物倉美晴と同じような臭いがする。キミのその鼻が曲がりそうな強烈な化け物臭とは違って、もっと淡い、植物のような臭い……」
そこまで言って、真子は大事なことを思い出したように、人好きのする笑顔を見せた。
「物倉さんはつい殺しちゃったから──この子は、理由がわかるまで、ちゃんと死なないように加減しないと」
「そいつに指一本触れてみろ。テメェには地獄を見せてやる」
エンジュの恫喝にも、真子は笑顔を崩さない。
「化け物のくせに、仲間意識は強いんだ? でも、いくら虚勢を張ったって、指一本動かせないでしょ。他人のことより、自分の心配をしたほうがいいんじゃない?」
「そっちこそ、オレのことより、自分の心配をした方がいいぜ」
「……どういう意味?」
首を傾げた真子に、エンジュは、半分は苦痛を滲ませたまま、不敵な笑みを投げかけた。
「案外鈍いんだな。オレがテメェの店にいたのはどうしてだと思う? なんとなく遊びにきたわけじゃねえぞ。テメェが化け物殺しの犯人だってことは、ちゃんとわかって捕まえにきたんだ。それを知ってるのは、オレだけじゃねえ」
「それって、キミの仲間が助けに来るはずってこと?」
真子は呆れたように息をついた。
「何かと思えば、そんなこと? だから場所を変えたんでしょ。キミのお友達も、この場所のことは知らないんじゃない?」
「オレの友達を甘く見るなよ。あいつだったら、こんな場所くらいすぐに見つけ出す。それだけじゃねぇ。あいつは嫉妬と執着の化身みたいな女だからな、もしオレやそこの嬢ちゃんに何かあったら、地の果てまででもテメェを追いかけて報いを受けさせる」
「……それって、やっぱりこの子もキミやそのお友達の仲間ってことじゃない」
「違ェよ。ちょっとややこしいんだが……そいつに惚れてる男に横恋慕してんだよ」
「キミが?」
「なんでだよ。オレじゃなくて、その友達がだよ」
「ふぅん……その男って黒江くんのこと? 化け物にばっかり好かれて、何なのかな。彼、ただの人間でしょ。どうしてそんなことになってるのか、すっごく気になる」
真子は以前ユウマの恋愛話に好奇心を示したときと同じように、興味津々な様子だった。
「けど今はそんな話をしてる場合じゃないよね。こうやってお喋りしてる間に、キミの友達がここを見つけ出すんでしょ」
「……もう見つけてるかもな。手遅れになる前に、さっさと逃げた方がいいぜ」
「じゃあ、折角のアドバイスだし、言われた通りにしようかな」
そう言いながらも、真子は逃げる素振りを見せない。それどころかナイフをかざすと、鈍い刃をエンジュに向けた。切っ先を引っかけるようにして、手を縛っていた咒符を切る。ただし、両手をひとまとめに括っていた部分を外しただけで、手首や腕に巻かれた咒符はそのままなので、相変わらずエンジュの肩から先は思うように動かない。
「……何をしてんだ」
その意図が読めず怪訝な顔をするエンジュに、真子は愉快気に微笑んだ。
「言ったでしょ。アドバイス通り、逃げるって。ずっと遠くへ行けば、キミのお友達だって見つけられないんじゃない」
にこやかな声で、ナイフをエンジュの腕の付け根に当てる。
「でも二体も持ち運ぶのは大変だから、少し軽くしようと思って。キミ、すごく頑丈だよね。あれだけ刺したのに平気そうな顔してるし。これなら、手脚を切り落としたくらいじゃ、死んだりしないよね」
エンジュの顔からサッと血の気が引いた。
「バ、バカなこと言ってんじゃねえ!! 手脚を切り落とす──!?」
その様子に、真子は「あは」と楽しげな声を出した。
「ちょっと必死な顔になった。いくら頑丈でも、手脚を切り落とされるのはマズいんだ。でも、その方が都合がいいでしょ。鞄にも詰め込みやすいし、持ち運ぶのにも便利だし」
「クソ、ふざけたこと言ってんじゃねえ!!」
エンジュは必死で体を動かそうとするが、咒符に縛られているせいでほとんど力は入らない。
「安心して。ちゃんと死なないように処置してあげるから。キミくらい頑丈な化け物も珍しいし、どのくらいやったら死ぬのか、もっとじっくり確かめたいから」
真子がナイフに力を込める。エンジュの腕に切り目が入り、ナイフの食い込んだ隙間からプッと血が滲みでてくる。
エンジュは泣き喚いたりはしなかったし、止めろと懇願することもなかった。かわりに、歯を剥きだしにして、怒りをぶつけるように真子を睨みつけた。
「人のこと化け物だのなんだの言いやがって、テメェのほうがよっぽど怪物じゃねえか」
エンジュのその言葉に、真子の表情から笑みが消えた。
「お前らと一緒にするな」
真子が体重を掛けてナイフを引いた。一気に肉が裂け、刃が硬い骨にぶつかる。
「化け物のくせに。人に化けて、仲のいいフリをして油断させて、そうやって人間を食い殺してるくせに。お前が言うな。あたしを化け物と一緒にするな」
真子は骨を断ち切ろうと、ゴリゴリとナイフを動かした。エンジュは絶叫する。激しい苦痛と、骨が削られる絶望的な振動が、体の芯を通って伝わってくる。
本当に腕が切り落とされようとしている。それなのに、身動き一つとれない。真子が動かないよう体を乗せて抑え込んでくるのを、どうしても跳ね退けることができない。地面に押しつけられたまま、ゴリゴリ、ゴリゴリと腕の骨が切断されていく。いくら大声を上げても刃の動きは止まることはなく、どれだけ身体をばたつかせて逃れようとしても、芋虫ほどの抵抗にもならない。
しかし片手で握れる軽いナイフに、非力な真子の力では、中々骨には刃が通らなかった。それが却って苦しみを長引かせていたが、しばらくナイフをノコギリのように動かしても、骨に刃が多少食い込んだだけで、とても切断できそうにない。
「……ダメみたい。骨ってこんなに硬いんだ」
真子は興味深そうに呟くと、一旦立ち上がって、エンジュから離れていった。
エンジュは血飛沫にまみれ、涙の溜まった目を霞ませていた。諦めたのだろうか──そんな希望的観測を抱いて、荒い呼吸を繰り返していた。
しかし戻ってきた真子が手にしていた物は、エンジュの瞳を絶望に染めるには十分な代物だった。がっしりとした取っ手に、四角く厚い無骨な刃。いかにも重量感のあるその得物は、鉈だった。山中での枝刈りや薪割り、獣の解体などに使う刃物で、勢いをつけて振り下ろせば、少女の細腕を切り落とすくらいわけはない。
真子は鼻歌交じりに刀身を拭った。有名な恋愛映画のエンディングテーマで、曲名はいつも人生の明るい側面を眺めていようという意味の楽観的なものだったが、元々は別の映画で十字架刑に処された受刑者たちが磔にされたまま歌ったものでもあった。
真子は鉈を振り上げる。すぐ近くの窓が逆光で、平の黒い鉈はシルエットになり、銀の切刃だけが外の明かりを反射してギラリと光った。その重厚な刃が、力一杯に振り下ろされる。
鈍い音がした。エンジュが唸るような苦悶の声を上げる。肉は無惨に抉れ、骨に激しい衝撃が響いた。しかし、腕は切断されていなかった。素人の薪割りのように、真っ直ぐに振れなかったせいで上手くいかなかったらしい。
真子は鉈を持ち上げると、何度か空中で素振りをした。思いっきり力を篭めるのではなく、重力を味方につけて、真っ直ぐ振り下ろされるのを確かめるように、何度も何度も試みる。
納得がいったのか、真子は満足げな笑みで、再びエンジュに鉈を向けた。
エンジュの顔が恐怖に歪む。今度こそ、腕を切り落とされる。その次はもう片腕、そして両方の脚と、四肢を切り落とされ、もう二度と今までとは同じように生きられなくされる。
絶望的な状況で、助けを期待することさえできない。さっきはああ啖呵を切ったが、さすがの紅葉でも何の手掛かりもなしにこの場所を探し当てるのは、容易ではないはずだった。
「──なに勝ち誇ってやがんだ」
それでもエンジュは最後まで強がりを止めなかった。
「そんなんで勝ったつもりか。刃物で刺されようが、手脚をもがれようが、テメェなんかには負けねぇ。この報いは絶対ェに受けさせてやる」
しかしエンジュの悲壮な睨み顔はいっそ痛ましかった。
真子は何も言わずに鉈を振りかぶった。再びシルエットとなった鉈の切刃が銀の光を放つ。柄を握る真子の手に余計な力みはなく、自然の法則に沿って刃は振り落とされようとしていた。そしてその切欠を与える最小限の力が、真子の手に篭められた。
激しい音がした。それはガラスの割れる音だった。一抱えもある大きなブロックが外から投げ込まれ、暗い廃工場内に砕けたガラス片を飛び散らせた。
真子も、エンジュも、咄嗟に窓を見た。大きなギザギザの割れ穴から、まるで火の輪をくぐるサーカスの猛獣のように、四つ足の獣が飛び込んできた。剥きだしの牙で、真子に向かって噛みつかんばかりに跳ねる。真子は鉈を闇雲に振るい、慌てて後ずさりした。足がもつれて転びながらも、必死に距離を取ろうとする。
獣はグルグルと唸り声を上げて、かばうようにエンジュの傍らに立った。
「──エニス!」
エンジュがその名を呼ぶと、獣は顔だけを向けて振り返った。いつもの愛らしい飼い犬の顔貌とはまるで違う、本来の、頂点捕食者の野性を剥き出しにしていた。
「エニス、お前、助けに来てくれたのか」
エンジュは目いっぱいに涙を浮かべて、エニスに抱き着こうとした。泣きじゃくってしまいそうなのを、エニスの毛皮に顔をうずめて堪えようとした。しかし思うように体が動かない。エニスはそんなエンジュを気遣うように、頬をペロペロと舐めると、敵の方を向いた。
鉈を取り落とした真子は、得物を取り回しのいいナイフに持ち替えていた。重心を低く、腕を目いっぱいに伸ばして、牽制するようにナイフの切っ先を前に構えている。
声高に一吠えすると、エニスは真子に踊りかかっていった。
エンジュは泣きそうな声でエニスの名を叫んだ。相手は腰が引けているとはいえ、刃物を持っている。いくらエニスが爪と牙を持ち、運動能力に勝っていたとしても、たった一撃が致命傷になることもあるかもしれない。
しかしどれだけエンジュが代わりに戦いたいと思っても、体中に貼られた咒符で動きを縛られている限り、どうすることもできない。真子に吠えかかるエニスを横たわったまま見守るしかないエンジュの胸の内は、今にも張り裂けんばかりだった。
そのとき、窓からもう一人が廃工場に入り込んできた。窓の縁に付いたままのガラスの割れ残りを砕いて、安全にくぐれるようにしてから窓枠を越えてきた少年は、少し危なっかしい様子でガラスまみれの床に着地した。
「ユウマ!」エンジュは弾けるように叫んだ。「いいところに来た、こいつを剥がしてくれ!!」
ユウマはエンジュを見て目を驚かせた。服はあらゆるところが裂け、全身が血まみれで、とりわけ腕は直視するのが辛いほど惨たらしく肉が抉れている。
「エ、エンジュ……この傷は──」
「バカヤロー、ビビってんじゃねえ! こんくらいツバでもつけときゃそのうち治る。いいから早く、このクソッタレな札を全部ひっぺがしてくれ!」
ユウマは急いで咒符を剥がし始めたが、血で滑る上にエンジュが傷だらけなので、一枚二枚を剥がすのにも時間がかかる。
「────っ」
「ご、ごめん! 痛かった?」
「気にすんな──こんなのは何でもねぇから、思いっきりやってくれ」
痛みを声に出さないよう、エンジュはギュッと口を噤んだ。ユウマが腕や胴の咒符を剥がしてしまうと、エンジュは待ちわびたように上体を起こした。スカートを捲って、脚の付け根まで貼られた残りの咒符を乱暴に引きちぎっていく。
「恩に着るぜ」エンジュはすぐに立ち上がった。「こんなに早く来てくれるとは思わなかった」
「エニスが導いてくれたんだ。きっとエンジュの匂いを覚えてて、それを辿って──」
そのとき、キャンと甲高い鳴き声がした。エニスが弾けるように真子から離れて、二人の元へ駆けてくる。
真子はナイフを持ったまま、凄烈な形相で睨んでいた。服を噛みちぎられ、血を流している。
「ユウマ、エニスを頼む」
真子に向かっていくエンジュの代わりに、ユウマはエニスを抱き止めた。エニスは口に、ポリエチレン製のチャックの付いた透明の袋を咥えていた。その中には、白い輪のような、人骨らしきものが入っていた。
しかしその骨が美晴の喉仏であると気づくより前に、ユウマは顔色を変えた。エニスを抱き止めた腕が、べっとりと赤く塗れていた。エニスの血だ。腹に創傷を受けていた。
エンジュは真子に向かって真っ直ぐに駆けていった。
「か、かかってこい!」真子は自らを鼓舞するように叫んだ。「化け物なんかにあたしは負けない! 人を襲う悪鬼羅刹どもは、みんなあたしが退治してやる!」
真子はナイフを構えたまま、もう一方の手で咒符を取り出した。掴み掛かるエンジュにカウンターで貼りつけようとする。だが、エンジュはたった一枚の咒符など意にも介さない。
ナイフを弾き、力強く突き出した手で喉輪を極めると、腕を掲げて真子を宙吊りにした。
「ようやく捕まえたぜ──化け物殺しの犯人さんよォ」
真子は苦しそうに手足をばたつかせた。必死に逃れようとするが、ビクともしない。エンジュが本来の力を発揮すれば、普通の人間などとても太刀打ちできるはずがなかった。
「テメェにゃたっぷりと借りがあったな──仲間を何人も殺られたし、大事な友達も殺された。それも散々苦しめて嬲り殺しにしやがって……あいつがどんだけえげつねぇ目にあったのか、おかげでよぉくわかったぜ」
エンジュの手に力が篭る。絞められた真子の首に血管が浮かび、怯えた顔が赤く膨れる。
「ダメだ!」ユウマは思わず叫んだ。「殺しちゃダメだ! 人間の法律を守るんだろ!」
「うるせぇ! こいつには地獄を見せてやらねぇと気が済まねぇ!」
エンジュは片手で真子を吊り上げたまま、もう一方の肩を後ろに引き絞った。拳をグッと握り固める。目は金色に光り、その憤怒に満ちた顔はまさに鬼の形相だった。
「エンジュ! 止めるんだ!」ユウマは再び叫んだ。ユウマが止めるのは、何よりエンジュのためだった。人情家で困った人を放っておけず、激情家のくせに敵にすら甘いエンジュは、ことさら人間より人間らしく振舞おうとしている。それは、昔話の鬼のように他人に恐れられるのが嫌だからだと、ユウマは知っていた。人間社会でも化け物の社会でも、過度の強さは人を孤独にする。寂しがり屋で他人と仲良くしたいのに、石を投げられ遠ざけられる可哀そうな鬼。エンジュはそんな風にはなりたくはなかった。
しかし今のエンジュは、そんな彼女が忌み嫌う恐ろしい鬼そのものだ。その上、人の社会に暮らす化生の者にはご法度である〝人間殺し〟をしてしまったら、それこそ真子が言った〝悪鬼羅刹〟と変わらなくなってしまう。「──その人は、人間の法律で裁ける!」
「知るか! 地獄で閻魔に裁かれやがれ!」
エンジュの拳が真子の腹を打ち抜いた。背中から衝撃が抜けるのが目に見えるかのような威力だった。恐怖に引き攣っていた真子の目が裏返る。四肢がだらんと下がる。
エンジュが腕を下すと、真子は糸の切れた人形のように力なく床に崩れ落ちた。
その一部始終を、ユウマは見ているしかなかった。化生の者が人間を殺してしまったらどうなるのか──ユウマも詳しく知っているわけではなかったが、前に紅葉から聞いた話では、これまでと同じように暮らしていくことができなくなるのは間違いなかった。人間に害を及ぼさないという南木との取り決めを破った者を組合が庇い立てするわけにはいかず、エンジュは人間殺しの悪鬼として、南木の刺客や、潔白を証明すべき組合からも追われる身となる。
「エンジュ……」
ユウマは力なく呟いた。
長らく誰にも使われていなかった工場での戦いで、薄く積もった埃が宙に舞っていた。薄暗い廃墟ではそれもほとんど見えないが、窓から差す陽の光を横切るときだけは、空気の流れに乗ってゆっくりと漂う塵がキラキラと光る。
そこに一人だけ立っているエンジュは寂しそうな顔をしていた。化け物殺しの事件を解決するという目的を果たしたのに、喜びの色は少しもない。思えばこの事件はエンジュにとって失うものばかりだった。犯人が裁かれたとしても、戻ってくるものは何一つない。
「ばーか、なんて顔してんだ」
エンジュはユウマの方を向くと苦笑した。
「心配すんな、殺しちゃいねぇよ。もう悪さしねぇように、ちょっと恐怖を刻み込んでやっただけだ。オレが本気で殴ったら内臓が10メートル先まで飛んでる」
そう言ったエンジュの口ぶりは、どこか物悲しくも、普段の穏やかさを取り戻していた。
ユウマはそれを見てホッとしたが、しかしそれで安堵しきってしまうわけにはいかなかった。抱きかかえたエニスは、さっきから血が流れ出て止まらないままだ。
「エンジュ、エニスが刺されてるんだ!」
ユウマは止血を試みるが、腹の深いところに傷を負っているらしく、どこを圧迫すれば出血を止められるかわからなかった。エニスを抱えたユウマの制服が、どんどん赤く染まっていく。このまま血を流し続ければ、エニスはすぐに失血死してしまうだろう。
それなのに、エニスはむしろ、立ち上がろうとしていた。苦しそうに息をついて、震える脚で体を支える。動かないようにユウマが抑え込もうとしても、深手を負っているとは思えないほど力強く、確固たる意志で、どこかへ歩いていこうとする。
「エニス、ダメだよ。動いたりしたら、余計血が──」
「行かせてやれ」
エンジュが言った。驚いてユウマが目を向けると、エンジュは真顔だった。怒っているのでもなければ、悲しんでいるのでもない。感情を強さという仮面の下に押し隠した表情で二人を見ていた。
「でも、このままじゃエニスは──」
「だからだよ。行かせてやれ」
エンジュのきっぱりとした口調に、ユウマは腕の力を緩めた。エニスは透明の袋を口に咥え直すと、ふらふらと歩いていった。向かう先には、気を失ったまま床に横たわる陽毬がいる。
いや、そこにいるのは陽毬ではなかった。陽毬の枕元に立つようにして、物倉美晴が佇んでいた。納骨堂で見た死に顔とも、新聞の似顔絵とも違う。紅葉に見せられた写真にそっくりの、だけどそれよりも安らぎと慈愛に満ちた、穏やかな表情。
歩いていく途中、エニスはふと足を止めた。何か心配するようにエンジュを振り返る。
「行け」エンジュは凛とした声で言った。「お前のご主人様はあっちだろ」
それでもう、エニスは振り返らなかった。
美晴は微笑むと、両手を伸ばして膝を曲げた。エニスが前足を上げて飛びつく。美晴の肩に前足を掛け、頬ずりするように美晴の緩やかな髪を鼻で掻きわける。ずっと会いたかった大好きな飼い主とようやく一緒になれたことを、心から嬉しがるように。
そのまま美晴が腰を上げると、エニスは軽々と抱き上げられた。日溜まりのように、天からの光が二人に降り注ぐ。美晴はまるで天女のような羽衣を身に纏っていた。そしてやはり古い絵巻物のように、天女は天へと昇っていく。
光が薄れて見えなくなる前に、地上を見下ろす美晴の口が優しげに動いた。美晴が何を言ったのか、今度はユウマにもちゃんとわかった。アリガトウ──その言葉を贈り物として、美晴はエニスを抱いてこの世界を離れていった。
後に残されたのは、横たわり穏やかな寝息をつく陽毬と、その傍らに眠るように伏したエニスの亡骸だった。安心しきった顔で、ようやく取り返した美晴の骨を大事そうに咥えていた。